97年5月号新東亜
汗流す 泗溟大師 表忠碑のなぞ 和らいだ |
【 ミステリー 追跡 】 《国に 重大事が ある 時ごとに あらかじめ 予告でも するように 汗 を流す 神秘の 碑石 . ある人は 泗溟大師の神通力 であるといい, また 他の人は 単なる自然現象だという. この泗溟大師の 霊験が 度々起きた 蜜陽を 訪ねて 神秘を はがしてみたら….》 1997. 3. 6 12:00〜17:00 32リットル 韓宝事件, 国会不均衡, 改閣 等 国家危機 憂慮 1997.2. 25 17:00〜20:00 3リットル 金泳三大統領 就任4周年 特別談話, 韓宝不渡り事件, ファン・ジョンヨプ書記 亡命, イ・ハンヨン襲撃 等 国家的 危機 状況 憂慮 1996. 11. 5 13:00〜22:00 江陵 潜水艦 事件と 武装共産軍 侵入 1996. 1. 14 13:00〜17:00 2升 前職大統領 二人の 拘束, 15代 総選挙関連 選挙費用 (以下 省略) 独裁政権 の時期の 民間人 査察を 連想させるような 上の 報告書は 蜜陽警察署が 弘濟社 表忠碑(別名 泗溟大師碑;密陽市 武安面 武安里 所在)が 人の からだのように 汗を流す「おかしな」 現象を 記録, 上部に 報告した 文中の 一部だ. 日付の そばの 数字は 表忠碑が 汗を 流した 時間を 記録したものであって その 次は 流した 量を 表示したものである. この報告書は 表忠碑閣の そばに 位置を占めている 派出所 職員らが 汗 を流す状況を 把握し 蜜陽警察署に 報告し, 本署 情報課でこれと 関連した 民心 動向を 付け加えた 後 「より 高い 所」に 提出される. 蜜陽警察署の 情報関係者は 「表忠碑 汗出 動向」は 歴代政権は もちろん 金泳三政権でも 相変らず 「大統領府 直報告 事項」だと 耳打ちする. すなわち 韓国 最高 権力層でも 表忠碑の 発汗は 現象を 敏感に 受け入れていると ことを 暗示する 大きな課題だ. 常識的にみるなら 碑石から 汗が出ること 自体が 珍奇である のみならず それを 権力層が 民心と 連結させて 鋭敏に 考えることも おかしな ことだ. ところが この 汗 を流すは 碑石は ひとり 権力層の 関心事だけではないようだ. 管内で 「要視察 対象 1号」で 表忠碑を 観察する 派出所 辺一秀 所長は 『国に 事件 事故 等 変わった状況が起きたり デモ 等 大きい 政治的 問題が ある 時には 通例 表忠碑が 汗を 流すのではないかとの 一般人等の 電話 問い合わせが 甚だ多い』と話す. このように 人々が 碑石が 汗を 流すことと 国 の 事情を 連結させてみることには 自ら 理由が ある. 表忠碑は 1894年 甲午 東学革命 の7日 前に 3斗1升という 分量の 汗を 流した 以後 ずっと 私たち 歴史で 重要な 事件が 生じる時ごとに 間違いがなく 汗を 流したためだ. 実際に 妙にも 歴史的 事件が 発生する幾日か 前に 表忠碑は あらかじめ 予告するように 汗を 出す 現象を見せている. 平均 1年に 二回程度 汗を 出す 表忠碑は 97年に 入って すでに 二回 汗を 流すことによって 労動法改正と 韓宝事件 等で 引き起こされた 現在の 国家的 危難を 暗示したとも する. 泗溟大師の 神通力か 高さ 2.76m, 幅 97cm, 厚さ 55cm の 雄壮な 大きさに 烏石と 呼ばれる 石材で 立てられた 表忠碑(表忠碑). 碑石 4面に 泗溟大師と その 師匠の 西山大師の 碑銘 などが 彫られて あって 「泗溟大師碑」とも 呼ばれる. このために 表忠碑 所在地の ムアン里の 住民たちは 碑石から 汗が出る 現象を 泗溟大師の 霊験が 宿っているためだと 硬く 信じている. そうであるせいか 表忠碑は 他の 碑石とは 別の「待遇」を 受けている. 碑閣 前には 燭台と 香炉が 設置されていて 参拝客らが 訪れて 香を焚いて 碑石に具える 姿を 退屈せずに 見ることができる. それだけでなく 蜜陽の人々は いっそのこと 蜜陽 出身の 泗溟大師を 「蜜陽の 守護神」として 感じる 傾向も 見られる. 