2002年9月 新東亜

“米8軍ステージでも ‘私達のもの’を悩んだ” 韓国大衆音楽100年, 

2002年 9月号 

[韓国大衆音楽 スター列伝@] 

韓国ロックの大父 シン・ジュンヒョン 
“米8軍ステージでも ‘私達のもの’を 悩んだ” 韓国大衆音楽100年, 

いつのまにかアジアを巻きこむ寒流・熱風の主役としての位置を占めた歌謡の底力はどうやってできたのだろうか.
その過程を注意深くみるために、‘新東亜’は大衆音楽界の巨人に会い、彼らの音楽世界を照明するシリーズを用意した.
その最初に、デビュー40年を迎えるロック音楽の大父 シン・ジュンヒョン(64)氏.
彼は相変らず暗いスタジオで、音楽に対する熱情を燃やしている.
(編集者) イ・ジンモ 大衆音楽評論家 www.izm.co.kr 

1974年、若者達の間で人気を享受したTBCテレビのある生放送ショープログラム.
キム・セファン, ソン・チャンシク, イ・ジャンヒ 等々、フォーク歌手たちの多彩なステージが終わると、司会者は出演歌手たちと共に突然、粛然とした言葉で次の出演者を紹介した.

“今日、本当に重要な方をお迎えしました. 私たちの音楽に新しい一線を引いた方です.
シン・ジュンヒョン氏です.”

担いでいたエレクトリックギターがからだよりずっと大きく見える37歳の主人公は、矮小な体躯に風貌もみずぼらしかった.
これまで音楽界ではかなり有名だったが、大衆的に顔が知られた人物ではなかったため、視聴者は単に‘あの人がシン・ジュンヒョンなのか’と思っただけだった.
だが、この日、彼が演奏して歌った曲‘美人(ミイン)’は、放送した瞬間、即刻ヒットし、翌日には全国をこだまして一瞬のうちに三千万人の愛唱曲として鳴り響いた.

‘一度見かけて、二度見かけて、また見たいよ. そのひとが誰か、本当に気になる…’

子供も大人も関係無く皆が歌ったこの歌は、しかし、何日が過ぎた後、また聞けなくなった.
マリファナ波紋と歌謡規制措置で、禁止曲として撤退をさせられたのだ.
ありふれた‘愛唱歌謡選集’のような歌本からも、この曲はもちろん, 彼の歌は全て削除されてしまった.
彼は、言論を通して‘マリファナ歌手’という烙印を押され, 時間が流れるうちに大衆から徐々に忘れられて行った.
1980年、活動規制が解かれながら‘美しい山河’を歌って再起したが、大きな反響を起こせなかった.
以後、彼が持続的に繰り広げたレコード活動も、やはり大多数のファンから敬遠された.

シン・ジュンヒョンが姿をあらわした後に流れた40年の歳月を見る時、彼を現在いわゆる‘スター’のひとりと規定することは難しい.
彼にはファンたちの熱を帯びた歓呼の声も, 兄さん(オッパ)部隊(註:おっかけ)もなかった.
おもしろい事象やスキャンダルで新聞・雑誌に載ったこともない.
しかし、彼よりはるかに爆発的な人気を享受した他の歌手たちが歳月と共に皆消えた今, 彼は追憶に埋められるどころか、いきいきと生きている‘現在進行形’音楽人だ.
“私たち皆は、シン・ジュンヒョンから出てきました”
息子よりずっと幼い歌手たちが‘韓国 ロックの大父’と仰ぐ彼の名前にいつも言及する.
最近、ワールドカップブームを通して上昇価を記録しているロッカー ユン・ドヒョンは、“私たちのロックのあらゆる始まりは、シン・ジュンヒョンから出てきました”と話す.

1996〜97年、歌謡界に突然‘シン・ジュンヒョン旋風’が吹いた.
1997年、シン・ジュンヒョンの音楽を賛える後輩歌手たちがトリビュート(tirbute・献呈)アルバムを作った時, 彼らは23年前のTBC番組の出演歌手たちがそうであったように、“我が国の大衆音楽をここまで引っ張ってきてくれたシン・ジュンヒョン先生にこのアルバムを捧げます”という忠心の献辞を伝えた.
1960〜70年代を飾った音楽を記録して 整理する時、彼は間違いなく先頭に立つ.
私たちのミュージシャンたち, 特にロック歌手たちは彼という山を登ってこそ真のミュージシャンになるという一種の義務感を持っているほど彼の影響力は強大だ.

