“初めて留学に行くと言った時、猛烈に反対した妻が、いまは、最も強固な後援者ですよ”
昨年3月、放送活動を中断して、日本留学に出発したコメディアン
イ・ボンウォン.
彼はコメディアンとして活動していた間に限界を感じ、留学を決心したという.
妻
パク・ミソンの反対を後にして、日本に渡っていった彼の夢は、日本コメデイ界に進出して、専門コメデイ
プロダクションを作ること.
自身の夢を成し遂げるために、自分で食事の仕度をして、洗濯して、家族と離れて住む苦労を厭わない彼に、日本現地で会った.
□ 文・ユ・ジェフン<ルポライター> □
写真・イム・ジウォン<フリーランサー>
コメディアン イ・ボンウォン(37). 彼はコメディアン
パク・ミソンの夫であり、二人の子供の父でもある.
そのような彼が、99年3月, ‘うまく行っていた’
放送活動を閉じて、日本について知りたいという理由だけで,
反対する妻 パク・ミソンを後にして東京へ留学にきた.
彼に初めて会ったのは、昨年. ‘韓国ギャグ界のドン’
チョン・ユソンから
“一度会ってみないか”と誘われて、新宿で会い、共に夕食を食べた.
一般的にコメディアンといえば、明るくて素朴な人だと考えやすい.
だが、彼に会って、このような考えが完全に変わった.
会えば会うほど‘几帳面な’面が目に付いてきたためだ.
彼は、誰が食事の支払いをしたかを書いておいて、その次の機会には自身が支払わなければ気が済まない.
世話になることを嫌っているかのように.
一回は、自動車を持っている留学生の後輩がイ・ボンウォンと家が同じ方向なので、帰る時に彼を送ろうとした.
ところが、翌日後輩から電話がかかってきた. 彼が
電車の駅ですぐにおりたということだった.
その電車の駅から彼の家までは、少なくとも一時間以上はかかる道のりであった.
その上、途中で他の電車に乗り換える面倒があった.
それにもかかわらず、電車で行くと言い張って、止むえず駅前に降ろしたという.
こういうことは、その後にも何度もあった.
そうして、留学生の間で、彼は‘几帳面家’と呼ばれるようになった.
2002年ワールドカップを韓日共同で開催することになり、いっそう高まった日本に対する関心.
だからなのか、以前は学問的な研究のために日本に留学にいった人が多かったのだが、最近は、職業の専門性を育てるために日本を訪れる人々が非常に増えた.
特に、芸能人の中に日本留学派が多い. 映画俳優 イ・ミスク
ジョ・ヨンウォン, タレント イ・ジウン,
ちょっと前に故人になった ソン・チャンホ, 80年代初め<今はどこに>という歌で大人気を享受した歌手
ジョン・ヨン, コメディアンでは、イ・ホンリョル
イ・ギョンギュがいる. そして、昨年には、コメディアン
イ・ボンウォンが日本留学にきた.
1年間の日本語学校を経て、去る4月に2年制専門学校の東京ビジュアルアート
研究科に入学した イ・ボンウォン. 半ズボンにTシャツ,
肩に重たいかばんを持って電車からおりる彼の姿は、まちがいなく大学生だった.
ソウルでは自動車が交通手段だったが、日本では電車が彼の足になっている.
たまに友人に会い、遅くまで酒でも飲めば、タクシー代がもったいなくて、サウナで夜を明かして、夜明けに電車に乗って家へ戻るらしい.
“ソウルにいる時は、ふんだんに好きなように(お金を)使っていたけど、ここは日本ですからね.
日本では、たいていのものが高くてねえ.
はじめはアルバイトをしてみようかと考えたのですが、学校の授業と時間が合わなくてあきらめて、代わりに最大限に生活費を惜しんで使っています.”
他人に世話になることを嫌い、仇名が
‘几帳面家’
一ケ月の生活費は、約30万円(3百万ウォン)程度がかかるのだが、全額ソウルの家から支援を受ける.
