2001年5月285号 週刊東亜

アッ / ク / ジョン / オ / レン / ジ / 10 / 年


狎鴎亭(註:アックジョン.江南地区の高級住宅・商店街)オレンジ, バブルだったのか 前衛だったのか 

10年前の‘消費文化’フロンティアたちは、今どこに… 批判論にもかかわらず、‘大衆文化の最前線’を走るプロに成長 

あたかも、秋の天気のように空が清明な5月のある日の午後4時. 英字紙インターナショナル ヘラルド トリビューン 編集室の文化担当デスク イネス・ジョー記者から、流行の真ん中を横切らなければならないという義務感と、そのようなことが出来るという自信がわいて出てくる.

“大変だったんですよ, その時のそのブームというのは.” 
さる94年、わが国最初のストリートペーパー‘インソウルマガジン’の招待編集長として働く彼女は、ためらいなく狎鴎亭が“当代のアバンギャルドであった”と話す. “ピアス, ファッション タトゥー等、最近話題になっているあらゆる流行コードは、そのほとんどが90年代初めの狎鴎亭で始まったと見るのが正しいですよ.” 

もちろん大変だった, 胛鴎亭洞は! 90年代の流行コードは狎鴎亭だった. 一時代を貫通する消費文化の支配的思潮がそこにあった. しかし、狎鴎亭でなければ全てのものを野暮ったいと切り捨てる, 深刻な断絶の記憶をもたらしたのも狎鴎亭だ. したがって、狎鴎亭を‘当代のアバンギャルド’と規定するには、一抹の論議が必要とされる. どんな分野でのアバンギャルドであったか, まさにその点が問題だ.

‘Fubar’. 90年代中盤、狎鴎亭で‘遊んだ’という人には、この酒場を知らない人はない. 93年、このカフェを作って運営した人は、当時24才のバニー・ジョー. 人々がオレンジだと呼ぶだけの完壁な条件を揃えた僑胞(海外在住韓国人)出身者であった. 彼が初めて見た狎鴎亭は“幼稚そのものだった.”“その時は、米国国旗がかけられているウェスタンバーが流行していましたが, それは全く米国式というものではありませんでした. その時やその前にでも、米国にはそのような酒場はありません.” 人々は狎鴎亭を流行の先端だとか文化の道だと話したが, 彼が見れば、米国文化を粗雑に模倣したに過ぎなかった. 

それで、彼は直接作った. 当時としては斬新なグラフィティ(grafitti)をしておく等、完全に自身が知っている米国式バーを作っておくと、‘クール(cool)な所’を探してさ迷った人々が集まり始めた. “単に私と友人たちが気楽に遊ぶだけの空間を作ってみたかったのですが, 成功してしまいました.”

“光褪せた狎鴎亭には、ファーストフード店と郷愁だけが残って”

とにかく、狎鴎亭はこのように始まったのだ. 韓半島の歴史上初めて消費に慣れ親しんだ世代が楽しく遊ぶことができる、自分たちの空間を作り始めたのが、狎鴎亭の出発だったのだ. 彼らの文化は、‘既成世代が成し遂げた階級文化を(複写して)視覚的に突出させた’(ド・ジョンイル・ 慶煕大 英文学科)ことであるが, 彼らの認識に階級文化的見解と論理はなかった. 単に、良いから, 作って、訪ねただけだ. そのまま、クール(cool)だから!

タレントであり、歌手のイ・ヘヨン(29)も、‘他の所とは違う雰囲気だから’ 狎鴎亭をうろついた. しかし、‘江南出身でもない’彼女にとって、この通りは、他の生が開く夢の空間になった. 彼女がCFモデルとして仕事をするために出入りしていた忠武路(註:映像産業が多くあつまっている)広告企画社の間で、狎鴎亭が新しい世の中に変わったという噂が飛び始めた91年頃だ. “地下鉄のキップとコーヒー一杯のお金さえあれば、学校があった仁川から江南まで走ってきました. そのまま座っているだけでも、それほどよかったのですよ.” 

狎鴎亭で会った人々と共に狎鴎亭を背景に撮影して、彼女はスターになった. 彼女のように集まった人々の中のある人は、俳優になったりモデルになることもあった. “イ・ジョンジェ, チョン・ウソン… 皆、その時、私が出入りしていた喫茶店でアルバイトしていた人たちです.”

