2002年5月週刊東亜 335号

[人と生] ライブ歌手 イ・ウンミ 裸足で踏んできたステージ …既に500回
第335号/2002.05.23

[人と生] ライブ歌手 イ・ウンミ 裸足で踏んできたステージ …既に500回

イ・ウンミさん(34)の 個人リハーサル室(麻浦区合井洞)地下階段を降りると、壁面満杯の公演ポスターが‘ライブの女王’のアジトに到着したことを知らせる.
ポスターの間に、足の裏を思い起こさせるブロンズの額縁が‘裸足のディーヴァ’を想起させる.
200席もない小劇場のステージでも, 4000席を超える大劇場のステージでも、区別せずに縦横無盡に動き回ってきた足にしてはかよわい.

5月26日、イ・ウンミはその足でライブコンサート500回の記念ステージに立つ.

“公演回数は別に気にしていません. コンサートが年中行事である歌手ならわかりませんが, 私はいつもステージに居ますから. ただ、今年は1集‘記憶のなかへ’を発表してプロ歌手になって10年目ですので、ファンの皆さんに感謝する意味で、記念コンサートとベストアルバムを 準備しました.”

今回の公演は、オリンピック公園フェンシング競技場で、ただ一度だけ開く.
ただし、ランニングタイムだけで4時間, 27曲を直接歌って彼女の音楽人生に大きな影響を与えた6名の先輩をゲストに迎える等、コンサートタイトルそのままに‘巨大なコンサート’だ.
まず、その6名の先輩が誰なのかが気になった.

“ジョン・イングォン 先輩. 私と一緒に1曲歌って、お兄さんの歌も1曲歌います.
次に、ユ・ヨル 先輩. 私が1集を出して、相変らず無名歌手だった時、お兄さんの全国ツアーに私を呼んでくれて、その後も私は盲目的な愛を受けました.
大韓民国ジャズ界の大母であられる パク・ソンヨン 先生と、私が最も尊敬するアーティスト シム・スボン 先生, そして、自分の音楽人生から外せない人 ジョン・ウォニョンさん. 3集を準備している時、信じていたレコード企画者が借金だけを残して逃げてしまい、私は音楽をあきらめようとしました. その時、また音楽をできるようにしてくれました.
もう一人, クラシック分野ですが、音楽的に互いを理解しているハーピスト クァク・ジョンさんが来られます.”

‘巨大なコンサート’を開くと言うと、ユ・ヨル氏がこう言った.

“ウンミ, 500回の時は先輩を呼んで、1000回の時には後輩たちとやりなさい.”

上下から同時に認められる歌手は多くないのだが、イ・ウンミはそのうちのひとりだ.
チョー・ヨンピル氏が、あるインタビューで最も印象深い歌手としてイ・ウンミを選び, 新鋭歌手 リネが“ダンス歌手になるつもりはありません.イ・ウンミ先輩のようにライブステージで光る歌手になります”と言ったことは、韓国歌謡界での彼女の位置を推察させる.

誰かのように100万枚ずつアルバムを売ったこともなく, TVに自ら顔を出すわけでもなく, 力のある企画社が後ろから守ってくれることもなく, 率直に可愛いわけでもない.
その代わり、イ・ウンミと言えば、誰でも歌唱力がある歌手として記憶している.

“歌手の辞典的意味として、‘歌うことを業として暮らす人’といいます. なぜ、歌手が放送に出てきて100m走ったり, バンジージャンプをしたり, トークショーに出演して人々を笑わせなければならないのでしょうか. 私は歌う才能しかなく, 音楽人は常にステージにいなければならなくて、その時の姿が最も見事だという確信を持っています.
また、ある日突然浮かび上がって、100万枚・200万枚ずつ売れては消える歌手になりたくもありません. ヒットレコードが悪いということではありませんが、大衆的に成功したレコードが必ずしも音楽的にも成功したとは言い切れないのです. 1集‘記憶のなかへ’が、今でも着実に売れています. 10年間で30万枚売りました. 2集もそういう感じですね. 自分の音楽が10年を超える生命力を持っているというのが誇らしいです.”


“私は芸能人ではなく、音楽人”

イ・ウンミは、1988年に高等学校を卒業し、新村ダウンタウン街で歌を始めた.
その時まで、彼女の音楽教師はレコードだった. サラ・ヴォーン, アレサ・フランクリン, アニタ・ベイカーの歌を聞いてボーカリストの夢を育てた.

