98年8月
女性東亜
日本陶磁器の 始祖 陶工 沈壽官‘400年ぶりの帰郷’インタビュー |
今年は丁酉倭乱(註:慶長の役) がおきてから4百年たった年. その時日本に連れて行かれた朝鮮陶工たちとその後裔は、日本に陶磁器文化を花咲かせた. その中でも日本陶磁器の代名詞格の薩摩焼宗家の沈壽官家は、4百年間も自分たちの姓氏を守ってきたという点でより一層関心を集める. 先祖の土地から日本に連れ去られてきた初代から14世孫の自身まで、沈壽官家の作品を一ケ所に集めた展示会を開く沈壽官氏は胸がいっぱいになると話す. 文 李ヘリョン 記者 / 写真 東亜日報 写真部, 出版写真部 -------------------------------------------------------------------------- 4百年ぶりの帰郷’. 7月7日から8月10日までイルミ美術館で展示される沈壽官家の陶磁器展のために韓国を訪れた沈壽官家の当主14代沈壽官氏(72)は、今回の展示会を‘歴代 沈壽官 報告展’と呼びたいと話す. ![]() “先祖が初めて日本の土地を踏んで以来、4百年間、 沈家14代が積みあげた陶芸技術の伝統と作品の中に込めた生を見せて,‘韓国文化の一粒のもみが日本でこのように成長しました’という感謝の報告をしたかったのです.” 先祖の土地で4百年を賛える展示会を開くことになった時、彼は先ず父を思い起こしたという. 1964年、癌で世を去った13代 沈壽官は、病床で息子にこのように話した. 息子に教えるために残した陶磁器 “今後、34年が流れれば、初代が朝鮮から連れてこられて4百年目となる. その時は、誰が家主になっているか? お前か、どうかすればお前の息子の時代かだろう, 誰に代わってもまともに祭を上げてさしあげたい.” 死を目前に、激しい痛みに顔を歪め、高熱に苦しめられながらも34年後の4百年祭を考える父の話から、彼は大きな衝撃を受けて, 14代 沈壽官として家門を引き受けて以後、引続き4百年祭に対する責任感に苦しめられたという. “何度も夢で4百年祭を見ました. 数多くの人々が雲のように集まって、初代一行の文化的功績を称賛してくれる夢も見たし、いつだったか、誰も4百年間の文化的貢献を認めてくれないで、振り向くこともせずに、ひとりで息子の手を引いて檀君を祭る玉山宮を参拝するみずぼらしい姿に夢の中で泣いたこともありました.” 沈壽官家の先祖 沈ダンギル一行が日本に連行されたのは、丁酉倭乱が終わる頃の1598年 冬. 彼らは薩摩藩主 島津の軍隊に捕まり、日本の南の九州でも最南端の薩摩(今の鹿児島)に到着する. 水の器でさえ、木で作って使う程、陶磁器に関して何も知らなかった日本人の土地で朝鮮陶工たちは窯を開いた. だが、火山灰が吹き出すように出てきて、硫黄が混ざった鹿児島の土では赤黒い陶器しか焼くことができなかった. だが、千辛万苦の努力の末に、白い陶磁器を焼くことができる土とそこに合う窯で焼く方法を捜し出した. 日本に連行されて20年目のことだった. 日本の貴族たちが願った、白い陶磁器を作りだした功を認められて、彼らは朝鮮の両班階級に該当する士族という待遇を受けて、生活に苦労することなく暮らすようになった. だが、陶工は現代の勤労者と同じで、勤務時間に作った陶磁器は全部、藩主に捧げなければならなかった. したがって、今回展示される作品は、厳格な制約の中でひたすら息子に伝えられ教えるために残しておいたもの等だ. したがって、中には窯の中で傷がついた物やひびが入った物もある. だが、沈壽官氏は先祖が生きてきた証拠であり, また、息子に教えるために残した物であるため、その値うちはお金で表すことができないと話す. “私が大学に通っていた時、敗戦日本の経済は難しかったし、私の家も事情が良くなかったのです. 父は山林と田畑をひとつふたつと売って、近所に‘これで沈壽官家も傾いた’という噂が立ちました. 