10年前くらいに、ソテジが歌った. ‘決して時間がとまることはない/ まさに、今があなたにとって唯一の時間であり/ まさに、ここがあなたにとって唯一の場所だ/ 幻想の中にあなたがある’ (‘幻想の中のあなた’).

時間は流れた. 90年代序盤、胛鴎亭洞の熱いブームが、この社会に支配的な論壇の話の種になってから、すでに10余年が過ぎた. 10年間この通りでは、果してどのようなことが行われたのだろうか. どちらかといえば、狎鴎亭は幻想であったかも知れない. 光が褪せた今の狎鴎亭を見れば、当時の狎鴎亭は、仮想の通り, 想像の都市ではなかったかという感じさえする程だ. 

“不満が多いです. だいぶ変わってしまいました. マクドナルドが狎鴎亭を代表するようになってからですよ. どこに行っても見ることができるファーストフード店が通りを占領したので、狎鴎亭だけの特異ななにかが残ることなどできるでしょうか?” 

三歳の時、ベルギーに入養しながら韓国を離れたが、写真作家になって帰ってきたビンセント・ソン(33)の所感だ. パリでファッション雑誌の写真作家として活動した彼が、韓国を初めて訪ねたのは、狎鴎亭文化が頂点に達した頃だ. “むしろ、以前に撮った写真を見て、郷愁に浸るくらいですよ. もう、この路地を歩いても、むかしを思い出す外にありません. 懐かしいものです.”

IMF, ファッション産業の沈滞と共に、狎鴎亭も活気をなくした. 某ファッション企画社チェ・ジョンチョル室長(37)は、このように話す. “物足りないって? そうではありません. 空間とは、どちらにせよ浮き沈みするものです. その速度があまりにも速いのではないかという声は聞くけれど….”

今や、狎鴎亭を語る人々は郷愁を話す. すでに? すでに! 速度はファーストフードだけでなく、通りの風景にも適用される. 速度が変える文化の殺伐さ、または無慈悲さだ.

ファッションの国 フランスも驚いた狎鴎亭全盛期

しかし、この社会がほとんど初めて向き合い対立した、深刻な貧富格差, その公論化, その通りにあふれ出た盛んなうわさは、速度の無慈悲さにも相変らず色濃い記憶として残っている. そのうわさはこうだった. 独占資本とブルジョア階級の合弁による新植民地, 欲望の疾走, 消費と排せつ….

狎鴎亭は、果してそうだったのだろうか. そこでは、本当に‘風が吹けば丸見えの、あの太腿 太腿’と、‘ウェンディーズの少女たち’による‘快楽の墓地’であり、‘体制のサンマ缶詰め工場’でだけあったのか(ユ・ハの‘風が吹く日には胛鴎亭洞に行かなければならない’). それほど、食べて遊ぶこと以外には何も育たない不毛の土地に過ぎなかったのか.

チェ室長は、“93年まで、流行の教科書は日本でした. ヨーロッパや米国のものが、日本で掬い上げられて韓国に入っていました. ところが、狎鴎亭でそれが破られました”と話す.

大抵のブランドは、どれもが海外で広告を撮影していた時期だった. それ自身のみだけでなく、世界各国をまわって仕事をする多くの‘お隣’たちの高まった見識が、“パリのモンテーニュ通りに比肩しうる町並み”を作った力だった. アジアでは、まず、狎鴎亭に最初に店を開いたというフランスのファッション会社 社長が胛鴎亭洞を見て、“韓国とはこういう国なのか”と驚きもした.

10年前の私達の社会は、狎鴎亭を語るときに、‘消費文化’という言葉をよく使った. 消費に文化という単語がくっついたのも、その頃が初めてだった. どのようにして、消費が文化になることができるのだろうか. 
この問いに対する答えがまさに狎鴎亭だったなら、あまりに行き過ぎた解釈だろうか. 確実に10年前の‘狎鴎亭談論’は、文化よりは消費に偏っていた. しかし、今や私達が注目するべきことは、‘目を凝らす好奇心を持った人々’によって変わり始めた大衆的消費文化のコードではないだろうか. まさに、それでビンセント・ソンは、“その小さな通りの中に、好奇心で目を凝らす人々が満杯だったということは、明らかに魅力的なことでした”と話す.