蜜陽で 毎年 行われる 伝統 祝祭の 「アラン祭」の 行事は 表忠碑閣 で点火式を 行うことによって 始まり, ムアン面の 綱引きと 龍虎遊びも 必ず 表忠碑で 端緒を切って 挙行される. また 泗溟大師の 生家跡地と 推定される ムアン面 コラ里には 現在 大規模な 泗溟大師 遺跡地 聖域化 事業が 行われており, こちらの 村の 小学校には 泗溟大師の銅像が 学校の 象徴物のように そびえ立っている. 壬辰倭乱(文祿の役)時 戦争 外交を 通じ 倭将を こらしめて たたき壊した 僧侶で 民族の 英雄として 歴史に 記録されている 泗溟大師が少なくても 蜜陽でだけ活き活きと 生きて 息を吸っている わけだ. 一方 歴史的に 泗溟大師と 切り離せない 関係にある 存在が 直ちに 日本だ. さる 96年 1月14日 表忠碑が 汗を 流した時 村 住民たちは これを 日本と 連結させて 意味を 附与することもした. 当時 日本政府は 従来とは 違うように 非常に 露骨的に 韓国の 独島(竹島) 領有権を 主張したために 韓国人等の 憤怒を 買ったのに, 村の 人々は 泗溟大師が 震怒し 表忠碑が汗を 流したと 解釈した. このような 情緒は 遠く 旧韓国末 時代まで 上がる. 1905年 日本の 奸計で 乙巳条約が 強制的に 結ばれるや 朝鮮 八道では 『五庚後に 泗溟大師が号泣を する』という予言が飛び交った. この 予言は そのまま 現実のものとなった. 日帝の 強制 併呑が あった 庚戌年;1910年 国辱を 控えて 海印寺 中に ある 泗溟大師碑(弘濟寺 表忠碑とは 違う)が 夜を明かして 泣いた ことだ. 泗溟大師 荼毘処(臨終した 所)に 建てられた この 碑石の 正式名称は 「茲通 弘濟尊者(弘済尊者) 泗溟大師 石工碑」だ. 遠くから 聞けば 音声が聞こえ 近づけば 聞こえないが また 遠ざかれば 音声が鳴ったりした 神秘の 碑石だ. 碑文には 泗溟大師が 入寂した年が 光海君 2年(1610年) であったため 1910年 国辱の 3百年前となり、そのためか、その年(1910年)に 5回 さるに 5年後に 碑石の 泣き声が 聞こえたという. 日本が 大東亜戦争を 起こした 後 敗勢が濃くなってきた 1943年にも この 海印寺 泗溟大師碑が 泣いたし, その 号泣の うわさは 一瞬のうちに 八道に 広まった. これは 日本が まもなく 敗亡して 祖国が 光復になるという 希望を 朝鮮 民衆らに 抱かせた. すると これに 当惑した 陜川警察署が 泗溟大師碑を 4つに切断してしまうことによって 「神秘な 碑石」は 消えてしまった. うわさによれば 当時 碑石を 破壊した 人々は 泗溟大師の 罰を 受けて 皆 死亡したというが ひとつも 確認する 道は ない. 表忠碑の 氣を失わせろ! 陜川 海印寺の 泗溟大師碑が 鳴き声を出したとのことは 蜜陽 弘濟寺の 表忠碑が 汗を 流すという ことに より一層 神秘感を 附与してくれる. そして これらの 碑石が 皆 道術が 高いように 有名な泗溟大師を 賛えるという 点から 人々は 「泗溟大師ならば 十分に そのようなことが出来る 現象」だと うなずく. それは すなわち 民心が 当代の 権力 支配層にまで 影響を およぼすことともなった. このために 弘濟寺 表忠碑も 海印寺 泗溟大師碑のように 受難の 歳月を 経験した. 日帝時期 庚戌国辱と 3.1運動 等 韓民族の 運命と 関連が 深い 事件がおきる時ごとに 汗を 流した 表忠碑が 日本人らに きれいに 見られるわけがなかった. しかし 千万多幸なことに 表忠碑は 海印寺にあった 碑石のように 打ち壊しの 悲劇は 体験しなかった. 代わりに 日本人は 表忠碑の 「氣」を 破るために 風水的 論理まで 導入したと ムアン里 村の 村老らは 証言する. 陣登山の 正氣が 降りてきて かたまった 所に 位置を占めている 表忠碑 直ちに 後方向 土地下に 日本は 鉄筋を埋め込み その 上に タバコ倉庫を 建設したとのこと. 