98年10月 女性東亜 yosongtonga98_10front.jpg (11479 バイト)

全大協代表で北朝鮮訪問,
ドイツに亡命し、7年ぶりに帰ってきた 朴聖姫


“運動から抜け出し、チョロンのママとして生きていきます” yosongtonga98_10_3.jpg (8367 バイト)


文 ムン・ミョンソク(フリーライター) / 写真 朴ヘウン 記者
-----------------------

まだ、実感がありません. これまで会えなかった人たちと懐かしい再会をする以外には、私が韓国にいるのか、ベルリンにいるのかわからない程に淡々としています. ドイツでの生活を完全に清算して、生活人へと戻れば、その時には実感が湧くのかもしれないですね.”

夫, 娘と共に実家に滞在している朴聖姫さん(30)は、まだ自身の帰国が信じられないようだ. 安全企画部の調査を受けて、解放された後、あちこちに連絡をとろうと、気がせいて帰国の喜びを感じる暇さえなかったと.

慶煕大 作曲科 4学年に在学中だった91年に、建国大生 成ヨンスン氏(30)と共に全大協代表として北朝鮮を訪問した彼女は、他の北朝鮮訪問学生4人と共に8月7日帰国した. しかし、帰国を実感する前に安全企画部に連行され、10日間近くドイツでの活動等に関しての調査を受けた. そして、8月19日、記者会見を通じて、帰国の感想と立場を明らかにした.

‘北朝鮮は画一的で、反民主的な体制であり、親北朝鮮一辺倒の韓総連は解体されるべきだ’というのが北朝鮮訪問学生達の主な立場だった. 記者会見後、‘安全企画部の指示を受けたのではないか’ ‘勇気ある立場表明’等、交錯した反応が乱舞した.

“あくまでも真実だったので、そのような反応に神経を使いたくないです. 私たちを派遣した全大協の先輩たちは私たちの立場を理解したのに、正しく知らない周辺の人々が安全企画部の指示云々と、誤解しましたね. いつかは明るみになることです.”

一部の誤解を惜しみながらも、表情は明るかった. まだ帰国の事実が実感できなくても、とにかく故国での日々が気楽なことだけは明らかに見えた.


釈然としなかった北朝鮮での感じ

彼女が‘北朝鮮訪問学生’になることを決心したのは、91年 8月に平壌で開かれた‘青年学生 統一会談’を控えていた頃だった. 漠然と民族の半分とだけ考えてきた北朝鮮を直接見てみたいという考えで、即、平壌行きを選んだ. ベルリンを経由して北朝鮮に入っていくときに、彼女は自分の行動が統一の一助となることができるならば、戻った後に体験する苦難くらいは耐えられるという熱意に浮かれた.

“北朝鮮に到着したばかりの頃には、興奮のため、見るものすべてを珍しく思うばかりだった. ところが、少し経ってから、なにか釈然としないという感じがし始めたのです. 私とヨンソンさんがただ二人だけでした話を他の人が知っているのです. 私達が監視され、盗聴されているという事実を知りました. 後になって、北の学生代表たちが、私たちの指向を分析して報告書を作っているということも知りました. 高位級会談でもない、私たちからなにを解明することがあるのかと、あきれましたよ.”

それでも、北朝鮮に対する印象は悪くなかった. それほど硬直した社会が持つ過剰反応程度だと感じたのだ. 住民たちとの個別的な接触機会はそれほど多くなかった. 会う人々の中には、心より二人を歓迎する人もあれば、演技だと感じられる程誇張された人懐こさを表現する人もいた.

“北朝鮮が画一的な社会だと、皆がそのように思っていました. ところが、ある日の明け方、音楽堂を建てる工事現場で会った人夫たちと大同江を渡るバスのなかで会った人々は、私たちに、行き過ぎる程に無関心でいました. わたしには、そのような姿がむしろ良く見えましたよ. 北朝鮮もそんなに画一的な社会ではないな, あのように他の感情表現もできるんだな、と考えました.”

北朝鮮に滞在している間に、全大協から連絡がきた. 北朝鮮訪問の前、既にベルリンにひとりが残って‘祖国統一汎民族青年学生連合(汎青学連)’結成のための共同連絡本部を設置するという内容を決定したが、誰が残るかを決めていないままだったので、二人ともベルリンに滞在しろという最終決定がおりたのだ.

そのようにして、二人のベルリン生活が始まった. 滞在を始めた頃、家族も知らない他国で、どのように食べていけるのか、堪え難いばかりだった. その時、‘祖国統一汎民族連合(汎民連)’の人々が助けの手を伸ばしてくれた. 有難くはあったが、安らかではない助けだった.

“当時、私たちには頼ることができる人が必要だったのですが、競争して親切を施す感じで、本当にやりにくかった. 汎民連の人々の間の関係もよく知らなかったために、何がなんだかわからない状態で、引きずられるばかりだったのです. 私たちどうしで外出もよくできなかったくらいです. 外出しようとすると、誰かがクルマを出してきて、乗れというのです.”