インタビューのために8月2日、彼に会った.
いつのまにか頭を覆う白い髪の毛は、短身の体躯となじんで、巨匠の風貌をかもし出していた.
初めて電話をかけてインタビューを請うと、“私はそのような所に出るほどの人物でしょうか”と言いながら快諾してくれた彼だが, さて、共にした席では自身の音楽と過ぎた時期を、あたかも暗記していたように、わだかまり無しにさらさらと解きほぐしてくれた.

ソウル ソンパ区 ムンジョン洞 ロデオ通りにある、彼の執務室であり個人スタジオ‘ウッドストック’は、16年前にできた時の、まさにその場を変わらずに守っていた.
室内には彼のトレードマークであるエレクトリックギターと一緒に、ドラムセットなどの楽器と録音装備で満杯だった. お金ができれば、すべてこちらに注ぎ込んだことがひと目で分かる程だ.
彼は、“たぶん国内の音楽関係者で、ここに来たことが無い人はいないと思います”と、話を切り出した.


-16年前にお買いになったから、今頃は地価がかなり上がったでしょうね.
目覚ましい速度で変わっているその近辺が珍しいと思い、筆者が聞くと、彼の返事は意外だった.

“買ったのでなく、月貰(註:ウォルセ.月家賃)です. 私はお金に関しては関心もなく、知っていることもなくて….”
そして、彼は“そのことはこれ以上話すのをやめましょう”と求めた.

40年の歌謡界生活, 推し量るに難しい程数多くのヒット曲を作曲した老音楽家には作業室を買うだけの経済的余裕もなかったのだ.
筆者は瞬間恐縮した.


朴正煕 賛歌作曲 拒否

席に座るやいなや、彼の音楽人生で最も鋭敏な部分に単刀直入に切り込んだ.

-聞きにくい質問ですが、いずれにせよ出てくる話なので、まず尋ねます.
音楽人としてシン・ジュンヒョンは、1970年代, 特に朴正煕大統領の第3共和国や維新時期とは分けられない人物だと思います.
栄光もありましたが、それよりは統制と抑圧でその時を記憶するのですが, 朴正煕大統領またはその時代と歪み始めた決定的な契機は何だったんでしょうか.

“答えづらいというよりは、うんざりするという思いがまずこみ上げます.
1972年でした. 政治的に平穏でしたが、突然維新独裁が始まるまさに直前でありましたし、私は一連のヒット曲を飛ばしながら、歌謡界で最高の席に上げられた時でした.
ある日、‘大統領府’と身分を明らかにした一本の電話がかかってきました. 誰なのかはわからなかったのですが、通話はほんの5〜6分程度で短かったですよ.
‘朴正煕大統領の新しい統治を内容にした歌を作ってくれ’という内容でした. 言わば、朴正煕賛歌を作れということでしたよ.
私はすぐに‘そのような歌は書き方を知りません. なぜ、わざわざ私に対してそのような注文をするのですか’と反問しました.
向こう側にすれば、私の口調が無愛想なように感じたかもしれません. そうですが、自分としては丁重に断ったと思います.
彼らの立場では、そのような拒否意志自体、有り得ないことだと思っていたようです.
その時から、ことが絡み始めましたよ.”


-政権次元が頼んだことだと拒むのが容易ではなかったでしょう.

“もちろん、快く受け入れることができ得るでしょう. 別の見方をすれば、栄光の場合もあるわけです.
しかし、特定人の賛歌は私の音楽とは合わないのです. 前も今も私は純粋に音楽をしているのであり, 特定の人を称賛したり嫌う手段としては曲を作りません. 
音楽性を追求する境遇で、そのような歌はしてはならないでしょう.
また、私は政治に関心がなかったのですが、見たり聞いたりして, 内心、朴大統領の統治スタイルが気に入りませんでした. 就任初期の約束である民権委譲も守らなかったし.
そこに、自分の自負心が作用したことも事実です.
‘私はこう見えてもシン・ジュンヒョンなんだ’と、自ら首に力を込めていた時期でありましたね.”


-その事件以後、具体的にどんな受難にあわれたんですか.
それに対する抵抗の意味で‘美しい山河’を作ったという話を聞きましたが.