彼女の‘セクシーな声’に最も早く注目した人がイ・ジョンソン氏であった.
89年2月‘新村ブルース’3集アルバムに参加して, 当時、キム・ヒョンシク ハン・ヨンエなどの先輩歌手たちの独特の唱法をあまねく習得した.
バラード, ロック, リズム・アンド・ブルース(R&B), ジャズ, ブルース, ソウルを行き来する自身の音楽を‘総合贈り物セット’のようだと言うが, その言葉には、どんなジャンルでもイ・ウンミのからだを通して表現されれば、そのままイ・ウンミだけのものになるという自信が強くある.

93年7月、2集‘どんな 懐かしさ’を出して、セシル劇場でコンサートをした時だった.
お金のない新人歌手の時期だと、貸館料が惜しくて、11日間、毎日2回ずつの強行軍をした. 猛暑でエアコンもまともに稼働しない劇場で、公演六日目になる日、彼女は脱力してしまった.
どんなに力を集中しても、喉からは空気の音しか出てこなかった.

“公演時刻が迫っているのに、控室の鏡の前で自分の姿を見ると涙があふれ出ました. 派手な衣装に下品な化粧, じゃらじゃらと装身具まで…. 私は今なにをしているのだろうと思いました. 思い切り泣いてしまって、化粧を拭って、ジーンズにTシャツ一枚を着ることにしました. ところが、適当な履き物がなかったのです. 持ってきた靴はすべてハイヒールでした.
それなら、と、そのまま裸足でやったのが、今まで続いているんです.”
 
‘裸足の女王(註:原文通り.通常、"裸足のディーヴァ"と呼ばれる)’というお決まりの修飾語を好まないが, 93年以後、彼女がずっと裸足で公演をしてきたのは事実だ.
ステージ上からだけではなく、録音スタジオでも彼女は裸足で作業する.
歌手によってスタジオのジンクスがあり、ある歌手は下着にこだわるのだが、彼女は裸足であればスムースに歌が出てくる.
ところが、TVに裸足で出演したこともあったが、担当PDが減給処分を受けた. 今では、イ・ウンミと言えば、当然‘裸足’だが、当時はまだ破格だった.

度々彼女の歌唱力を高く評価した公演企画者たちがミュージカル出演提議をしたが, その度に、ミュージカル俳優に対する礼儀を欠く、と拒む.

“歌をちょっと歌えれば、誰でもミュージカル俳優になれるというわけではないでしょう. 私が粗雑な踊りと演技でステージに立ったら、何年もの間汗を流してリハーサルしてきたミュージカル俳優たちに失礼でしょう.”

無名時期にも放送PDが童謡を歌えと言うと、“さようなら” と言って背を向けた彼女だ.

“イ・ソンヒさんよりもっと童謡をうまく歌う自信があったらやりましたよ. 私は童謡をリハーサルしたこともなく、そういうスタイルの歌を好きでもないのに、どうやって放送で童謡を歌いますか.”

こういう愚直さと率直さが、イ・ウンミの強力な点であり、弱点だ.
昨年、ある月刊誌に歌謡界の lip sync(註:口パク)風土を批判した文を寄稿し, 企画社と芸能人間の紛争に巻き込まれて、新譜‘ノブレス’を発表しても全く広報出来ない等の損害が並大抵ではなかった.
それでも、言うべき事はすべて言う.

“放送をする度に一番気に障ることは、音楽をきちんと演奏出来ていないということですよ.
ダンスする人たちが着飾って出てきて、口だけパクパクしているのですが, 音楽をする人々は音響に神経を使わなければならないでしょう?.でも、どんなに努めても、そんな音響施設や楽器では、lip syncの精製されたサウンドについて行くことができないですよ.
本来の歌唱力がある歌手たちも、TVに出る時には、誇張された身振りで本人の声よりも‘オーバー’になっています. 歌手を台無しにする近道でしょう. わたしはそれが嫌いです.”

5月26日、‘巨大なコンサート’は、選曲とプログラム, 衣装, ステージ, 照明, 音響まで、彼女が直接陣頭指揮した.
“私は芸能人ではなく音楽人”という イ・ウンミの10年のこだわりを証明する場になるは
だ.


< キム・ヒョンミ記者 > khmzip@donga.com