孤独で困難な時に出会った夫

その時、救援であるかのように、一人の男が現れた. 彼が、今の夫 キム・ジョンスさん(34). 91年 冬, ベルリンに滞在していた小説家 黄ソクヨン氏の家でだった. 黄ソクヨン氏は、亡命生活を始めた二人の苦境を察したのか、頻繁に会えて頼ることができる先輩を紹介しようと、キム・ジョンスさんとの出逢いをつくった.

当時、キム・ジョンスさんは、ベルリン フンボルト大学で社会学を専攻していた. 彼もやはり、漢陽大 英文学科 4学年の時に除籍された学生運動出身. 米国永住権者の彼は、除籍後は米国の両親の家にとどまったが、88年からドイツで留学生活をしていた. 彼が二人の‘北朝鮮訪問学生’との出逢いをはじめから快く受諾したわけではなかった.

“二人が北朝鮮訪問する前、ベルリンに留まっていた時に、既に黄先生が私に会ってみろといっていました. そして、君は全大協で1年先輩なのに、後輩に会わないとは言わないね、と. けれども、わたしは北朝鮮訪問に対して懐疑的でした. 林スギョン氏や故 文益換 牧師以後、北朝鮮訪問は、既に常識的意味や効力を失ったと考えていたのです. それで、北朝鮮訪問前には、出逢いを拒絶したのです.”

キム・ジョンスさんが、“当時、留学生たちの間で、北朝鮮訪問者と接触すれば、韓国に戻ることができないという恐れがあったために、より一層会いたくなかった”というと、朴聖姫氏が“自分だけの考えだったくせに”と、こっそり横目でにらんだ.

しかし、二人の‘北朝鮮訪問学生’のベルリン滞在が決定された後にまで顔を合せずにいることはできなかった. 黄ソクヨン氏の家での出逢い以後、二人はキム・ジョンスさんを頼り始めた. 彼が二人にまず教えたことは、バスの切符の買いかた. 常時、汎民連の人々に頼って、ひとりでは外出もできない二人に、まず自立心を育てようと考えたためだった. そのようにして、92年春からは、二人ともベルリン市内を自由に動けるようになった.

二人の出逢いがまもなく恋愛につながったというわけでは、もちろんなかった. そんな風に、先後輩の仲として三人が時々交流している途中で、最も困難な瞬間、偶然にも恋愛感情が芽生えた. 93年1月、亡命審査があった日だった.

“91年11月に亡命申請をして、93年 1月、ニュルンベルクで亡命審査を受けました. 本当に自尊心を傷つけられる経験でした. まず審査を受けたヨンソン君が、審査官と大喧嘩をして、すごく怒って出てきました. 次に、私が入っていき、亡命しなければならない理由をどんなに説明しても、‘なぜ北朝鮮に行ったのか’‘はじめからドイツで暮らそうと意図していたのではないのか’などと、うんざりする程問い詰められました. 当時、ドイツには経済難民がなだれ込んでいて、財政負担がものすごく大きかったのです. 韓国の政治状況をよく知らない審査官たちは、私たちを、ドイツでお金をもらって気楽に暮らす難民扱いしました. 通訳官も韓国事情に暗くて、正しく通訳ができなかったのです. 私がなぜこの慣れない場所で、こういう取扱をされるのかと考えると、涙が出る程気に障ってくやしかったですよ.”

その日、憂鬱な気持ちでベルリンに帰ってきた彼女を、キム・ジョンスさんが駅まで出迎えにきた. “上手にやった?”と聞かれて、彼女は、“気分がとても良くなかった”と答えて、憂鬱な気分を落ち着かせようとしたが、言葉につまり涙があふれ出てきた.


北朝鮮, 汎民連との葛藤で、順調ではなかったドイツ生活

そして、その年の6月、二人は自然に結婚に達した. 特別に恋愛をしたりプロポーズをした記憶はない. 朴聖姫さんの結婚の事実が国内に知られると、祝賀の電話が殺到した.

“国内では、私がヨンスン君と結婚すると誤って知らされたようです. 祝賀の電話をジョンスさんよりもヨンス君の方がたくさん受けました. 本当にごめんなさいね. 結婚式の司会をヨンスン君がしてくれましたよ.”

結婚式は、ベルリン青少年会館で後援会が用意してくれた韓国民族衣裳とトゥルマギ(外套)を着て、簡単に行った. 両家の両親も参加して、韓総連, 故 文益換 牧師, ムン・ビョルラン(詩人)などが祝辞を送ってきた. 新婚生活は、92年 8月15日にできた汎青学連 事務室で始まった. 結婚以後にも、変わったことはなかった. キム・ジョンスさんは、相変らず留学生として勉強して、彼女は南北間連絡責任者として、家に閉じこもって文件を整理して送るなど、汎青学連の仕事に没頭した.