“一言で言えば、音楽をするのが難しくなりました.
まず、公演会場に常時警察が取り締まりに出てきました.
電話事件以後、政治的な状況は非常に良くありませんでした. 独裁が進んだ時でしたよ.
私はかえって、独裁者ではない我が国の山河と国民のための歌を作ろうと思いました.
それが、1972年 グループ ‘ザ・メン’時期の‘美しい山河’です.
その時、MBCの土曜日ショープログラムに出演して、この曲を歌いました.
出演は私が提議しました.
その放送でリ―ドボーカルであるパク・グァンスは落髪し、他のメンバーは耳にヘアピンを刺して長い髪をたくし上げ、長髪をより強調しました. 一言で言えば、強圧に対する不満を表明したのですよ.
それが憎悪を生みました.
これを見た故ユク・ヨンス女史が‘作れという朴大統領の歌は作らずに反抗している’と言って、あの方を爆発させたという話も聞きました.
それからは長髪取り締まりがより激しくなって、自分の曲は継続的禁止処分になりました.
決定打は言うまでもなく、1975年に炸裂したマリファナ波紋と歌謡規制処置ですよ.”


“マリファナ? 我家に山のようにあったって”

シン・ジュンヒョンは歌謡史上の最大事件として記録された1975年のマリファナ波紋と切っても切れない人物だ.
最近は芸能界ロビーと関連して騒がれもしたが、マリファナ波紋当時に比較すれば‘湯飲み茶碗中の台風’程度に過ぎない.
当代最高の人気フォーク歌手たちがぞろぞろ捕らえられた(27人拘束, 9人立件)が、事件の最大犠牲者はまさにシン・ジュンヒョンだ.
当時、言論が彼に付けたレッテルは‘マリファナ親分’であった.
事件が作り出した衝撃が非常に大きいため、四半世紀が流れた今でも既成世代はシン・ジュンヒョンから‘不穏’と‘退廃’のイメージを完全に除去できないのが事実だ.
この話をしながら彼が興奮しないかと心配したが, 意外に落ち着いて事件の全貌を聞かせてくれた. 終始とんでもないという語調であった.


-どんな経緯でマリファナ親分などと呼ばれることになったのでしょうか.
当時、先生の音楽はヒッピーの音楽であるサイケデリックジャンルであり, サイケデリックが幻覚を起こす麻薬関連音楽であったから、論理的に違うとは言いきれないようですが….

“その頃、私は米8軍ショーで最高に有名でした. 一度はAFKN米軍放送に出演する機会もありましたよ.
米軍の間で人気があったため、招請されて録画をしたのですが, 終ってから録画テープを見たら、画面デザインがゆがんでいて、むやみに回転し, 総天然色であまりに派手なのですよ.
一言で、衝撃を受けました. よく聞いたら、それがサイケデリック手法だというのですよ.
‘あ, これは一度習う必要があるだろう’と、ヒッピーたちのサイケデリックロックを探して聞き始めました.
それで、その時から外国のサイケデリック曲も演奏してみて、歌謡としても作りました.
ところが、反応が我国の人々達より、むしろ韓国に来ているアメリカ人たちからずっと速くきました.
当時、市民会館(今の世宗文化会館)で公演した時は、とりわけ米国人, 特に全世界をさすらって旅行していたヒッピーが多かったですよ. 1970年代でしたから.
我国の人々はおかしな目で眺めたのですが, その友人たちは予想外に温和でジェントルでした. 何より、私が作るロック音楽を非常に好みました.
公演が終われば行くところがなくて、私が家に連れていって寝させ、肉も食べさせました.
彼らが離れるとき、感謝の贈り物として渡されたのが、まさにマリファナでした. どれほどたくさんもらったのか、部屋に何本か転がっていました.
その時は、マリファナや大麻草という名前も知りませんでした. 米国の友人が‘ハッピースモーク’と 呼ぶので、そうとだけ思っていました.
後になって、周辺の同僚歌手たちがマリファナについて特に意味も無く‘我家に山のように積まれていた’と言いましたよ. くれという人に対して、特に考えもせずに渡したこともありました.
その後のマリファナ事件時、彼らが取り調べを受けながら私の名前に言及し, 私は突然‘歌手たちのマリファナ供給の責任を負った親分’に変身したわけです. 事は、そのようにしてできたのです.”


