98年11月 新東亜 sintonga98_11fr.jpg (9810 バイト)

36歳 女性監督の感動体験ノート
釜山国際映画祭 最優秀 ドキュメンタリー ‘本名宣言’
○ 文化の広場 ●


名前のために涙を流す在日同胞児童たち

◇第3回 釜山国際映画祭で、一編のドキュメンタリーが観客の目がしらを濡らした. 日本 大阪の、ある高等学校で行われた在日同胞3世たちの本名宣言過程を収めたこの映画は, 観客からスタンディングオベイションを受けた.

洪ヒョンスク〈ソウル映像集団 代表〉

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1998年 韓国の正体と実体性はIMFだ

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自嘲的な冗談が道を飛び交っている. このように投げやりな冗談が飛び交う理由は、経済危機があらゆる韓国人の生を変化させ, それまでの期待と生きてきた生の指標があっという間に揺らいだためだ. 何を信じればいいのかわからない状況, 混乱の時代に、正体と実体性という単語は冗談のように軽くなる. まさにこういう状況の中で『本名宣言』製作チームは日本へ行った.

作業の開始は偶然の出逢いで始まった. 3年前、私は映画祭参加を契機に、初めて日本の土地を踏んだ. 95年、農漁村地域の小規模学校の廃校問題を扱ったドキュメンタリー『ドゥミル里, 新しい学校が開く』が日本の「山形ドキュメンタリー国際映画祭」に招請されたのだ.

この映画祭で、ある女性に会った. 彼女は在日朝鮮人であり, 名前はヤン・ヨンヒであった. 魅力的な30代中盤, 同年輩の友人の彼女はビデオジャーナリストであった. 彼女が作った2度目の作品が「在日同胞の2種類の名前」についてのものであった. 短い期間中に彼女と私は多くの話をした. 離れる時, 彼女は私にこのようにたずねた.

『ヒョンスクさん, あなたは名前のために泣いたことがありますか?』

一瞬の衝撃だった. 韓国の地に暮らす人々の中の誰が、自身の名前を使うことで涙まで流すだろうか. しかし、人間は忘却の動物であるから、日常に帰ってきた私は徐々にその衝撃の瞬間を忘れ去った.



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名前のために泣いたことがありますか?

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その後、私は暇ができれば日本へ行ってヤン・ヨンヒさんに会って, 彼女が会った人々をまた取材した. その時のことは、後に私が作るドキュメンタリーの資料を集めたいという一般的な欲のためであって、具体的に何を作るかという計画はなかった.

そのように3年が流れた. その間、私が暮らす韓国の状況は激変を繰り返し, 私はまた一編のドキュメンタリーを作った. とはいうものの、私は数多くの疑問に包まれることになった. それは一言に圧縮される.

「私の正体と実体性は何か?」

四十に臨む年齢で、いまさらのように正体と実体性という話を切り出した理由は簡単だ. 1998年、韓国のドキュメンタリーは何を話すのか. 長い自問の時間を送り、最後の瞬間に浮び上がった言葉があった. それは、まさに3年前、日本を離れる時にヤン・ヨンヒさんが吐き出すように投げかけた言葉だった. 『名前のために泣いたことがありますか?』

ヤン・ヨンヒさんは、昨年、米国に留学のために出発した. 国籍が北朝鮮だという理由で、韓国の土地を踏むことのありえなかった彼女は、どこかにあるかもしれない祖国を探して旅立ったのである. 米国へ出発する前、彼女は自身が撮影したビデオ テープを送ってきた. もちろん、それは在日同胞3世児童たちの2種類の名前に関する内容だった. そして、98年 6月, 私は名前のために涙を流す子供たちを訪ねに大阪へ行った.



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二つの名前, 本名と通名

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1920年以後, 済州島と大阪を行き来するグンデファン(君が代丸)という船にからだを乗せた朝鮮の人たちがいた. そのように出発した彼らは、以後「在日同胞 1世」という名前を得ることになった. 50年がすぎた今、在日同胞は 3, 4世代にまでつながり、約66万名に達する.

在日同胞たちは2種類の名前を使う. ひとつは、日本名の通名で, 他のひとつは、韓国名の本名だ. 在日同胞の90%以上が通名を使っていて、ごく少数だけが本名を使用する. 日本で本名を使うということは、終生を差別と戦うという宣言であるためだ.

本名で暮らすために, 自身の名前を宣言しなければならない国, 地球上で唯一の風景が繰り広げられる所がまさに日本だ. その荒涼とした地、日本で17年を越えて二つの名前に悩む子供たちに会うために大阪のある高等学校に入った.