そのうちの8万円が家賃.
彼が暮らすアパートは、東京都心からかなり離れた竹の塚という所.
ソウルで言えば、シフンくらいになる地域だ.
ところで、彼の家に行ってみると、驚くべきことに、20kgもの韓国米があった.
“なぜ”と、尋ねると、“韓国米を包んでソウルから持ってきた”という.
まさに、そのそばには国産電子レンジが置いてあって、棚には韓国ラーメンが山積みになっている.
台所は男一人が暮らす家ではないように整理整頓がよくされている.
ソウルにいた時は、ただの一回もご飯を炊いたことがないという彼が、今は衣食住全てのものを自ら解決しているという.
‘学び舎3年ならば、風月を詠じる’と、今は料理の手並みも腕を上げて、味噌チゲもよく作るそうだ(いつだったか、一回、都内中心街にある新宿の韓国食品材料店でチョゲチョ(註:貝の塩辛.キムチの材料などに使う)を買っている彼と偶然に出会ったこともある).
少し前、3泊4日でやってきた妻
パク・ミソンさんのために、キムチチゲを作ってやったという.
講義時刻表は徹底して学生本人が決めるのだが、彼は一週間のうち、3日は午前
9時から午後6時半まで, 2日は午後1時から夕方9時半まで授業があるという.
また、土曜日には学校に行かなくてもいいのだが、彼は授業を聞いていると言った.
指定された他の大学に行って、講義を聞いて一定期間を修了すれば、準教師資格証明を与えられるためだ.
彼が勉強する学校に行ってみた.
彼の話通り、実習中心の講義であるからか、講義室ごとに放送機資材が一杯あった.
学生達は実際に放送機資材を使って実務を学ぶらしい.
“私が仮にイ・ボンウォンさんと全く同じ立場にあったら、果してあれほどできるか疑わしいですよ.
習おうとする意欲が強いですね. 有名なコメディアン
イ・ボンウォンではなく, 学生
イ・ボンウォンさんの姿がかっこいいです.”
別名‘コンピュータ博士’と呼ばれているという同じ韓国人留学生
イ・ジェヨンさん(34)の話だ.
同じ学校に通いながら、彼に対する認識を新たにしたということだった.
日本人の学生達や学校当局も、彼が韓国で有名なコメディアンであったという事実を知っているという.
NHKが彼の日本留学生活を紹介する20分ドキュメンタリーを製作するために、学校に撮影をしにきたためだ.
また、ちょっと前には、6大日刊紙中の一つの東京新聞の文化面に、インタビュー記事が大きく載ったこともあった.
すごいのは、さる6月1日、NHK TVで放送されたドキュメンタリーの内容だ.
ドキュメンタリーでは、彼が直接企画案を持って、ラジオ放送局を訪ねる場面が出てくる.
日本ラジオの音楽プログラムDJをしたいと、直接企画案を書いていって、担当プロデューサーを訪ねたのだ.
だが、残念なことに、企画案を見せてその場でマイク
テストまで受けたが、単独DJはむずかしいという判定を受けた.
代わりに、お互いに対話をやり取りする形式のダブル進行ならばおもしろいかもしれないという、プロデューサーの提案によって、今回はアナウンサーと共に進行テストを受けた.
もちろん、日本語で進行するプログラムだ.
これに対する結果は、現在未知数. 一旦は、2002年ワールドカップ韓日共同開催を控えて、韓国語を添えて音楽プログラムを進行してもおもしろいだろうという担当者の言葉と共に、積極的に検討してみるという言葉を受けただで終わった.
ドキュメンタリーには、彼の積極的な 挑戦意識, 学校生活,
アパートで一人ご飯を炊いて、洗濯して、勉強する姿,
日本人の友人に会って酒を一杯呑んで交際をする、日本留学生活がそっくり含まれていた.