その上に憎しみを受けていて、‘正しく捕らえられた’シン・ジュンヒョンは、1974年12月、マリファナ調達罪に指定されて、当時の南大門市場 女性会館地下の麻薬司法 顧問室に連行される.
そこで水拷問など、話にできない苦労を体験した彼は、以後4ケ月間収監された.
これで彼の音楽的全盛期は事実上幕を下ろすのみだった.
それは、ひとりシン・ジュンヒョン個人の辛苦ではなく、この国の大衆音楽全体の圧死を意味することだった.
シン・ジュンヒョンは“マリファナ事件は、それ以前まで道を築いてきた私たちの音楽の水準とガッツを一気に貶めてしまった”としながら、いまだに憤怒の心情をおさめない.
音楽家の創作的自由と実験精神が浅薄なこの土地に、新しい音楽文化を築造して牽引してきた主体がまさしく彼だったので, 彼がその道を防いだ維新時代と和解できないということは、どちらかといえば当然のことなのかもしれないという気がした.

1938年、ソウル 新堂洞で生まれた彼は, 高校中退後、エレクトリックギター 練習に没頭、ギターを学ぼうと訪ねた米8軍ショー団のある舞踊家の紹介で米8軍ステージに入城した.
シン・ジュンヒョン 音楽人生の序幕になった米8軍ステージは, 彼を通して韓国ロック音楽の発祥地というタイトルを持つことになる.
ロックというジャンルが私たち固有のことではないだけに、米軍ステージが韓国ロック音楽の初めだったというアイロニーは、むしろ自然なこととして受け入れるべきではないだろうか.


韓国式ロックで勝負

1960年, 二十二の年齢でシン・ジュンヒョンは米軍情報部所属‘シビリアン クラブ’で、最初にギター独奏公演を開き、米軍人たちの爆発的反応を引き出した.
これに自信を得て、ついに当時では想像するのも難しい, 多くの時間が流れた今でも相当な勇気が必要な‘ロックバンド結成’を敢行する.
これが、韓国最初のロックグループという栄誉を得た ‘アド・フォー(Add4)’であった.


-アド・フォーの開始は正確にいつですか.
誰かは1962年と言い、ある記録には1963年だと書かれていて、資料ごとに若干ずつ差を見せるんですが.

“1963年が正確なものです.
私がギターを弾いて、歌は ソ・ジョンギル, ベースはハン・ヨンヒョン, ドラムはクォン・スングォンが担当して、主に米8軍ステージで演奏をしました.
当時はロックバンドの旋風が全世界的に吹いていました. それに助けられてバンドを作ったのです. ‘グループ’という概念だけを見る時、韓国はもちろん、国際的にもだいぶ先んじていたことは明らかです.”


-時期的に英国のビートルズと重なるのですが、もしかしたらビートルズの影響ではないでしょうか.

“そうではありません. グループを作ってから、ビートルズ旋風が英国を強打しているという話を聞きました.
その時、‘お? ビートルズは私たちと同じだよ’と、驚いたことを思い出します.
ビートルズブームに一歩遅れて便乗しようとしたこととは違い, 単に時期的に一致しただけでしょう. もちろん、後になって、ビートルズをL真似してユニホームを合わせて着て, ‘I wanna hold your hand’のような曲を演奏したこともありました.
しかし、‘雨の中の女’が収められたアド・フォーの初アルバムを作った 時は1964年秋ですから、ビートルズが米国を征服した後であることと合います. 市民会館で録音している頃、ビートルズの米国征服の報せを聞いたのです.
結局、その年の冬にレコードを出したのに、出すやいなや、市場では死にましたよ.”


-以後、ドンキース, クウェッションズ, ゼロ楽団, コンボバンドなど、一連のロックバンドを結成するけれど成功できませんでした. それでもバンドという形態を持続していったことは、今の基準からみても珍しく思う程です. 主体の意思がありましたか.