私は父に、‘山林と田畑を売れば、人々がうわさをするから、目立たない古い陶磁器をこっそり持ち出して売ればどうでしょう?’と話したことがあります. その時、父は怒った表情で‘我家の陶磁器は、初代以来の陶工の魂だ. 首が折れても売ってはならない. 命をかけて守って、次代に伝える物なのだ’と断固として言いました.” 沈壽官氏は、今回展示されるいろいろな作品中に、人々が必ず見て欲しいものとして、初代 沈ダンギルの大碗‘ひばかり’と、12代 沈壽官の‘龍蔵式 大花瓶’をあげる. ‘ひばかり’は韓国語で‘火のみ’という意味だ. 火だけはやむを得ず日本のものだったが、土と釉薬と、それを使用した陶工は皆、朝鮮のものだという自尊心と悲痛が含まれている(日本人たちが陶工を連行する時、土と釉薬も共に持って行った). 高さが2mを超える‘龍蔵式 大花瓶’は、1867年パリ万国博覧会に出品されて、ヨーロッパ人から日本の陶磁器が最高だという賛辞を受けた作品だ. 現在の沈壽官氏の祖父になる、12代 沈壽官は薩摩焼 中興の始祖と呼ばれる人物で、日本政府から何回も賞状と勲章を受けた. 沈壽官家で最も有名で飛び抜けた12代 沈壽官を賛えて、その時から沈壽官家の当主は‘壽官’を世襲名で使用している. 頑丈な鉄の輪になれ 今回の展示会では、陶磁器の他にも初代 沈ダンギルが使った網巾(註:髷のある男が髪が散らないように頭に当てた帯状のもの), ハングル本と子孫に韓国語を教えた本等、沈壽官 家の遺物等も共に展示される. 初代 沈ダンギルが連れてこられた時に頭に当てていたという網巾は、沈壽官家の一番の宝物だ. 初代の涙と汗が染み付いているこの網巾を譲り受けた人だけが、沈家の当主の資格があるという. 初代の古い網巾を家宝とするように、沈壽官界の家訓もまた大袈裟ではないが、意味が深い. ‘栄達を願うな’‘金銭を追うな’‘勤勉に仕事をしろ’ ということだ. “若い時、有名な陶芸家ということへの誘惑は敵でありました. 父の厳しい言葉に、私は泣きながら‘私はなぜ陶工にならなければならないのですか? どのように生きるべきなのですか?’と立ち向かったことがあります. その時、父は、‘お前の息子を陶工にしろ. そういうことだ. 私たちの家門の歴史を続けてきた人々は、ひとりひとりが一つの輪に過ぎない. しかし、父の輪, 息子の輪がつながって、沈の数十代の歴史が作られてきた. 君もその輪のひとつになることだ. お前の家長として最も重要なことは、15代になるお前の息子をきちんとした輪に整えて、歴史を継続することだ’ときっぱり言いました. 行き過ぎでは、という考えで‘では 有名にならなくても良いというお言葉でしょうか?’と、反問すると‘頑丈な鉄の輪ならば充分だ. 丈夫な輪を継続してすれば、金でできた輪のように光る人が生まれるはずだ. その時まで家風を正しく守って、家訓を旨とすることだ’と言いました.” 彼は、早稲田大学政経学部をでて、一時は国会議員の秘書官としてで仕事をしたりした. 時々、彼は他の道を行くことができたのに、どうして伝統を続けたかという質問を受ける. その質問には、4百年を一様に継続してきた陶工の家族に対する感嘆と称賛が含まれている. 彼は率直に、伝統をつなぐという途方もない考えは全くなかったと話す. “仮に、私が後継者にならなければ、あらゆる可能性を捨てて先祖伝来の業いに一生を捧げた父の一生がむなしいものになってしまう, 父があまりにも気の毒だという考えで家業を続けたのです. はじめから伝統という大きな目標を目指して出発していたなら、まちがいなく途中で疲れてあきらめたことでしょう.” 彼の父、13代 沈壽官は、京都帝国大学で哲学を専攻し、哲学者 陶工と呼ばれたほど学識が飛び抜けた人だった. だが、日本軍国主義の全盛期に当主になったため、飛び抜けた陶器技術を発揮できなかったという. 沈壽官氏は自身が家門を継いで、いままでしてきたことは、皆、父がしようとしたことだと父を回顧する. 沈壽官家は、15代 沈壽官, 16代 沈壽官と、ずっとつながるはずだ. 