鉄筋にしろ 苛酷な においがする タバコにしろ 皆 脈を 切るための 手段だった. それだけでなく 日本人は 泗溟大師 碑石 周囲に 日本人 官舎と 支署(現 派出所)を 設置し 「碑石の 氣」を 遮断する 一方 碑石 前のほうにあった 蓮池を 埋めてしまうことまで した. しかし このような 蛮行 ゆえに こちらに 住んだ 日本人は やはり その 罰を 受けたと いう. 村の 敬老堂で会った ある 村老は 『日帝時 金持ち, 先生, 商人 等 日本人が たくさん 入って 住んだのに ここで 息子はもちろん 娘 息子 を産んだ 人が 誰も いない』とし, 碑を き損させたことに 対する 泗溟大師の 懲戒の返答だと 分析する. 事実 蜜陽 一帯は 泗溟大師の 霊験伝説が 隅々まである 所でもある. 表忠碑から 8km程 離れた ヨンチェ山 大法寺(密陽市 中山里)には 泗溟大師が 50歳の 時に 持っていた ツエを 土地に さして 置いたのが 育ち 葉をつけたという 花梨が 立っている. 高さが 2m20cm, 太さは 3m20cmで 樹下で おとな 二 人が 両腕を 広げて 捉える 程度で 威厳がある. この 寺は 泗溟大師が 臨終する前 10余年間 とどまった 所でもあったが, 臨終 後 その 影幀を 謀臣 だと して 朝廷から 表忠寺(表忠詞)という 名前を 下賜したが 後に 影幀が ダンジャン面の 現 表忠寺で安置されたために 元来の 名前を 抜かれてしまったという. ところが この 寺で 28年間 住持として在任してきた 知恵僧侶は この 杖の樹を 通じ 泗溟大師の 号令を 聞いたという おもしろい 話をする. 知恵僧侶が 6年前に 体験した ことは こうだ. 海抜 6百m 高地の 狭い ところに 位置を占めている この 寺は 普通 人々が 見てもも 法堂が あまりに 狭小だ. その上 泗溟大師の 杖の樹として知られる 花梨(知恵僧侶は 泗溟大師の心は 樹であることだと話す)が 大きく 法堂の前を さえぎっていて 見えにくい. 法堂を ひろげようとするなら 花梨を 他へ 移さなければならなかった. 樹を 移すことを たいしたことではないと 考えた 知恵僧侶は 工事日程を 絞った. ところが 人夫らが 仕事を始める前日 の夜 奇異な 現象が 起きた. 用事を終えて 寝た 知恵僧侶は 突然に 山河が 響くような 声に 目を 覚ました. 寂莫だけの 山中に なぜ 飛行機が 墜落したかという 程度に 騒がしくて 外に 出てみたが なんの 声も 聞こえなかった. また 部屋に 入って 睡眠を とろうとしたところ 今回は 虎が 咆哮するような 音声が 鳴り響いた. 『私が 4百年を 守ったのに お前は 勝手を するのか?. 私は 絶対 行かない』 知恵僧侶は 背筋が 寒くなった. 声は 明らかに 花梨側から 鳴り響いていた. あわてて 外に 出てみた. 8月 真夏だというのに 花梨から とても 冷たい 風が --吹いた. 翌日 明け方 6時 知恵僧侶は 工事監督に 電話をかけて 樹を 移すことを 取消した. このような 話が ある 僧侶の 個人的な 神秘体験であるに過ぎないと 無視してしまうには 現在の 大法寺 構造が 真に 異常だ. 元来の 狭い 法堂と 花梨は そのまま 置いておいたまま, 法堂を 正面から 眺める時 右の 空地に 新しい 法堂を 建てる 工事が 真っさかりであるためだ. 数十億ウォンを 投入して 大規模 工事をしながら 本尊仏を安置する 法堂は中心から 遠くなる, すなわち 寺刹建築 常識から 大きく 外れる 工事をすることは 泗溟大師の 力が 作用した故などとは 違い 説明するのが 理解に苦しむ. 人の汗と 似た 表忠碑の汗 泗溟大師の 霊験が 現在の 世界にまで 影響を及ぼすという ことは 確実に 表忠碑が 汗を流す 現象にも 泗溟大師の 神通力が 介入できるという 論理を 提供する. 