“バンド生活をする時や他の歌手たちに曲を書いてあげる時、私は明確な概念を建てていました.
その時期には音楽的趣向が色々な形に分れていました.(イ・ミジャ, ナム・ジン, ナ・フナの)トロットが大衆音楽界を掌握していて, 音楽鑑賞室に出入した大学生はポップソングに, 大人はパット・ブーンなどの穏やかなスタンダードポップを聞いた時期でした.
そんな状況でロックをすると出るのは無謀なことでした.
しかし、私はトロットでないながらも、現代的なリズムと和音を使った私達だけの大衆音楽が可能だと確信しました.
米8軍で演奏していた時から、“私一人でもこういう方向に行くべきだ”と決めていました.
例えば、‘私は韓国人であるから、外国のロックをしても、必ず私達のものになって出てくる’という信頼でしたよ.
ちょっと専門的に話すと、西洋は長調, 東洋は短調が一般的です. 自動車のクラクションを聞いても、外国は長3度, 東洋は短3度です。
私は‘短調で長調の気分を出す’という目標を建てました. そこには、韓国の土地で生まれて育った人ならば韓国的サウンドが可能なはずだという確信がありました.”


2年間作詞学習

-色々な歌手たちに書いた曲のほとんどがみな空前のヒットを記録したが, バンドは‘美人’時期の‘小ヒット’を差し引くと、結成したことごとに失敗しました. ちょっとアイロニーな結果です.

“バンドはなにぶん実験的な側面が強いため、大衆性が薄くなりがちなのです. でも、私はそれが必ずしも失敗だとは感じていません.
バンドは共同行為なので、メンバー間の結束が重要ですよ. それで、1曲1曲を作るうちにより苦労して一貫性が落ちたのです.
その上、繰り返し言うようですが、その時代の状況とロックがよく溶け合わないこともあります.
私が‘コンボバンド’ 等を通してジャズをした時、切実に感じたことは、‘やはりジャズは米国のものだ’ そう, 換言すれば私の領域ではないという結論が出ましたよ.
その反面、他人に与えた曲は、さっき話した‘外国形式 - 韓国の味’の接続が相対的によく作られて出てきました.
‘美人’や‘美しい山河’はグループ 時の曲ではありますが、そのような点で大衆的にも成功できたのではないかと思います.”


-作詞者と作曲者が徹底的に分かれていた当時の風土で、作詞・作曲をどちらもされたのも記憶に残っています. どちらかといえば、国内最初のシンガーソングライターといっても言い過ぎではないかもしれません.
作曲の指向はわかりましたが, 作詞はどのようにされましたか.

“暫く苦労するとサウンドパターンは正常になったのですが, その一方で常に歌詞で苦労しました.
外国の素敵なロックに私たちの歌詞を付けて歌えば、幼稚な感じが残ります. それで、作詞に関する研究で2年を送りました.
結局、‘しかし’‘そうして’のような接続詞を使ってはだめで, パッチム(註:子音止め)がない語彙を主に選ぶなどの方法を試しました.
でも、最も切実だったのは、音によってよく流れる単語を使わなければならないという事実でした.
そのためには、できるだけやさしい言葉, 内容はなくても感情が滲み出る言葉の展開がなされなければならないのです.
たとえば、‘雨の中の女’を例として挙げましょうか.
‘忘れられない 雨の中の女 そのひとを 忘れられないよ’という歌詞1行だけを聞いても、その絵が浮き上がってこそ正しくできた作詞であるのですよ.
そのため、歌詞をよく消化して表現する歌手個人の力量が絶対的に重要なのです. 歌手の生命は歌詞をどれくらいリアルに伝達するかによって決定されます.”


‘マルチ’でこそ音楽が生きる

やはり音楽家らしく、音楽の話には自ずと興味を示した.
彼が苦心した、このような問題と解答は、以後の歌手たちにも相当な影響をおよぼすようになる.
恐らく、彼の音楽経歴で最もきらびやかだった時点は、キム・チュジャ, パールシスターズなどに曲を書き、当代最高の作曲者とプロデューサーとして活躍した1960年代末と1970年代初期だったことだ.
たとえバンド活動では不遇だったが、この分野だけは‘シン・ジュンヒョン師団’という言葉まで産んで、驚異的な成功行進を繰り返した. はなはだしきは、アルバムに対する呼応を誘発するために、パールシスターズでも、パク・インスでも、師団所属歌手たちは誰も彼もが‘シン・ジュンヒョン 作・編曲集’という言葉をアルバムカバーに付けなければならなかった.
シン・ジュンヒョンの猛烈な活躍によって、その頃の韓国の大衆音楽はルネサンス時代を迎えたようだった.


-‘シン・ジュンヒョン師団’という言葉は誰が初めて使い始めた表現ですか.
いわゆる‘師団所属歌手たち’の中で先生が見て、最も能力が飛び抜けた人が誰であったかが気になります.