“生活費が問題でした. 全大協も事情が良くなくて、経済的支援が出来なかったし、後では、韓総連からも何らの支援もありませんでした. ジョンスさんが、週末に体の不自由な老人たちの家で手伝いをして、一ケ月に1000マルクを稼ぎ、亡命申請が受入れられた95年からはドイツ政府から社会保障金が毎月 1千〜1千2百マルク出ていました. ドイツの最低生計費が2千3百マルクでしたから、生活は可能だったのですよ. 亡命申請が受入れられる前にも、亡命申請者への生活補助金が毎月5百マルク出ていましたが、そのお金を受けるのなら、収容所生活をしなければならなかったのです. 結局、亡命者として認められる前までは、作曲家 故 尹イサン先生が財政保証をする条件で、生活補助金を受けない代わりに、僑胞(註:海外在住韓国人)社会から経済的援助を受けていました.”

結婚式の翌年の 94年には、娘 チョロンが(4)が生まれた. チョロンの出産を、彼女はドイツ生活 7年間中で最も幸福だった瞬間として記憶する. 韓国から飛んできた実家のお母さんがついていたから、異国の土地で子供を産む佗びしさもなかった.

夫と娘 チョロンによって、孤独は紛れたが、汎青学連の活動は決して順調ではなかった. 既に、結成当時から汎青学連を自分たちの傘下団体として規定しようという汎民連の方向と、単に支援団体であるという汎青学連の主張がするどく対抗して葛藤していたのだ. その上、北朝鮮訪問学生達を自分たちの働き手にしているここは、北朝鮮とも葛藤が絶えなかった.

“北から入るファックスを韓総連に転送するのですが、そのまま送れば、韓総連がスパイだと追い込まれかねない内容が多かったのです. その時ごとに理由を説明して、北へ返送しましたよ. そうしているうちに、南北連絡事務所の私たちを通じずに、日本を経由して文件を送るようになったのです. 韓総連は私達が送ったものと錯覚しました. 結局、連絡体系がめちゃくちゃになりました. 北に何度も抗議したのですが、効果がありませんでした. 過度に北に偏向的な汎民連との関係も悪化しました. そのような過程を体験して、北朝鮮も独裁以上のものではないと思いました. 北朝鮮体制と北朝鮮の住民たちとは、分離して見るべきであって、北朝鮮社会も民主化されるべきだという信念を持つようになったのです.”

結局、汎青学連は96年 4月、活動中断を宣言して、97年末、事務室を閉鎖した.


平凡な朴聖姫として生きたい

彼女をはじめとする北朝鮮訪問学生たちの帰国許容が推進されたは、さる5月から. 韓国で帰国を許可するかもしれないという噂が聞こえてきたが、彼女は複雑な心境だった.

“あまりにも帰りたかった. 特に、韓国を東南アジアの後進国くらいに考えているドイツ人たちが、私たちをお金を稼ごうとやってきた未開の東洋人という取扱いをする度に自分の国で堂々と暮らしたいと思いました. けれども、当時、私たちは北との関係も安らかなものではなかったし、韓総連とも仲が良くなかったのです. 皆から捨てられたようでしたよ. これから帰っても、誰からも歓迎を受けることができないという思いで、帰国が怖かったのです.”

しかし、そのような心配は帰国の障害にならなかった. 帰国が許容されるやいなや、急いで荷物をまとめた. 飛行機のなかで彼女はめいっぱい浮かれた. 結婚生活でただの一回も韓国を訪れなかったキム・ジョンスさんも同じ. 韓国行きが初めてのチョロンに、“韓国に行くと、聞こえてくる言葉は皆韓国語よ…” などと、ずっと韓国に関してはしゃいだ.

こうして、合法的身分で帰ってきた彼女は、亡命生活と汎青学連活動で体験した精神的苦痛をきれいに洗い流したい. ‘北朝鮮訪問学生’朴聖姫ではない、平凡な市民 朴聖姫, チョロンのママならば、それで充分という、安らかな日常へ帰ってみたいと. 7年もの間、止めていた韓国での時間をまた流れるようにするために、この頃、夫と共に復学方法を調べている最中だ. 夫婦ともに大学4年で時計が止まってしまったためだ. そして、さる9月初め, 彼女の家族は、亡命旅券を返却して、ドイツの家を整理するために、約 2ケ月の滞在日程でドイツに少しの間戻った.

“帰ったら、今後はどのように生きていくのか決定しなければ. 実家に居候することができないから、家も別に探さないと…. 今は、なんにも決定されたことがないのですよ.”

その時、チョロンが“遊び場に行って遊ぼうよ”と、駄々をこね始めた. パパと手をつないで、遊び場に向かうチョロンを眺めて、彼女は“チョロンが 生きていく社会は、あの子が考えて行動するときに、何も妨害や偏見がなければ良いですね”と言った.





--------------------------------------------------------------------------

Copyright(c) 1998 All rights Reserved.
E-mail: newsroom@mail.dongailbo.co.kr