2003年9月週刊東亜 400号

宗教建物 雨後の筍 … トッケビのいたずら?
[私たちの文化 私たちの風水 | 鶏竜山 ‘トッケビの里’ ウムチョル村]

宗教建物 雨後の筍 … トッケビのいたずら? トッケビの里に入ってきた建物は、大部分が宗教関連の建物.

風水の基本概念中のひとつが、土地の性格を把握して用途を決定するというものだ.
学校, 住宅, 寺刹、それぞれ別にあるということだ.
今年7月、鶏龍市に昇格した忠南 ノンサン市 ドゥマ面 オンマ里 ウムチョル村, ‘トッケビの里’として知られたこちらには、宗教関連の建物がとりわけ多く、そのような風水の基本概念に充実な土地であるのか、ここにはそれらが多い.
‘奄寺’という行政区域名もまた、まさにこの‘ウムチョル’を漢字に変えたものである.
トッケビとは、幼い時期を田舎で送った者にはなじみ深いトッケビ(註:いたずら好きな妖精)のことだ. 例えば、トッケビは力が強く、牡牛を屋根の上にあげたり, 釜の蓋を釜の中に入れてご飯を炊くことができないようにいたずらするなどの話を筆者も聞いて育った.

ウムチョルは、いったい何の理由でトッケビの里として知られるようになったのだろうか.
この村で代々暮らしてきながら13年目の里長を受け持ってきたイ・ヒョテク氏(43)によれば、元来こちらは130余所帯が集まって暮らす農村だった.
それ以前には、ウムチョルという大きな寺があったというのだが, いつできていつ亡びたのかはわからないらしい.
ところが、近隣に鶏龍隊(三軍本部)が入ってきて、このウムチョル村にも変化が生まれ始めた. いつからか、村に教会が入り始めたのである.
イ氏は、“家が五軒あれば、その中のひとつは教会になり、いまは教会が村内に100はあります”と話した.
教会だけではない. 村には宗旨が異なる他の寺, ヨガ院, 占い所, 名前も聞いたことのない新興宗教の建物が混在している.
いまでも村外の人が来て、住民たちに家の跡地を売れとしつこく迫り, たいていは寺や教会を建てるのだという.

これらの建物の類型も多様だ. 威厳がある高層建築を誇る教会, セメントで塗り固められた寺刹, スレート屋根がのせられた建物が異色な民族宗教寺院, 一般住宅にありったけのお守りを貼り付けた占い所….
日曜日には、より一層かしましい.
賛美歌, 木魚, 念仏, 呪文の声などが飛び交い、まさにトッケビたちの宴のようだ.

静かだった田舎村が、何故このように変わってしまったのだろうか? 元来、トッケビの里だったので、いまや、その土地が正しく使われているということなのか? そんなことはない.
むかし、この村にあったという‘ウムチョル’という大きな寺が亡びたことだけを見ても、この地が寺刹地として適合しないことは明らかだ.

一般住宅に作られた占い所.

しかし、理由が全くないわけではない.
鶏龍隊が入ってきながら、その近隣にあった多くの宗教建物が押し出されざるをえなかったし, 彼らがトッケビの里として知られたこちらに代替地として選択したようだ.
それなら、何故、鶏竜山は 巫党(註:ムーダン.占いや祭祀を司る巫女)や祈祷師たちに人気があったのだろうか? それは、挫折した英雄と土地に祈れば、その願いをよく聞き入れてくれるという考えのためだ.
総じて、巫祭をしたり祈祷をする理由は、自身と家族の苦痛を取り除きたいということだ.
この時、挫折した英雄(例えば、関羽将軍)などの憤怒に震える霊魂を慰め、そして、自分たちの困難を訴えれば、彼らが願いを聞き入れてくれると考えたのである.

‘挫折した土地’とは、どんな意味なのか.
私達の先祖は、山にも神格があると信じ、 朝鮮朝まで、名山に‘大神’という職位を与えて法事を行なった. 鶏竜山もそのような名山中のひとつであった.
ところが、太祖 李成桂がこちらを都邑に定めて、1年近く工事を繰り広げたが、突然取り消した.
一言で‘疎薄(註:冷遇)’を受けて、‘憤怒と羞恥心’が渦巻き, そのため、鶏竜山で願えば成就すると知られて、いつからか巫党や宗教団体が集まったのである.
この人々はウムチョルがトッケビの里だということに概して同意しない.
風水的にも良い寺刹跡地(他の宗教建物を含む)になろうとするなら、明堂(註:風水での最適地)の基本要件を揃える以外に周辺に岩壁がなければならないのだが、こちらはそうでない.
過去 こちらにあったという‘ウムチョル’が亡びたのも、まさにそのためだ.
それにしても、多くの宗教家たちがこちらに駆せ参じるのは‘トッケビのいたずら’なのだろうか? わかるようでわからない話だ.

(終わり)

キム・ドゥギュ/ ウ・ソクデ教授 dgkim@core.woosuk.ac.kr

発行日 : 2003 年 09月 04日 (400号)