“師団はメディアが使った表現です.
私が書いた曲を歌ってヒットした歌手が相次いで出てきたところ、そのような言葉を使ったのです.
一番最初は、イ・ジョンファでした. 後日、他の歌手たちがヒットさせた‘花びら’や‘春の雨’のような歌を歌ったのですが、残念なことにに反応はなかったのです. その後、ベトナムで歌手として活動するために去っていきました.
その次が、まさにパールシスターズでした.
実は、私もベトナム戦特需を狙ってベトナムに行こうとしたのですが、最後にパールシスターズに書いた‘あなた’が大ヒットして、ベトナム行きをあきらめました.
続いて‘あなたは遠くに’‘ベトナムから帰ってきたキム上士’で最高価になったキム・チュジャが出てきて,‘春の雨’のパク・インス, リメイクを多くしたジャン・ヒョン, イム・アヨン, キム・ジョンミなどがいました.
キム・ジョンミはサイケデリックサウンドの歌が多かったのですが、成功できずに残念です.
最も飛び抜けた歌手? 誰だということはありませんよ. 皆、それぞれの歌詞伝達力と表現世界を持っていたでしょう. 一言で‘水準’がありました. 最近の歌手たちとは次元が違います.
ただし、この話はしたいですね.
自分の経験から、最も歌が良いのは皆初めてアルバムを出す時だったという事実なんです.
なにぶん、最も集中力がある時, 最も汚れていない時期に出したレコードであるためだと思います.
成功して、すこし有名になると、だんだん首に力が入っていきますよ. すると、音楽が出てこないのです.
ミュージシャンに重要なことは、やはり‘純粋な姿勢’ということです.”


-シン・ジュンヒョン師団の歌手たちやグループ時期の音楽を丹念に聞いてみると、‘韓国ロックの大父’という言葉が色を失う程、いろいろなジャンルを駆使している点を発見できます.
‘コーヒー一杯’は、ロックスタイルである反面, ‘春の雨’は黒人音楽であるソウルです.
たまにジャズの臭い, スタンダードポップの雰囲気をもった歌もあって、カントリー風の歌もあります.
最近の音楽家たちからは発見するのが難しい多様性なのですが, そのようなマルチプレイはどこから始まったと考えますか.

“結局、米8軍での経験に戻ります.
米8軍のクラブステージは、1ジャンルだけの音楽を持っての活動が不可能でした.
出入する軍人たちの出身成分によってジャンルが違いしましたよ. たとえば、私が出演した‘エアマンズ’のようなクラブは、一般兵が出入して,‘エンシオ’のような店の客は上士や兵長が多かったのです. また、‘アップソースクラブ’は、将校が主に出入する所でした.
‘エアマンズ’では、主にロック・アンド・ロール, ‘エンシオ’ではカントリー, ‘アップソースクラブ’では スタンダードポップを歌わなければならなかったのです.
‘エアマンズ’で品格あるスタンダードポップをすると野次が飛んできました. クラブがどこにあるのか, 部隊に黒人と白人のうち、どちらがより多いかによって、彼らにふさわしい音楽をあらかじめ準備しなければならなかったのです. 部隊の要求に合わせて急いで編曲する場合も再三再四でしたよ.
音楽をたくさん聞かないと不可能な状況でした.
クラブ活動とは? 最近の言葉でライブではありませんか? 自分の経験をおいて話しますが, 多くの曲を聞いて、演奏して、ライブをして、多様な音楽が出るのですよ. 音楽は‘マルチ’でなければ、死にます.”


“今でもヒット曲を作ることができる”

-1960〜70年代を席捲した先生の音楽の正体を、1・2節と規定するならば、何だったのでしょうか.

“難しい質問ですね. 敢えて言うと、20世紀が産んだ最も偉大な文化遺産はロック・アンド・ロールで, 1960〜70年代はまさにそのロック・アンド・ロールの時代だったと思います. ロック・アンド・ロールは、若さの純粋さ、そして自由の表現です. 私がした作業も、まさにそれでした.
端的に言って、ロック・アンド・ロールで音楽の自由を実践したということでしょう.
いつもそのような考えをするのですが、さて言葉で言ってみたらちょっとかた苦しいですね.”

