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‘鄭周永と1001頭の統一牛’秘話
 

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6月16日、午前9時30分頃、現代 鄭周永 名誉会長が牛の群れ5百頭と共に板門店を通過した. 失郷民(註:朝鮮戦争により、故郷に戻れない人々)の故郷に対する懐かしさと, すべての国民の統一に対する念願を込めたこの‘統一牛‘たちは現代建設 瑞山農場で生まれて育てられた牛だ. 瑞山農場を訪ねて、この牛の群れに関する裏話を聞いてみた.

 

文・チェ・ホヨル<フリーライター>/写真・キム・キョンジェ, パク・ヘユン 記者
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忠南 瑞山市 プソク面 チャンリに位置する瑞山農場を訪ねたのは 6月18日. ソウル南部ターミナルから瑞山行 高速バスに乗って, 瑞山からまたタクシーを乗り換える等、4時間以上かかって、農場入口に到着できた. タクシーに乗りこんで、瑞山牧場へ行ってくれと言うと、タクシー運転手がすかさず牛の話を切り出した程、牛の群れの北朝鮮訪問は相変らず国民的話題になっていた.

牛の牧場は、農場入口からまたクルマで10分余行かなければならなかった. 農場は、瑞山干拓地のB地区に位置を占めている. 瑞山干拓地は工事開始以来、15年3ケ月後の95年 8月に竣工し, 総面積が 4千7百余万坪で、国民ひとり当たり1坪づつ土地が増えたようなものだという. それだけでなく、農地が3千万坪あり、1年で米だけで33万石以上が生産されるとすると, 現代グループ全食堂の米をすべて充当してもまだ残るという関係者の話が実感された.


牛10頭で始まった農場

牛牧場は、牛を放牧する80余万坪の広大な牧草地と33棟もの畜舎構成されている.

“牛舎がある所は、以前は‘シルソム’という小さな島でした. 干拓事業で陸地になったのですよ. そして、この牧草地もまた海だったわけです. 瑞山干拓地をひとまわりするだけでも時速40kmで3時間半以上も走らなければならなく, この牧草地と牧場をまわるにも何十分も充分にかかる程だと言えば、その膨大な規模を想像できるだろうか?”

牧場関係者が車窓のそとに見える広い草原を指して説明した. 放牧されている区画で草を食んでいる牛は耳に標示を付けていて、雌牛は黄色, 雄牛はだいだい色で区分した.

“小牛や受胎した雌牛だけ放牧をします. 他の雌牛は、毎日人工受精をしなければならないために放牧できず, 雄牛は肥育のため、運動をさせる理由がありません.”

牛を放牧する草地の境界には、しばしばあるようなとげのある鉄條網が一つもないことが目についた. 単に木の柱をひもで横棒に結んだだけだ. 理由を尋ねると、鄭周永会長の指示だと言った.

“会長様がはじめから木だけを使用しろとおっしゃいました. 私たち職員が木は腐る危険があると言ったのですが、会長様はとげのある鉄條網では牛がケガをする心配があると、絶対にやめろと言われました. それ程、牛を愛する方なのでしょう.”

いつのまにか車が畜舎に到着した. 畜舎では職員が清掃の真最中だった. 牛たちを他の囲いに移した後に, 牛の排せつ物で汚くなった床を清掃して、新しくおがくずともみがらを敷いていた.

“こっちだ、こっちだ”という職員の声に、大きな牛は素直に囲いを移るが, 幼い仔牛は走り回って職員の手から逃亡しようとする. その姿があたかもママがきかんぼの子供を捕まえようとする姿と似ていて、笑いが自ずと出てきた.

畜舎を見て回ると、仔をはらんでいる牝牛や、仔牛におっぱいをあげている牝牛は、それぞれ別の檻に一頭ずつ入れて管理していた. 他の牛は牝牛と牡牛を別々にし、それぞれ一つの檻で何十頭かずつ入れて管理していた. ところで、5百頭の牛を送り出したせいか? 畜舎は何棟か空いていた.

関係者によれば、この牧場には獣医師, 専門研究員, 飼育を担当する飼養管理, 飼養管理補助要員 等 正職員18名とパート 20名 等、40名程度が牛を管理しているという. これらだけでなく、稲藁と草木, 飼料を混ぜて自動的に牛に給飼するTMR車を開発し、試験段階に入る予定だといった. また、それ以外にも、牛の排せつ物を堆肥舎で一ケ月以上醗酵させ、肥料として活用して, 稲藁を飼料として利用する等、生態サイクルを合せることにも主力を注いているという.

小牧場が今の形態で完成したのは,94年冬だが, 瑞山農場で牛を育て始めたのは、93年 6月30日, 牛10頭が入ったときからだった. その10頭が5年で2千7百頭に増えたのである. そうなると、人件費と維持費がかなりかかるはずだ. 関係者が全維持費を明らかにするわけはないが、概略 牛一頭当たり年平均 1百万ウォン程度ずつの管理費がかかるとしたら, 概ね計算しても27億ウォン程にはなる. だが、牡牛を肥育して牝牛と交換したことはあっても, いままで一度も利潤を目的に売ったことがなかったという.