沈壽官氏は、父がそうであったように、作業場でろくろを並べている息子を見ながら、心の内で‘丈夫な鉄の輪になれ’とつぶやく. 15代 沈壽官を継承する息子は、早稲田大学地理歴史学科をでて、イタリアの陶芸大学で修学して、90年には京畿道 利川にきて、韓国の作陶授業を受けていった. 沈壽官家は特異なことに、一人息子だけで14代を続けてきた. ところが、初めてふたりの孫を見た. 沈壽官氏は、まだ幼く、誰に家門を継がせることになるかはしらないけれど、そのことは息子がすることだと話す. 檀君霊廟を建てて、毎年旧盆に祭事を過ごし 沈壽官家が関心を集めるのは、朝鮮陶工の後裔後ということのみだけでなく、4百年間 韓国の姓氏を守ってきたということのためだ. 一言で4百年というのは簡単だが、どんなに長い歳月か. しかも、日本の土地で…. 一緒に連れてこられた陶工たちの中でも沈壽官家が唯一だ. 沈壽官氏は、自分のからだの中に流れる血を認めたためだと話す. 彼は父から、‘お前のからだの中には韓国の血が流れている’という話を聞きながら育った. 沈壽官家が暮らしている村には、檀君を祭る霊廟‘玉山宮’がある. 表面の姿は和風の神社に変わったが、1673年に建てられて以来、毎年中秋のお盆には檀君に祭りをあげて故国を忘れないために努力してきた. 沈壽官家は12代以前には、韓国人と婚姻をしてきたという. だが、12代からは日本人の夫人を迎えたのは, 沈壽官氏は、祖父が狭い地域で多くはない韓国人と婚姻をすることが優生学的によくないと考えたようだと話す. 家の中でいつから韓国語が忘れられたのかはわからない. 沈壽官氏は、たぶん、日本社会に適応して生きながら、順次書かなくなったのだろうと話す. それで彼も韓国語は全くできない. だが、今でも沈家には韓国語が残っている. この家の子供たちは、お小遣を欲しがる時、手を差し出しながら “トン、トン(註:"トン"は韓国語で"お金")”, と言う. そして ‘クネ(註:ブランコ)’などという言葉がそのまま使われている. 沈壽官氏に、自らを韓国人だと思うか, 日本人だと思うかという質問を投げた. 彼は馬鹿な質問だと一蹴する. 国籍は日本だが、心は韓国人だというような返事を聞きたい人々にとって、困った質問だ. 日本の有名作家 司馬遼太郎の話を引用すると、沈壽官家を理解するのに助けになるだろう. かつて沈壽官家を訪問した司馬遼太郎は、沈壽官氏にこのように話した. “貴方の先祖は二つの心を持ったんですね. ひとつは、先進朝鮮の陶芸を日本に伝えたという自負心で一杯になった朝鮮人の心で, 他のひとつは、他国の土地で生き残るために全てのものを日本に捧げなければならなかった日本人としての心です.” 朝鮮人として故郷を忘れたことがなかったものの、日本人として生き残った人々. 沈壽官氏は、先祖の作品中に、鶴や海を描いたものが多いと話す. 彼らは鶴が朝鮮から飛んできて、また朝鮮に飛んで行くと考えた. そして、海の向こうには故国があるのだという懐かしさを込めて陶磁器を作った. “今回のイルミ美術館 沈家歴代展を皮切りに、陶祖を記念する4百年祭が鹿児島で繰り広げられます. 来る10月19日には、初代が連行された全羅北道 南原山城で過去の方法によって採火した火を、韓日青年陶工たちの手で移し、鹿児島のあらゆる窯に付ける計画です. 今でも全九州の数多くの窯から、その火を欲しいという連絡が続いて入っています. 南原から来る火は、全九州に広まり、遠い原点の韓国を懐かしがって陶磁器のルネサンスを求めるようになるはずです.” -------------------------------------------------------------------------- Copyright(c) 1998 All rights Reserved. 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