しかし、シン・ジュンヒョンの名前は決して韓国ロックの始祖という、過去の位相には留まらない.
彼が残した曲は後輩歌手たちによって列を作り、再照明されながら, 30年が流れた近頃、人々の耳をやはり貫通できることが確認された.
‘美人’はポム・ヨルム・カウル・キョウルによって,‘あなた’はシン・ヒョボムによって,‘あなたは遠くに’はジョ・グァンウとジャン・サイクによってよみがえり、歌謡界にリメイク熱風を作り出した.
昨年にはキム・ゴンモが、40余年前に作られた‘雨の中の女’をまた歌った.
これは単純に歌謡史の巨木という有名性の他に、独創的な音楽性がもたらした結果として解析できる. 実際に、‘天才的な和音展開’という側面から、シン・ジュンヒョンの音楽はクラシック音楽従事者たちもその非凡さを認める.


-一方では、最近先生が作る音楽はあまりに難しいという指摘も出ます.
過去のように大衆的なヒット曲をまた書くことはできるでしょうか. ‘美人’のような曲が今出てきても、感覚的でありえるようですが.

“今でも心すればヒット曲を作る自信があります(この大きな課題で、彼は大きく笑いを炸裂させた). しかし、老年になったいまは、大衆の中に入っていく時ではなく、しめくくる時点として考えます.
守旧することはみっともないですよ. 死ぬ前に私がしたいことをしておくのが重要です.
自分の音楽の決定版はまだ出てきていません.
心に必らず届く曲, 心に必らず届くアルバムを出せずに、ここでこのようにうずくまっているのです.”


“偽りの音楽が幅をきかす時代”

-近来の音楽環境は、過去とは大きく変わりました.
ミュージシャンも、先生の時とはスタイル, 姿勢, 音楽の叙述方式など、あらゆる面で異なります. この頃の音楽をどのように見ますか.

“どんなに外国音楽をしても、韓国人という自覚が必要です.
韓国人が先天的に保有した情緒, 固有の表情, 音調, 長短(註:リズム)を知らなければならないのです. それが韓国音楽をするための‘根本’なのです. 根本を土台として、共感できる外国のことを受け入れなくてはね.
この点で、最近の若い友人たちは外国のことを無差別に輸入し、方向感覚を喪失しました.
マスコミも、全く見分けができないのです.
仮に、そのような音楽人(註:自覚をもった音楽人)がいてもメディアが注目しません.
視聴率が高いプログラムを製作するのに及々として、まさに重要な私たちの創造的文化は投げ飛ばしている状況です.
韓国文化を中心に置くべきなのに、現実は正反対に流れていてせつないです.”


シン・ジュンヒョン氏はインタビュー の終始、自身の音楽世界と指向を説明しながらも, 最後には明確に近来の私たちの歌謡と歌手に対する無念さを表現して、この時代の音楽に対する失望を表明した.
“真の音楽は死んだ”としながら、今を‘偽りの音楽が幅をきかす時代’と断言した.
それとともに、孫と同年配の後輩歌手たちには、当面の人気に執着したり安住する姿勢の代わりに‘死ぬ気で音楽をする苦行の態度を見せてくれ’という要請を忘れなかった.

彼は、今秋を期して2種類の会心のプロジェクトを企画している.
ひとつは‘未練’‘旅立たなければならないその人’‘遅くなる前に’‘あなた’など、大衆の愛を受けてきた自身の作品18曲を新しく演奏・編曲したアルバムを市場に発表することで, もうひとつは野外大型ステージで無料コンサートを開催することだ.
アルバムは“あらゆるジャンルがみな私とひとつの輪を成して、天然の価値が見出せる音楽, そのような真実の音楽だけを享受する永遠な生命力”を見せようと, 公演は後輩音楽人にライブの重要性を説破するために準備しているという説明だ.
彼は‘音楽史の巨匠’という賛辞に満足ではないようだった.
静かに座って名誉を享受するよりは、‘歴史と大衆に対するサービス’を絶えず準備しているのだ.

彼が提供しようというサービスのコンテンツを念入りに繰り返し見ていたら、PR費事態として歪んだ私たちの歌謡界に対する窮極的処方箋のように聞こえた.
韓国大衆音楽の一時代を開いた、この小さな巨人の話は、インタビューが終わった後にも脳裏に残ってこだました.

email: newsroom@donga.com