“当初には、今日のような仕事があるだなんて、誰も想像できなかったですよ. 恐らく、会長様ははじめから今日を計画されて、牛の牧場を推進なさったのでしょう.”

誰かが鄭周永を事業家というよりは、農家と同じだと言った. 貧しい農夫の息子だった彼の胸の片隅に、生涯苦労して農作業をした父に対する懐かしさがそのまま埋まっていたことを指したものだ.

だからなのか、鄭会長の瑞山農場に対する愛着と牛に対する愛情は格別だ. 鄭会長は、彼の 著書 <この土地に生まれて>で、瑞山農場を作ったことが “むかし、爪が擦り減ってなくなる程に石畑を掘り起こして一寸一寸農地を作って苦労なさったお父さんに捧げたかった、この息子の遅い贈り物”とし、農場を“私が心から,魂で父に会う聖地のような所”とした.

鄭会長は、昨年から健康状態によって、頻繁に来ることができないが、それ以前には、3ケ月に一回は必ず瑞山農場を訪問する程、大きな関心を見せた. こちらに来れば、まず一番先に畜舎に立ち寄るという鄭会長は、特に仔牛を好んで近寄り、開口一番‘今日は仔牛が何頭生まれたのか’ということから尋ね, 一日平均の3〜4頭より多ければ喜び、それより少なく生まれれば失望の表情が歴然だったという.

“一度、会長様が到着なさった瞬間に仔牛が生まれました. 会長様が、直接たった今生まれた仔牛を抱きかかえると, その時の顔に浮かんだ微笑がどんなに幸福に見えたことか、今でも忘れられないですよ.”

農場案内者の話のように、鄭会長の牛に対する愛情が格別に深いのは、牛にまつわる理由があるためだ.

66年前の1932年, 普通学校(今の小学校)を卒業して、故郷 江原道トンチョン郡 アサン里で父と共に農作業をした17才の鄭周永は、貧困を嫌って3回目の家出をした. ソウルで簿記学院に通えば、事務職で就職できる、と、父が牡牛を売ったお金40ウォンと叔父が仔牛を売って父に任せたお金30ウォン, 合計70ウォンを持って無計画に上京をしたのだ.

だが、2ヶ月後にソウルの部屋を訪ねてきた父の“長男が家で法事を行なうべきだ”という切実な説得に鄭周永は牡牛の売り値40ウォン分だけ使ったまま、家に帰った. もちろん、1年後にまた家出をして、父と永遠に離別をしなければならなかったが.

それで、鄭会長は16日、牛の群れを連ねて板門店を通過して“一匹の牛が 1千頭の牛になり、その借金を返しに故郷の山河を訪ねるのだ”と、感慨を表明した.

鄭会長は、北朝鮮に全部で 1千1頭の 牛を送る予定だ. 既に5百頭を送ってあり, あと5百1頭の牛を北朝鮮に送る予定だ.

李ジョンヒョク瑞山農場 管理課長は、“6月23日に会長様が決定すれば、統一院, 北朝鮮と協議して、6月末から7月初め頃には、残りの牛を送ることができる”と、農場では既に準備が殆どできているという. 1千頭ではなく、1千1頭としたのは、1,000は終わりが 0であるために、対北朝鮮関係の終わりを連想させるので、再出発を意味する 1を足した1千1頭を送るというのが鄭会長の意図だという.

畜舎で北朝鮮に送る牛を管理した李キョンフン氏(29)に会うことができた. 彼は鄭会長と共に先ず北朝鮮に渡った‘一番統一牛’に‘ウンソ’という名前を付けた主人公だ.

所感を尋ねると、李氏は牛たちがよく適応すれば良いが、という心配の言葉が出た.

“全くの話、退勤もまともにできないほど苦労をしたが、統一のために小さくても寄与するという、やりがいが大きいですよ. だが, 一方では子供と同じような牛たちを送ってしまうから、胸の奥が何となく寂しい…”

李氏は、2ヶ月前、初めて牛が北朝鮮に行くという話を聞いた時、気持ちが晴れやかになったという. だが15日夕方, 牛を積んで行く車が到着して、空っぽの畜舎を眺めると、胸が詰まり、‘これまでに情が移っていたのに、こんなに簡単に行ってしまうのか、という何となく寂しい気持ちが一度に押し寄せたという.

“2ヶ月前から統一を念願するイメージに最も合った牛を選び始めました. 北朝鮮の牡牛とかけあわせて‘統一 仔牛’を妊娠できる牝牛を探しました. その結果、瑞山農場で性質が最も穏やかで, 毛も最も可愛くて, 体重も 4百50sと重いウンソが選抜された.”