韓国芸能人が日本の公営放送で、このように大きな比重を持って扱われたのは、非常に異例なことだ.
おかげで、韓国留学生たちの間では、今でも彼の日本生活が話題になっている.
いままで‘半遊び人式’の留学生活をしている途中で戻った一部芸能人たちのために、良くなかった彼らに対する認識を彼が変えたのだ.
では、彼はどんな心から日本留学にきたのだろうか.
“以前から放送活動をしていて、留学に行きたかったんです.
特に、大学で日本語を専攻したため、日本に対する関心が大きかったんです.
いまは製作技術に関して、本格的に勉強をしています.”
“夫人の反対がなかったのですか”と尋ねると、彼は“ないわけないですよ”と、“敢えて日本まで行って2年もの勉強をしなければならないの”と、反対をされたという.
“でも、私は一度やると言ったら、する人間なんです.
私は妻にこのように話しました.
したいことをしないで後悔するよりも、してから後悔するほうが良いよ.
その上、日本の放送は韓国より先んじているでしょう.
わたしは日本に対しては恥ずかしくても、習うべきことは習わなければならないと考えます.
過去、日本は太平洋戦争時に米国に敗れたけど、門戸を開放して米国に追い付いたではないですか?
私たち韓国もそうでなければならないと思います.
そのような意味で、わたしは日本に来たのです.”
韓国での放送活動には、概して満足だったという彼は,
しかし、なにか常時何となく寂しかったという.
演出者が要求する分だけを演技するところから来る、相対的剥奪感だった.
だからと言って、演出者が注文する演技に対して“あ,
少しだけ、こんなふうにしてみたらどうでしょう?
そうすれば、全く面白い演技になるのでは”などと意見をいってみたくても、全くそのようなことはできなかったという.
それは越権行為だったためだ.
放送と新聞報道で、日本でも有名に
彼は、自身が直接構想をして、演技をしながら製作までしてみたかったという.
自身がコメディアンなので、人々を笑わせ、泣かせることには、誰よりも自信があった.
だが、他人から演出の指示を受けなければならない演技者としては、明確な限界があった.
限界を跳び越えるために不断に努力したが力不足だった. 演出,
演技,
製作を、ギャグという一ジャンルで総括するには、自身の実力が非常に足りないためだ.
それで、果敢に決断を下した.
一度の人生を終える前に挑戦してみたくて.
未来に対する具体的な設計図を描いておいた.
韓国に専門的なのコメデイプロダクションを整えるということだ.
“可能ならば、日本のコメデイ界にも挑戦してみたいですよ.
今までは歌手たちだけが日本の芸能界に進出してきましたが、今では、コメディアンも挑戦してみるに値すると思います.
それで、いろいろ見てきて、不可能だとは思わないです.
韓国人の情緒と日本人の情緒が、ほとんど類似していますよ.
特に、人間の喜怒哀楽を表現するコメデイは、より一層似ていますね.”
自身満々な彼に、韓国コメデイと日本コメデイの差異点をたずねた.
“日本コメデイ界は、お金が豊富ですが、韓国コメデイ界は製作費に制限があります.
水準の高い作品を作るのが難しいのですよ.
また、日本は、思いつくまま表現できる反面、韓国は素材の制約も多く、教育的,
道徳的水準まで正さなければならないのです.
コメデイはそのままコメデイだとだけ見ればいいのに、低質だとか政治的であるとか、注文が多いです.
そして、日本のコメデイには固定観念がないですよ.
良く見ると、あらゆるアイディアが笑いの素材として登場します.
同じ職業人として、日本の条件が本当にうらやましいですよ.
コメデイは、人を笑わせるものです.
笑えばそこまでであって、そこにまたなにを願いますか?
生意気な話ですが、まず視聴者の見解から開かねばならないと思います.”
彼の日本留学生活は、まさに無から出発したという.
日本では自らあらゆる事をしなければならなかった.