日本・大阪の近くの尼崎市. ここに位置した尼崎市立高等学校には、「同胞会」というサークルがある. 同胞会は、在日同胞学生10余名で構成された小さなサークルで, 会員たちには、本名を使う人もいれば, 日本に帰化して通名を使う人もいる.

ところが、おもしろいことは、サークルの会員間で、韓国名で呼びあうという点だ. もちろん、彼らの韓国名は、私達が聞くにはぎこちない. 橋本はク・ムバン, 竹友はペ・スンヘン, 松田はイ・ジュンチ, 清家はパク・ジョンファ など. 日本式の名前を音を合せて漢字で作りなおして, それをまた韓国読みに変えるので、このようにぎこちない名前にならざるをえない.

原則的に見れば、それは彼らの元来の名前, すなわち本名というには、完壁なものではない. しかし、韓国や北朝鮮で日本と関連したよくない事が起こる時ごとに、在日同胞子供たちが暴行されるという現実で見れば, このようなものでも、韓国名で呼びあうということは、決して容易ではない.



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橋本と松田に会う

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尼崎高等学校では、1年に2度特別な 行事を行う. 「全校特別総会」という、この行事は全校生たちが参加し、一つの主題を置いて, 意見を発表する場だ. 今年の主題は「差別」だ.

例年の事例を見ると、同胞会員たちは、まさにこの席で自身の本名を日本の友人たちの前で宣言したりしていた. 「本名宣言!」 全校生たちの前で、自身の韓国名を明らかにして, 本名で生きると約束することだ. 宣言をする子供の立場では、一種のカミングアウト(アイデンティティを明らかにすること)というわけだ.

しかし、視角を広げて見ると、日本社会の中での本名宣言というのは、韓国名を明らかにすることだけでは終わらない. それは、厳格に存在する「差別」の巨大な網と対抗するという決断であり, 人生をかけた闘いの開始である.

まだかたくなな網を実感できない17歳の同胞会の子供たち. 98年 6月2日, 子供たちは翌日行われる「全校特別総会」を準備していた. この日の集いの関心事は、明日の行事で橋本と松田が本名を宣言することに集まった.

この緊張した集いを紹介するのに先立ち、『本名宣言』の主要登場人物たちを見てみよう. まず、藤原先生. 彼は同胞会指導教師 兼 歴史教師でもある. 若い時期、教会で日本の戦争責任糾明運動をしていて知り合った友人たちのうちの一人が、自分は在日同胞であり本名は○○○だと明らかにしたことががあった. このことが契機となり、藤原先生は日本の歪曲された差別政策に衝撃を受けて, 以後あらゆる人間が平等に暮らす世の中を信じて在日同胞学生を指導するようになった.

次は、同胞会学生達. 橋本 竹友, 2学年の彼の本名はク・ムバンだ. 彼は寡黙で内心をあらわさない性格だ. 97年、初めてムバンに会った時、彼は本名を宣言するかどうしようかと、苦悶していた. それからずっと「名前」という問題から抜け出すことができなかったようだ.

ムバンの後輩の松田 次郎は1学年で本名は イ・ジュンチだ. ジュンチは明るい性格のいたずらっ子で、同胞会の末っ子だ. ジュンチは初めて会った日、『ワールドカップで日本と韓国が試合をしたらどちらを応援するの』と意地悪な質問を投げかけたら、頭を抱えて笑いながら『韓国が勝てば良いけど, ぼくが住んでいる土地は日本だから、日本が勝ってもいいですね』と答えた. さて, これから準備の集りに入っていく前に読者がもう一度記憶するように願う. 同胞会内では、無条件に本名を呼ぶという事実を. 集りの開始は軽やかだった.

先輩 : ジュンチ, 学校ではまだ本名を使わないのか? 本名に変えるつもりはあるのか?

ジュンチ : 考えてみます.

先輩 : よく考えなければならないぞ. たぶん宣言したくなるだろう. ステージには立ちたいんだな?

ジュンチ : はい.

先輩 : それなら宣言しろ.

その瞬間、皆、笑いの海になった. この時には、まだ指導教師の藤原先生が到着するしていなかった. そこで、3学年パク・ジョンファが先生の話し方を真似した. 重い話だが、このように子供らしい茶めっけで始った集いは、いざ本論に入ってから変わった.

先生 : ムバンは、お母さんにどうしろと言われた?

ムバン : 父が反対だと.

先生 : お父さんがだめだとおっしゃるのかい? どんな理由で?

ムバン : ….

先生 : 君は宣言するのが正しいと思う ?

なにも話せないまま、誰とも目を合わすことができないムバン, そして、彼の友人たち…. 話はまたジュンチに戻った.