30ケ月になったこの牝牛は、出発の一ケ月前から別に管理されて、特別の待遇を受けた. 事故が起きないように、最も軟らかい草だけ食べさせて, 一般の牛とは別に管理して、健康と衛生状態を毎日点検した.

また、鄭会長と共に板門店を越えれば、注目の対象になるはずだ. 人波が寄せて、あちこちでカメラのフラッシュがさく烈することによって、驚いて走る心配もある. そのため、‘重大な’役割を失敗なく遂行するために‘人間 親和過程’をたどった.

“牛はひとりでいるときには、非常に鋭敏になり、臆病です. それで、より一層神経を使って、子供と全く同じ愛情を注ぎ込みました. 2ケ月になった娘が‘ウンソ’なのです. それで、牛を呼ぶ時、‘ウンソや’と娘の名前を呼びましたよ. 1週間程度が過ぎると、‘ウンソや’と呼ぶと、懐かしさのこもった眼を向けて‘ウモォ’と答える程に親しくなったのです.”


‘統一仔牛’妊娠した牝牛 150頭

彼は、臨津閣でオンソを他人の手に譲り渡す時は、あたかも娘を嫁がせたように佗びしく感じたと言い、一日も早く、娘 オンソと共に牝牛 オンソとオンソが産んだ統一仔牛を見れれば良いと話した.また、彼は同僚肥育士の話をした. 生まれたばかりの仔牛が何日後かに突然痛がり始めると、その肥育士は獣医師と共に、仔牛を生かそうと、仔牛の傍らで何日も夜を明かしたという. 彼の懸命の看護のおかげか、その仔牛はまた健康をとりもどして, 今回、北朝鮮に行く程までに丈夫に育ったという.

そのように最善をつくして育てているので、牛を育てる人は、牛の顔だけを見て、それが何棟にいる何番の牛かがみなわかるという彼の説明だ. そして、牛もそのような誠意を感じてか柔和で、心と最善をつくして牛を 管理すれば即座に親しくなってしまうということだ.

“牛はとても鋭敏です. 今回もクルマに牛を乗せようとすると、牛たちは気づいて顔の表情が変わりながら‘ウモォ’とやたらになきましたよ. また、軍事分界線を越える時には、クルマに乗った牛たちが緊張してか、排せつをしました.”

彼は、牛のこういう鋭敏さのために、馴れない北朝鮮で苦労するのではないかと心配していると、憂いの表情をした.

今回送った牛の選抜基準を尋ねると、李氏は、皆10ケ月以上になったもので、牡牝を半々ずつ混ぜたという. 牡牛は3百〜6百kg, 牝牛は2百50〜4百50kgで、皆健康な牛を選んだ.

“牝牛の中には、受胎して2ケ月から8ケ月程度になった牛が150頭混ざっています. 北朝鮮で‘統一牛’出産を願う気持ちからそのようにしたのですよ.”

鄭会長の北朝鮮訪問が決定された先月初め、選別作業を通過した牛たちを特別管理したし, あらゆる検疫まで終えたという. 受胎した牛は流産を防止するために、流産防止注射を打つ等、格別に神経を使った. 特に鄭会長の関心は格別で、さる5月の一ケ月間に3回もやってきて、選別された牛たちをそれぞれ見回ったという.

一時峠もあった. 初めて鄭周永氏が牛を連れて北朝鮮を訪問すると発表した時、言論が‘口蹄疫’ 問題を集中報道していた. 口蹄疫は O-157より危険な病気で、当時、台湾で発生して中国まで広まったのだが, 隣接した北朝鮮でもその病気が発生したという推測報道であった. 万一、それでも牛を送りたいため、鄭会長と牧場職員たちは非常に緊張した. だが、まもなく北朝鮮には口蹄疫が発生しなかったという、外信保健機関の検査結果が出て‘口蹄疫’波紋は 一段落した.

“牛たちを送る時にも、10時間を越える長距離旅行で疲れないようにするために飼料をたっぷり食べさせて, 車両の床におがくずともみがらを敷く等、最善を尽くしました. 北朝鮮に行っても、ストレスによる消化不良にならないように33日分の仔牛用飼料を準備しました.”

それでも不安で、獣医師と李ギョンフン氏をはじめとする畜舎関係者25人が板門店まで牛に同行した.

このように準備した牛の群れの北朝鮮行は、一言で壮観であったというのが瑞山農場まで乗ったタクシー運転手の話だ. 15日夜 11時, 5トントラック40台と8トントラック5台等、牛を載せた45台のトラックと牛の飼料を積んだ8トン トラック2台の、計47台のトラックが 列を連ねて行くのを瑞山市民と失郷民たちが統一の契機になることを祈願して見送ったということだ.

農場を離れながら、すべての国民がウンソを, ・・・いや、仔牛たちによって仲間が増えた統一牛の群れを見物に行ける日が一日も早くくれば良いと期待していた.


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