97年10月号 新東亜
この人 33年獄中生活「南派工作員」王・ヨンアン老人の絶叫 |
“北の子供たちの顔を一回だけでも見ることができれば…” 分断半世紀の悲劇は今日も続いている. 「イデオロギーの奴隷」として送った永い歳月の苦痛と孤独. 結局残ったのは、血縁に対する耐えきれない懐かしさだけ…. チェ・ミンヒ 自由寄稿家 ------------------------------------------------------------------ 社団医院(ソウル銅雀区舎堂洞所在)301号室. ある老人が不安げに病室で体を揺らしていた. 168cm, 51kg. 医務カードに記録された、彼の身長と体重だ. 肩骨はげっそりしているのに、腹はだいぶ膨れている. 腫ようにより腹水がたまったためだ. 腹が膨れて二日目 何も食べられなくて点滴で延命している. 水も飲むのが難しい. 彼は前日の晩から「からだがどうなるかわからない」 『昨夜から突然頭が揺れるのです. いっそ早く息が途絶えれば良い」と彼は話した. 首を揺さぶっている中で頭を抱えて座り込んで、『どうすればいいのか,到底しっかりすることができない…』一人話す. 彼の名前は王・ヨンアン. 今年72歳になった. 彼は胃ガンが再発し入院中だ. 担当医は既に、彼に『今年を越すのは難しい』と気持ちの準備をしろと諭した. 入院以後、病勢は日に悪化している. 王・ヨンアンはしかし見舞いにきて自身を慰めてくれる人々にこう話す. 『今回の境を越せれば、90までは生きられる…』 そして、この話も忘れない. 『それで、統一を見て、北にいる妻と子供たちの顔も見るんだ…』 王氏の故郷は京畿道連川,事変前は北朝鮮の土地だったところで、王氏は8兄弟姉妹中二人目の長男として生まれた. 連川での幼い時期は、今の王氏にははるかに遠いものだ. しかし、幼い時期に住んだ町内の雰囲気などは明確に記憶している. 小学校3年の時、お母さんを失って 『王氏は本貫がひとつだ. 高麗太祖王健の子孫ですよ. それで、近所のおとなたち,特に年を召された老人たちは自負心が大変ありました. 歩み一つもそのまま踏み出しません. 常時、王族として品位を考えたのですよ』 大弟が新しい王国を建てた時、王氏は命を守るために姓を変えた. 王者に点をひとつつけて玉氏に変えたり,家根をかぶせて全氏になった. この時、恭愍王や子孫たちは深い山中で帝王の位牌を奉ってちっ居に入っていった. 世宗が即位する頃、王氏一家の生存消息が朝廷に伝えられた. 既に権力基盤を固めていた李氏王朝は、王氏等の存在を認めて祭事を許諾した. 幼い時期、王氏は慎ましい少年だった. どこに行っても目立つことがなくて、年長者にも従順で、近所のおとなたちも可愛がった. 近所の仲間たちとマチョン普通学校へ通った時期,30里の道を歩きながらも幼いヨンアンは不平を言わなかった. 仮に、小学校3学年時にお母さんと別れなかったとすれば、彼の話のように王氏の人生行路は大きく違っていたかもしれない. 『お母さんが亡くなった. 弟を産むが… 空が崩れていくようだったですよ』 お母さんの柩輿が行く日、幼いヨンアンはあまりにも悲しく泣いた. 見ていられない村のおとなたちは彼をお母さんの柩輿の上に座らせた. そのようにお母さんが突然に亡くなったその年、王氏の父親は再婚をして,一家を率いてソウルに上がってきた. ソウルに上がってきた以後、父親は激しい労働であれこれを一手に引き受けて働き、王氏は新お母さんの下で育つようになった. ソウルに上がってきた以後、公式の学校には行ったことがない. 『明倫洞に住んだのだけど,ソウルといってもみすぼらしかった. 学校に通う子供達は多くはなかったですよ』 しかし、学校の塀越しに子供たちのにぎやかな声が聞こえてくる時ごとに、幼いヨンアンの胸はうらやましさでいっぱいになった. 学校に通いたかった. 文章もまともに学びたかった. 『13歳の時から仕事を探して出ていましたよ. 年ごろになって仕事もしなければならなかったが、お金を儲けて勉強がしたかったのです』 朝日電気製作所(当時龍山区青坡洞所在)という鉄工所に入った. 旋盤とミーリングなどを習って、王氏は17才までそちらで仕事をした. 生まれついての誠実さと勤勉さで、王氏は社長と同僚たちの信頼を一身に受けた. 王氏は夜には夜間学校に通った. ついに、彼の向学に対する夢が実現したのであった. 「主義」というよりも「生」そのもの 1943年,戦争が終盤に近づいた. 徴用,学兵等で社会全体がごたごたしていた. 周辺の人々がひとり,ふたりと戦争に引っ張っていかれた. 