先輩 : ジュンチ, 君は明日、本名宣言をするつもりかい ?

ジュンチ : … いいえ, そのつもりはありません.

私の関心はムバンにあった. なぜなら、彼は長い間悩んできたし, しかも、父の反対に当面した状況であるためだった. 集いが終わって、ムバンとインタビューをした. 名前に対するムバンの考えはどうか, お父さんが何故反対すると考えているか, 今の心境はどうか 等. ムバンはほとんど話ができなくて困った. お父さんが何故反対なさっているかは知らないと, そして自分自身も苦しくて困っているという話が全部であった.

撮影をやめてくれと、彼は泣きわめいた. しばらくなだめた後, 私は理由をたずねた. 返事をしなかったその子は、『インタビューが放送されなければ良い』と言った. 困り果てた製作チーム. 難しいインタビューをして, その、どんな流暢な言葉よりも多くの意味を伝達できる、彼の沈黙と視線をあきらめなければならないということか. しかし、何より重要なのは人だった. 『わかった. 君が願うならばそうしよう』

その後, 2週間の撮影期間中、ムバンと私は、カメラの外でだけ話を交わすことができた.



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異なる人生を選択した白元と金ソンミ

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3年前にもやはり名前のことで難しい選択をしなければならなかった子供たちがあった. 当時 3学年だった村川清美は、金ソンミという自身の本名を宣言して, 白元大樹は日本名を固守した. 白元大樹は、当時、学級会議で本名を使えと勧誘する友人たちと先生にこのように話した.

『私は在日韓国人です. 皆の意見を聞きながら、有難いとも思うけれど, 本名を明らかにしろ、明らかにしろと言うのを聞きながら、果して、君達がなにを知っているのかという気がします. 韓国人という事実を明らかにすることはしたが, 本名を使う考えは全くないですよ. こういう問題に、果して正解がありえるんですか?』

当時、白元の担任だった藤原先生はこう話した.

『名前の問題が、個人の自由だというのなら, もちろんそれは自由でありうる. しかし、白元という名前が何故生じたのか、よく考えてみてくれ. 白元が白元という名前を使うしかない現実を作ってしまったのは私たちだ. そして、私たちの父母, おじいさん, おばあさんたちだ. それは、歴史的に作られたんだ. 歴史をよく知らなければならない』

同じ学年の村川清美は、95年、「全校特別総会」の場で、本名を宣言することに決定した.

『3学年 B班の金ソンミです. 今までは、在日韓国人だという事実を恥じていたようです. だけど、先生と同胞会の友人たちの激励のおかげで、いまは自らに対しての自負心を感じることができます. 私は、ただ、他の国の人として生まれたというだけでは, 決してありません. いままで自分の殻の中で18年という長い歳月を送りました. 尼崎高等学校で、韓国人として過ごす時間が, これからの人生で大きな力になるはずだと思います』

そして、涙を流し始めた. そして、続く彼女の絶叫のような言葉.

『これからは… 村川という… 偽りの名前ではなく… 金ソンミという… 真の私自身で生きていきます』

拍手が溢れでた. 一人の人間が自分の名前を探すのに、18年という歳月がかかった. どこの空の下に、こういうとんでもない風景があるというのだ. これからは別の生に向けて歩いていくと涙で約束した彼女は、卒業式場でも涙をこらえることができなかった. 親友の韓国民族衣裳で着飾りながら….

そして、3年が流れた. もちろん、二人に連絡をした. 白元は、帰化して、これから自分の本名は白元一つであると言った. 本名を使う事が当然で、また、最善の価値のように見なされる雰囲気でも、白元は堂々としていた. それは、自身の慎重な選択であったためだ. 誰が、彼の選択が間違っているということができるだろう.

彼の家から遠くない所で、金ソンミとインタビューの約束をした. しかし、金ソンミは、結局、約束の場所に出てこなかった. 通名の村川清美に戻ったという彼女を待ちながら, 私は「選択」という言葉に関して考えた. 二つの名前, そして、その間に置かれた大阪の子供たち, 果して彼らが処した状況を、自らの選択ということができるだろうか.



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6月1日, 全校特別総会 一日前

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話は、また、同胞会の準備の集いへと戻る. 3学年のパク・ジョンファは、後輩の松田(イ・ジュンチ)に、本名を宣言しろと誘う先生に反論を提起する.

ジョンファ: 先生, 事実、本名に変えても何も変わらないですよ.

先生 : それでも、きちんとしなければならない.

ジョンファ : 先生, でも、今悩んでいる子に対して、宣言しろと言っても効果がないのでは?

