2002年9月週刊東亜
350号
旧韓末の野球競技 パッチにわらじを履いて手ぶら守備 |
以下の記事中に年表記の誤りがあるようです-(*) 第350号/2002.09.05 [スポーツ裏話] 旧韓末の野球競技 パッチにわらじを履いて手ぶら守備 ![]() ソン・ガンホがただの棒に近いバットを持って韓服のチョゴリを着たままぼんやりと立っている姿が、TV予告篇に何回も出てきた. YMCA野球団出演陣は、8月14日、蚕室球場で選手団と略式試合をおこなうイベントも繰広げた. よく知られているように、我が国の野球は、アメリカ人宣教師 フィリップ・ジレットにより普及した. ジレットは、1907年(*)、YMCA会館完工前, 空地でキャッチボールをしていた米国兵士たちをうらやましい視線で眺めていた韓国人を見て, 野球が布教にとって良い媒介手段になると考えて、本格的に紹介することになったという. ジレットが導入した装備に接した皇城YMCA会員たちはまもなく野球に陥り、1905年(*)春から会館前庭を舞台にして、本格的にチームを作った. 映画にも詳細に描かれるだろうが、当時の野球規則とプレーは、今とは異なる状況だった. ユニホームも特になく、パッチにわらじ履きという姿だった. 球場も、最近の正式球場に比較すれば、町内の遊び場に過ぎなかった. 特異なことは、走者がいない状況では捕手が投手の球をいちいち受けないという点. 当時はキャッチャーミットがなくて、投球を受けるのに不便だった. したがって、捕手は球を受けないで、球が後網にかかるようにした. 変化球など、あるわけがない. 当時、良い投手は精巧なコントロールは差し置いて、誰がより速く投げるかにかかっていた. 打者の関心も、遠くへ打つというよりは、高く打つということが自慢の種だったという. それでこそ、周囲の歓声と拍手が出てきた. しかし、高く打ち上げるのは悪い作戦ではない. 投手と捕手以外には大部分が手ぶらで守備にたっていて, 時々防寒用手袋程度をはめて球を受けることもあった. 正式なグローブがないから、高く上がった球は必然的にエラーを誘発することになったのだ. 韓国野球史によれば、朝鮮の第1号審判は、キム・ヨンジェ氏. 旧韓末、軍人出身として軍隊式号令を身に付けた手並みを発揮しながら、誰よりも朗々とした声で判定を下したりしたという. 声が雄壮なことが最も重要だった. 試合の途中、両チームが規則をめぐっていざこざを起こした場合にはどのようにしたのだろうか. その場合は、無条件にゲームが中断された. そして、審判と選手, 監督などが集まって規則書をめくった. 当時は選手団と審判を問わず、野球規則を完全にマスターした人がいなかったのだ. 片方がアピールをしたら、双方が納得するまで舌戦を繰り広げるのが、当時の風景だった. 今の野球とはあまりにも異なる、当時の珍しい風景をスクリーンでまもなく見ることができるようだ. < キム・ソンウォン/ スポーツトゥデイ 野球部記者 > rough@sportstoday.co.kr
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