代わりに、韓国では公人として周囲を常時意識しなければならなかった反面、日本では完壁に自由人になることができる.
そうだからか、からだと心が非常に健康になって、人間的にもだいぶ謙遜になったという.
“ソウルでは感じることができなかったことをたくさん感じました.
少ないお金の大切さ,
限定された金額で節度を持って暮らす規則的な生活,
それで、最近、私は生まれて初めて日記を書いています.
日本語でね.”
実際に、彼の日記帳には、日本語で書いた一日の日課が、非常に小さく記録されていた.
彼の几帳面な性格を見せる一面だった.
彼と話を交わしながら、ふっと彼の自己主張中に、それと無く家父長的で男性中心的な自己が濃厚に孕まれていることを悟った.
それで、彼に単刀直入、“そのような性格が、もし、夫人パク・ミソンさんを疲れさせてはいませんか”と尋ねてみた.
そうすると、彼は、そうでなくても周囲から彼ら夫婦についての言葉が多いと言った.
一言で“彼はともかく、パク・ミソンがかわいそうではないか”と話すということだ.
“そのような時に、私は一杯の酒よりも、支柱でありたいと答えます.
周囲で何と言おうが、関係ないですよ.
家内は周囲のそのような視線を嫌がりますが、逆に考えてみれば、そのような女性と暮らす私のほうが、よりおおらかな男だという意味ではないですか?”
確実な内助を約束した妻 パク・ミソン
彼は自身満々だと見うけられた.
すこし前に日本にきたパク・ミソンは、熱心に勉強する彼を見て、自負心を感じたのか“精一杯世話をするから、してみたいことは何でもしてみなさい”と、激励を惜しまなかったという.
そのような妻が有難くもあり、一方では限りなく申し訳ないともいう、イ・ボンウォン.
“そんな性格で、どんな言葉で、私はパク・ミソンさんを誘惑したか”と、彼は真っ白い歯を出して笑って、“10回伐って、倒れない樹がどこにあるか”と反問した.
“初めて見た瞬間から、悪くない女性なので、私に嫁に来いって….
というわけではありません.
偶然、コメデイ番組に夫婦役で共に出演しながらお互いを知るようになりました.
劇中で暮らして、ぶつかって、抱かれもしながら.
その間、私の姿を見て、結局、パク・ミソンがわたしの女になったということですよ.”
衛星放送を通じて、自身が出演したNHK TV放送を見た家族が激励を惜しまなかった彼は、特に妻が最も喜んだと自慢した.
彼の窮極的な夢は、日本コメデイ界に正式にデビューすること.
そして、そのようにして積んだノウハウを生かし、コメデイ専門プロダクションを作ることだ.
“今まで、同僚たちと以前の自分を比較してみたことがありません.
また、今の空白期をマイナスだと考えてみたこともありませんよ.
もちろん、金銭的にマイナス要因はあるけれど、未来を考える時、決して無駄ではない投資だと思います.
たとえ、私が成し遂げようとした夢を失敗したとしても、絶対に後悔しませんよ.
その失敗経験は、それ自らが私に無言のアドバイスをしてくれるからです.
いまは、こうやって前だけを見て走っています. 熱心に勉強して,
多くの人に会って、多様な経験をするのです.
そして、いつかは私が行く道が確実に見えてきますよ.
その時までは、わたしの中に潜在的にある、あらゆる能力を引き出すつもりです.”
来る2002年ワールドカップまでは、自身の夢を実現させてみるというコメディアン
イ・ボンウォン.
彼は、まるで戦地に出てきた戦士のように意欲に燃えていた.
彼はインタビューを終える間際に、一言付け加えた.
“日本の人々に韓国コメデイの真髄を見せてあげます.
それほどユーモアがない日本人たちに、韓国の笑いをプレゼントすれば、それがまさに韓日文化の架橋の役割をするのではないでしょうか?
私がまさにそのようなことをするつもりです. いや, やり遂げます.”
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