先生 : 無駄ではないよ, このように討論をすることが重要なんだ….

ジョンファ : 自分からしたいと感じた時にするべきではないですか?

ジョンファは、結局泣き叫んだ. ひょっとすると、彼女が学校を卒業する瞬間, 彼らが突き当たる巨大な差別の網を察しているのかもしれない.



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6月2日, 全校特別総会当日

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長い一日が過ぎて、本名宣言の日がきた. 橋本は、結局父の反対で沈黙を選択した. 松田も、やはり本名宣言はしないという. それなら、今日の「特別総会」の場で、本名を宣言する人はいないわけだ.

ところが、思いがけない事が起きた. 舞台に立った橋本と松田. 橋本は集いに関する簡単な紹介だけをした. そして、マイクを譲りうけた松田. 少年はためらった. そして、続いた一言.

『私は、1学年 H班のイ・ジュンチです. 今までは松田という通名を使ってきましたが, 今後はイ・ジュンチという本名で呼んでください』

友人たちはもちろん, 先生さえ気がつかなかった本名宣言だった. 舞台を降りてきたジュンチは、一日中悲痛な涙を流した. そして、そのような子供を眺める私は、瞬間に押し寄せる、あまりにも多くの思いに、どう話しかければいいのか、判断できなかった. そのような 状態でジュンチにマイクを向けた.

監督 : 涙が止まらないのは, 今、どんな気分だからですか?

ジュンチ : いままで積み重ねてきたつらさ…、それからすっきりして、うれしくて….

監督 : 舞台上では、イ・ジュンチと宣言しただけだったけれど、もっと言いたいことはあったの ?

ジュンチ : 先輩がぼくのために、いろいろ考えてくれて… 昨日は、ぼくのために泣いてくれた先輩もあって, それで、それを知っていると話してみたかったのに, 話すことができなかったのです.

監督 : 次郎という名前と、ジュンチという名前は、どのように違う感じがするでしょうか?

ジュンチ : 次郎という名前は、ぼく自身の仮面のようなものであり…、今まではその仮面をかぶって他の人に対してきたと思います.

監督 : 今後、本名を使ううえで、多くの問題があること, また、人生が大きく変わることを知っているんですか?

ジュンチ : 今よりもっと難しくなると思います. 今後、本名を使いながら、差別をなくすようにしたくて, ぼく自身も他の人に 敗れないように 熱心に 生きたいです.

監督 : 後悔はない?

ジュンチ : はい。

インタビューの最中、終始涙をこらえようと努めたジュンチ. そして、そんな子にカメラを向けるしかない私. ジュンチと私は、真に多くの思いと感情が交差する瞬間を迎えたのだった. 言葉で説明できない、少年の涙と笑いの前で, 私は『本名宣言』の主題を決定していた.

在日同胞3世の金グァンミン氏は、大阪民族教育運動を率いる青年だ. 彼自身がジュンチと似た時期から本名を使い始めて, 高等学校卒業後、韓国にきて 5年間留学生活をした. 彼は、韓国語をたいそう流暢に駆使するのだが, 会話を習う時、彼は「韓国人と韓国語で戦って勝つこと」を目標としたという. 彼は、ジュンチの話を伝え聞いて, このように話した.

『本名を使うということは難しい事でしょう. また、差別と戦うという宣言でもあります. だが、差別と戦うために, 言いかえれば、日本社会にある不条理と戦うためには、基本的な自分自身のカードがなければならないのです. それは、やはり正しい歴史が裏付けされてこそ可能なことでしょう. そうして、自分と民族, そして歴史に対する自負心が生じることでしょう. そうでなければ、学校を卒業した後に、その選択は容易に崩れかねません』



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6月3日, 本名宣言 翌日

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マツダがジュンチに変わった翌日, ジュンチと友人たちの昼休み. 参考までに、ジュンチの日本名は松田 次郎だ.

友人: それでも、私は次郎と呼ぶよ.

ジュンチ : まさにそれが難しい問題だ.

友人 : 姓が 「イ」なの, 「リ」でなく?

ジュンチ : うーん.

友人 : イ・ジュンチ…. 良いなあ, ぼくも名前を変えようか?

ジュンチ : 1学年中で本名は、鄭ジャンリュン君とぼくだけだ.

友人 : 次郎と呼ぶほうが気楽でいいのでは?

ジュンチ : それでも事実は違うよ.

友人 : わかった. では 今後はジッチ( ジロウとジュンチを合わせた名前)と呼ぼう.

ジュンチ : それはないよ.

友人 : たいして違わないじゃないか.