“時代的変化の欲求が狎鴎亭ブームを醸成”

狎鴎亭は、‘日毎に変わる文化の、その何か’というイメージを強化して、準機能を行使したかといえば、はっきりしない. 特に、全世界を支配する消費文化のコードが、すぐに国家競争力として認識される程に急変した今の市場を見れば、より一層そうだ. ‘黄色頭(註:いわゆる茶髪の黄色版.同名の映画タイトルによる)’が、文化商品として扱われ, もう‘けしからん奴らの悪ふざけ’ではないように.

東京で生まれ、米国で育ったイネス・ジョーの特異な感覚も、狎鴎亭に出会って頂点に達することができた. 
パーティーを開いて遊びながら、彼と友人たちは、自分たちが注目され始めたということを感じた. それが、ビジネスの開始だった. そのようにして組織した文化グループ ‘カメレオンズ’の展示会は、盛況した. 
“その友人たちが、結局、今文化の最前線を走るプロになった. 音楽, ファッション, スタイル 等、あらゆる分野に及ぶ.” 
外国のことをまねするのに忙しかったあらゆるクリエィティブ分野が、狎鴎亭で起きたブームを基点として、新しい形式に変わったというのが、彼女の確信だ. したがって、狎鴎亭は、彼女にとって、一種の進取性に通じる. 

実際、狎鴎亭の進取性は、この10余年間、私達の社会の各分野に文化的活力を吹き込んだというのも事実だ. 洗練さと高級さは、‘賎民資本主義の表象’として, 商品は‘物神が崇拝を受ける寺院’として認識するフランクフルト学派の批判論にも, 文化産業の熱気とその複製性の陶々とした流れは決して留まることがないという点でもそうだ.

イ・ヘヨンの場合もそうだ. ‘ロード キャスティング(註:路上スカウト)によるスター誕生’物語が絶えることなく拡大再生産し、神話になったが, イ・ヘヨンは狎鴎亭で‘別のなにか’を見始めた.

“満足ではありませんでした. お金をたくさん儲けることよりも重要ななにかがあるのでは、という考えが起こったのです.”当時、狎鴎亭を‘作って動いた’人々, 感覚のある企画者たちとファッション専門家たちに会いながら、イ・ヘヨンは‘文化’を考え始めた. “衣装コーディネーションという新しい夢を持ったのも、狎鴎亭で会った方達の助けが大きいのです. ファッションがTVでなく、路上でなされることという点も、その時初めて知りました.”

もちろん、ある日だしぬけに跳ね上がった狎鴎亭の正体と実体性は、ソウル江南を除外した大多数の他の地域の人々には馴染まないものだった. 狎鴎亭の正体と実体性に関して、10年前 ド・ジョンヨル教授は、‘特異な弁別の記号学とゲーム規則による差別化’と規定した.

“私は91学番(註:91年大学入学.民主化闘争最後の世代)なのでした. 大学生が通りで威圧されていました. 友人たちは、石ころを持って出ようと、じっとしていることができませんでした.”
 放送人 イ・ギサン氏(31). ケーブルTV m-netの 1期 VJ出身で、‘演芸家中継’を通じて顔なじみだ. 
半ズボンにサンダルをはいて旗を掲げると、人々から‘オレンジがデモを行うぞ!’という冷やかしを受けた. 
“昼には思い切りデモをして、夕方には友人の誕生日パーティが開かれるナイトクラブに行きました. 片側では人々が催涙弾の被害にあったり大騷ぎが起こったのに, 橋ひとつ渡ると、なんのこともなく平穏な江南でした. 狂ったように遊ぶ友人たちを見ると、‘いったい、なにを’したいのだろう.” 
彼は、なにが狎鴎亭を作ったと考えるのか. 
“チョー・ヨンピルからソテジに移る時点でした. なにか変化を願った時代だったのですよ. 今考えてみれば、その欲求が狎鴎亭ブームを作ったようです. また、そのような時がくることがあるでしょうか? 時代が支えない限りむずかしいと思います.”