『私は徴用対象ではなかったが、気持ちがおちつかなっかった. わたしだけではなく、青少年はみなそうでした』 「どこかへ離れよう」という雰囲気が青年達の気持ちを新たにし、その雰囲気のなか、王氏も日本行の船にからだを積んだ. 日本で彼は、三菱第2飛行機工場で2年間仕事をした. そして、1945年日本が敗れた後、退職金3千ウォンを持って帰国を急ごうとした. しかし、帰国の夢に膨らんでいた彼に光復(解放)は「喜び」というよりは「苦痛」として迫った. 在日韓国人に対する日本人のテロが横行したのだ. 『朝鮮から移ってきた日本人たちが私たちをむやみに殴っていました. その時、日本は治安不在状態であったために、誰もわたしたちを保護してくれないのですよ』 あげくの果てに朝鮮人が何名も殺害された. とうとう米軍が介入したが、引き続く日本人のテロを防止できなかった. 反韓国感情で強行される日本人のテロに対する自己救済策が切実であった状況だった. 『かたまって住もうという危機意識の中で、ひとり、ふたりと集まりましたよ. そうして日本人のテロに対抗して、無事に祖国に帰ってくることができました』 帰国すると、彼の家族は城北洞に生きていた. 王氏は、また以前に仕事をした朝日電気製作所に入った. そちらで49年まで仕事をした. 王氏が左翼運動に初めて参加した時期はまさにこの頃だ. ある日、近所の友人たちが王氏を訪ねて『共に仕事をしよう』というので、王氏は何も考えずに友人たちの集いに入っていった. 光復前後のごたごたした状況,城北洞の雰囲気,労働者という身分などが王氏にとって気迷いなしに組織に加担するようにした. 『城北洞がそうであります. 金持ちは10%もいなく、大部分が貧困していました. 貧しい人々には「個人の誤ちで生きられないのではなく、社会構造が誤っている」という論理があまりにも容易に浸透していきました. また、李・テジュン、ジョン・ロシク氏などが居住した所なので、左翼の影響力が大きいですよ』 王氏にとって左翼組織は「主義」というよりは「生」として迫った. それほど「正しい言葉」に聞こえた. 南労党下部組織の「ミンチョン」に 加入した後、王氏の生活は非常に忙しくなった. 一日12時間工場で仕事をしながらも、頑健な体力を固めた. 合間合間にミンチョン会員に印刷物を配布したり、張り紙を貼ってデモにも参加した. 46年12月、王氏は南労党に正式党員として入党した. 南派4日目に捕まり、33年獄中生活 以後、彼の生は数えきれない程多くの屈折を体験してきた. 米軍政下で数回逮捕・拘禁され、大邱事件と報道連盟結成以後、左翼に対する弾圧が始まり、生存の威嚇も数回受けた. 数多くの南労党員たちを救うために報道連盟に加入した. また、政府であらゆる社会団体を統合して作った大韓青年会にも入っていった. 満18才から28才以下の男性は皆加入対象だったためだ. 王氏も自然に大韓青年会の一員になった. 『大韓青年会内でも、当然左翼・右翼指向の青年達が別々に集まるようになり,左翼青年達はまた左翼活動を始めました』 そして戦争が勃発した. 戦争が勃発した後、王氏は南労党城北区域党活動をしている途中で、仁川上陸作戦で人民軍が後退する時に北に行った. この時、彼には妻と生まれたばかりの娘がひとりいた. 『49年に婚姻しました. その時は、このように分断が長く続くだなんて知らなかったんですよ. 家族にも、すぐまた会えると話しました』 しかし、王氏は家族とのある約束を守ることができなかった. 戦争は3年間続いて、休戦以後、王氏は後方工場に配置された. 統一を待って3年間ひとりで過ごした彼は「男子ひとりに女子がトラックいっぱい」の現実に押されて再婚させられた. 再婚して息子と双子の二人娘と共に初めて団らんのある家庭をつくることができた. 中央党連絡部から王氏を訪ねてきたのはちょうどその頃だった. 連絡部の人々は彼を静かな所に連れていって「途方もない」提議をした. 『南朝鮮に行くつもりはないか, 3ケ月時間を与える. 考えてみろ』とのことだった. それが王氏の人生を完全に変えたのだった. 「家族の中での幸福」と「祖国に対する義務」の間で悩んだ王氏は、南への派遣(南派)を決心,58年ヨンアム浦を通じ韓国に入った. 『ヨンアム浦でいとこたちと会いました. 思いのほか家族たちが皆健在で暮らしていました. 本当に懐かしかった』 王氏が警察に連行されたのは、それから3日後. 南派されて四日だけ仕事をし、王氏は33年間監獄生活をした. 逮捕された当時、王氏の年齢は32歳だった. 