やはり子供たちらしい軽さが笑いを作る. 深刻な話の重さを減らして違うことのように見る子供たち. しかし、やはり辛さはどうしようもないことだった. 『本名宣言』の後半作業中、事務室に立ち寄った、ある在日同胞は、まさにこのように日常で体験する、ささいな問題が最も難しいことだと耳打ちしてくれた.



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イ・ジュンチ, 生まれて初めて韓国にくる

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『本名宣言』は、10月初めに開幕した第3回釜山国際映画祭競争作として出品された. そして、映画祭も終盤にさしかかった 9月29日, ジュンチが釜山映画祭にきた. 生まれて初めて母国の土地を踏んだ少年は、『韓国で良い経験を多くしたい』という話で所感を伝えた.

台風の影響で雨が降る釜山のアカデミー劇場. 以前の上映で『本名宣言』はドキュメンタリーでは初めて売り切れになり、そして観客たちのスタンディングオベイションを受けた. そして、ジュンチが来たこの日、劇場の風景は感動そのものであった. 観客たちの前で、ジュンチは終始照れながら手で顔をなでて、笑みを含んで『韓国の道を通りながら、真の故郷だと感じた』と話し始めた.

続いて、ジュンチの父 イ・ジンホ氏は、挨拶をしている途中で涙声になってしまった. ジュンチが映画でと同じようにバイオリンで演奏をするようにと、拍手が湧き上った. バッハのメヌエットを演奏している途中で失敗して演奏が途切れると、ジュンチは「小屋の下に立つ鳳仙花」に曲を変えて演奏した. それにつながる観客たちの合唱. どんなドキュメンタリーがこういう風景を描き出すことができるだろうか.

上映場の前には、ジュンチと同胞会の子供たちに送る観客たちの激励文がぎっしり記されていて, ジュンチのサインをもらおうという観客たちが並んだ. そして、ジュンチは観客たちから本と記念バッジなどの贈り物をもらった.

翌朝, ジュンチは帰りたくないと言い出した. 台風で飛行機は欠航になって, 少年の旋風(註:パラム・勢いを風に例えていう)は、ついに韓国でもう一日とどまった. 大阪少年, イ・ジュンチの本名宣言は終った.

しかし、彼と同行した父の痛ましい顔には、息子の人生が険しくなりはしないかという複雑な心境を読むことができた. ジュンチの本名宣言はまだ終わらないのだ. 戻った後、彼は「朝日新聞」のインタビューを受けたという知らせを送ってきた. そして『本名宣言』は、釜山国際映画祭でウンパ賞(最優秀 韓国ドキュメンタリー)を受賞した.



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自身の姿を水に照らさず、人に照らせ

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『本名宣言』は、二つの名前の前で自身と闘う少年たちの記録だ. 在日同胞の名前, 正体と実体性, 差別, 民族, 歴史…. 浮び上がるように多くの話を聞いたが、いったん置いておく.

混乱の時代, 多くの言葉が行ったり来たり. 盛んな話の種の間にひと株の樹が見える. とんでもない待ちぼうけを食った竹は、からだは動かなくても, 少しはその葉を揺らした. 私は、この子供たちの小さな話を通じて、私たちの中心にある「樹」に関して考えてみたかった. 私達が見落としてきた歴史, 存在さえ忘れて生きてきた在日同胞, そして私達が作り出した現在. 私が探した共通点は記憶に無く, 感じず, 覚えない「私たちの自画像」だった.

松田 次郎, 本名 イ・ジュンチという少年は本名を宣言した. 私は、少年の勇敢な瞬間を撮ることができた. 時間が流れた. そして、撮ることはできなかったのだが、少年が本名宣言をする前日の夜について考えた. 少年にとって、その時間は何だっただろう. とりあえず、自分だけが存在した道と、長い孤独の時間, 私はその熾烈な孤独にカメラを向けたいだけだ.

「無鑒於水, 鑒於人」 自身の姿を水に照らさず, 人に照らせ. 少年に照らした私たちは、果してどんな姿だろうか. 私の小さなカメラが、少年と母国を繋いでくれる丈夫な綱になることを希望する.



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故  郷       

丸岡 忠男



故郷を隠す理由,

父は獣の本能で学んだ.

故郷を明らかにして、再び帰ってこない友人があった.

故郷を告白して、婚約者が離れてしまった友人があった.

息子よ,

君には、胸の矜持で故郷をいえるようにしてあげたい.

堂々と目覚めて、なんの躊躇もなく

『これが私の故郷だ』と

言えるようにしてあげたい.






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在日コリアンの現在を伝える素敵なホームページ"My road to the Pearly Gates"もどうぞ

 

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