‘狎鴎亭文化第1世代’として称されても遜色無い 崖Mの ホン・ソンピョ社長(50)は、そのような変化への欲求を‘文化リーダー’という単語で説明する. 
彼は、95年に10万ウォン台国産ジーンズ‘ニックス’(NIX)をヒットさせて、GUESSとカルバン クラインに占領されていた市場を席捲した張本人だ. 
“80年代に文化リーダーたちが集まる場所は新村だったものです. 90年頃に、流れがこちらに越えてきました.”
彼は、自身がデザインというソフトウェアを作る人だと強調した. そのソフトウェアは、先んじる何人かの人が作るということだ. そのような意味で、狎鴎亭はそういう人々が呼吸できる場所だったとホン社長は回想する. 
“結局、そのなかで遊んで、楽しんで、食べてしまううちに、見る目が高まったものです. 肯定できない方達もあるでしょうが、どちらにしても、こういう空間はどこかに続いていくものです. それが自然なことです.”

もちろん、彼も狎鴎亭文化に対する否定的な見解をよく知っている. 特に、ブッキングで代表されるナイトクラブ文化は自身も嫌いだと話した. けれども、そのような姿は、性的に抑圧された、当時の社会の雰囲気による副作用に過ぎないというのが、彼の主張だ. “酒に酔って‘ヤッタ!’と叫ぶことが狎鴎亭文化だと考えるのは誤りだ”という話だ. 
“感覚的に先んじている友人たちが集まれば、若い女性たちもついてくるようになっていますよ. そういう中には、気の抜けた子もままいるものではないでしょうか?”

景気不況による反発心理か, 自分勝手にさまよう流行心理か、10年ぶりにまた超ミニスカートが流行する、2001年ソウルの初夏だ. 10年前の‘トンコチマ’で、今は‘ウルトラミニ’という名前に変わったが、男ものの洋服ジャケットのボタン穴が3つから4つに, また2つにと、くるくる循環するように、狎鴎亭はなくならなかった. むしろ、通りひとつ渡ったとなりの清潭洞のように、その外縁を拡大再生産している. 小説家 イ・スンウォンが、‘非常口のない胛鴎亭洞’続編の‘今, 胛鴎亭洞には非常口がない’を10年ぶりに、ほとんどタイトルも似せて出したように.

“えーと, その時どうだったのか、記憶がよく思い出せなくて.”
清潭洞のあるヨーロッパ風カフェの野外テーブルで会ったスタイリスト パク・ヘラ氏(40)の最初の言葉だ. 過ぎた10年の時間、実感が起きることはないようだった. 通称ロデオ通りと呼ばれた界隈は、明らかに以前より明るく若くなったが、その分荒くなったというのが、彼の考えだ. 
“狎鴎亭が新村や梨花大前と区分できる部分がほとんどなくなりました. 公開されて開いている空間の代わりに、もう少し秘密めいていて特別な場所を 人々が好むようになったのでしょう.”
清潭洞だけで120に達するというバー(bar)の流行は、そのような心理を反映しているようだとパク氏は解析した.

“ヤッタと叫ぶ醜さが狎鴎亭の正体ではない”

彼女は、“結局、人が最高のインテリア”という. 結局、どんな場所でも、その品格と商業的価値は、そこにどんな人々が集まるかによって決定されるという話だ. この点で、狎鴎亭, それに続く清潭洞は、相変らず‘開かれた空間’ではない. その姿は、どちらかといえば、5対95でより急激な分割構図を産む‘IT 資本主義’の矛盾に似ている. まさに、そのような点で、狎鴎亭はソウルとこの国の矛盾, 全世界的ディストピアの姿を縮小してみせてくれる. しかし、文化とは、そのような不調和と矛盾で育つようになっている. どこでもリーダーたちは存在する. それが消費文化であろうと, 文化消費であろうと. そのようにして、文化はもう一つの地平をひらく. たとえ、‘深さの問題’を克服するのが難しくても.

“今、私は‘第2の狎鴎亭’のような波を待っています. 全てのものを新しく始めることができる契機になる爆発です. 私の感じでは、そんなに遠くはないようです.” 
イネス・ジョーの言葉だ.



< ジョ・ヨンジュン記者 abraxas@donga.com >
< ファン・イルド記者 shamora@donga.com >