『監獄でもそれなりに過ごしました. ところが今私の人生を見れば、まったくそのようなものなのです』 監獄生活中のある日から突然に腹が痛みだした. 上の部位がキリキリとさしこんで痛んだ. 91年2月にはひどく下血をした. 大田矯導所医務室を出て外部の病院に出て診察を受けた結果、胃ガン3期末という診断を受けた. 左翼活動をしていて多くの死を見てきていた彼も胃ガンという宣告の前では毅然とはできなかった. 『3ケ月しか生きられないということだ . …』 彼は二日間溜息も出なかった. 過ぎ去った生涯が走馬燈のようにかすめて過ぎて、なつかしい顔が目の前を埋め尽くした. 幼い時期のこと,日本で体験した数多の 事件,北朝鮮での生活,南派された後の3日間の「涙の再会」,33年間の獄中生活 などが前後見境なくかすめて過ぎた. 誰よりお母さんが恋しかった. 北朝鮮の家族を思って睡眠をとることができなかった. 何より分断された状態の半分の祖国で死ぬべきだという考えが彼を困らせた. しかし、彼は三日ぶりに席をけって立ち上がった. 『人間として私はそんなに誤って生きてきたわけではない. どのようなことをしようが、献身し仕事をして,監獄生活も充実させた. 信義も消したことがない. 死ぬなどということのために意気消沈できない』という決意が王氏を日常生活に戻るようにさせた. その間に外では、王氏の消息を聞いた故文 益換牧師と民家協会員達,イ・プヨン議員,イ・サンス議員などが釈放運動を繰り広げていた. 所内にいる長期囚たちも王氏釈放を要求して断食闘争に入っていった. 3ケ月時限付き人生の標紙を付けて王氏が社会に出てきたのは、さる91年5月25日. 獄へ入っていった時は32歳の青年だった彼は耳順を超えて65才になっていた. 出獄後7年間闘病,しかし再発 出獄後、王氏は現代医学よりは漢方医学、民間療法を選んだ. その間に在野医学者ジャン・ドゥソク氏に会ったことは不幸中の彼には幸いだった. 王氏はジャン・ドゥソク氏が教えてくれたとおり、野菜と五穀飯中心の食事,各種民間療法に頼って、いままで7年間胃ガンと戦ってきた. 『ありとあらゆることをやりました. 要路法という、自分の小便を飲む方法があります. 疾病にかかれば、その病気に対して抗体が生まれて、それが小便を通じて出てくるために薬餌になるということです. 出所後、おしっこを飲みました』 それのみでなかった. 王氏は民間療法で癌に勝った記録を探してくまなく読んだ. 癌に良いという分析で木の根を求めて食べることもした. 出獄後、肉は口にしなかった. 酒も飲んだ記憶がない. 人々と会う時、酒席が行われれば、そっと立って帰宅したり、杯を受けて、「祭祀を行なった」. 『本当に終生たらふく食べたことがないですよ. 若い時は、国がみな貧困でしたからそうであって,監獄のほうが食事が立派だった. 出獄以後には癌のためにそうであって…』 王氏は歯をくいしばって民間療法を実践して、出獄2,3ケ月後、病院を訪ねて検査をしてみると、「胃ガン2期,進行が止まった」という診断が出された. 自覚症状もそれほどなかった. その後の7年間、王氏は生計のために駐車場管理人の仕事をしてきた. 胃ガンが再発したのは昨年初め. 姉の家に行ったが、誘惑に勝てずに初めて鶏肉を食べた. その日以後、終始気分がよくなかった. また、今年階段を上がっている途中で倒れて肋骨を傷めた. 止むえず抗生剤を飲んで、それが胃ガンをより一層悪化させた.. 『先月から少しずつ腹水がたまりました. けれども休むことができなくてはね. 仕事をしなければならなくて,生計は続けてこそだ』 突然病気が悪化したのは半月前. とうてい耐えることができないので、社団医院に入院した. 入院後、王氏は利尿剤と点滴に依存し、一日一日を継続している. 『ここまでくると、薬や食べ物を分ける時は過ぎた」と 担当医師は話している. 腹水のために利尿剤を使い,利尿剤を強く使えば、全身に脱水現象が起きて無力感に苦しめられ、王氏は一日一日を耐えている. 波瀾万丈な歴程中に、王氏は二度婚姻して,三名の女性と暮らした. 息子は4名のこした. 一番大きい娘は、現在ソウルに居住しているが、父の顔もしらずに育った. 出獄後、ただ一度会っただけだ. 残りの三人の子供は北朝鮮にいる. 今、王氏は取りあえず一つやりたいことがある. 北朝鮮の家族に会って死ぬことだ. 王氏は消え入るような声で、必死のあがきを尽くしてこのように話した. 『会っても、わたしの顔も憶えていないでしょう. ソウルにいる娘も、北朝鮮の子供たちも皆かわいそうな自分の子ですよ…. その子たちの顔を一度でも見て死ねるならば…. なんとか方法がありませんか・・・』 |