表忠碑 近隣の 村民たちは 汗を流す現象が 現在の 科学的 常識では 解けないという 根拠を 数種類 提示する. ▲表忠碑の汗は 人のからだから 汗が出たかの様に 碑石の四面から勢いよく湧き上がってくる. また その 汗を 味わえば 若干 塩辛く 感じられる程に 人の 汗と 似ている, これは 普通の水でないという 証拠だ. ▲表忠碑の 汗が 湿気 等 気候による 自然 現象というならば, 何故 湿気を ぎっしり 含んだ 梅雨期には 一度も 汗を 流したことがないのか. ▲かりに 気候による 自然現象で 汗を 流すとしてても 碑石に 深く 彫られた 字の中には 流れない. 縦 方向に 彫られた 漢字の 間, すなわち 表面が すべすべした 所を選び 流れる. 一般的に思う時 水というのは 窪んだ所に 流れ込むことが 常識なのに 表忠碑の 汗は そうでない. ▲表忠碑を 保護する 碑閣の柱は もちろん 10m 離れた所の 碑石一 弘濟寺 寺跡碑では 同じ 条件でも 全く 汗が出ない. また 全国で(から) 表忠碑のように 汗を 流すという 碑石は まだ ない. ここらで 本格的に 表忠碑の 汗を流す現象を 分析してみよう. 以前 密陽市 保健所では 表忠碑の 汗を 採取, 慶尚南道保健環境研究員に 成分 分析を 依頼したことがある. 分析 結果 表忠碑 汗は 数種類 の重金属と 共に 人体の 汗と 似た 塩素成分(塩分)が 含まれているという ことが 明るみになった. 当時 この 実験に 参加したことがある 保健所の イ・クムヒ氏は 『住民たちが表忠寺の汗から 程よい 味を見ることができたのは 直ちに 塩素 成分 のためで, 表忠碑 石材 自体でも 塩素成分が 検出されると思う 』と話した. 表忠寺碑の 材質と 関連し 釜山大 金恒黙教授(地質学)は 最近 表忠碑各 探査で 興味深い 実験結果を 発表した. 金教授は 烏石と 呼ばれる 表忠碑は 鉄分が 多量 含まれていた 塩基性 火成岩の 輝緑巌で 容易に 冷たくなる 性質が あって 多湿な空気 などが 吹く 場合 他の 材質より つゆが よく 結ぶ 特性が あることを 明るみにした. さらに 碑石は 表面が 鏡のように つるつるし 表面張力 ゆえに 一度 結露した つゆが 永らく 維持することができる 特性も また 揃えていると した. 反面 表忠碑を 保護する 秘閣の 柱から 汗が 流れない ことは その 材質が 酸性が強くて 容易に 冷たくならなくて つゆを結ぶのが 難しいためだと 分析した. 言わば 表忠碑は その 材質 自体が汗を よく 出すことができる 「必要条件」を 揃えているとのこと. 科学の 挑戦 それなら 表忠碑に 汗を流させる 外部的 「充分條件」も 必要に なっている. まず 表忠碑の 由来を 注意深くみる. 記録によれば 表忠碑は 1738年泗溟大師 を 賛えるために 彼の 法孫である南鵬が 慶山(慶山;慶州の 山)から 採取した 石で 4年をかけて 完成したという. また ダンジョン面 表忠寺に 保管されている 「四面塔 碑閣 移転 序文」によれば 朝鮮朝 末 釜山鎮にあった 碑を 蜜陽に 移転してきたと 記録されている. 朝鮮朝 末が 具体的に いつなのか 明確にしなかったが, 釜山にあった 碑石を 蜜陽に 移転したことは 非常に 意味深長だ. 記録に よれば 表忠碑が 一番最初に 汗を 出したのは 1894年 東学革命 時のことだ. だから 1738年に 造成されて以後 1百50余年間は 表忠碑が 汗を 流したという 記録が 全く ない. これは 朝鮮朝 王朝が 後期に 立ち入りながら 国家的 危機が ない この 期間には 表忠碑が いかなる 霊験も あらわさなかった 意味になる. そして 蜜陽に移転された頃として推定される 朝鮮朝末, すなわち 1890年代に 入って はじめて 汗を 出し始めたということだ. 結局 蜜陽の ムアン面という 特殊な 地形 自体が 表忠碑に 汗を 出すことができるように 「手助けした」ことだと 分析できる. 金教授は これを 自然科学的に 説明する. 『つゆが できる 結露(結露) 現象は 通風が 不良な 盆地型でよく 発生する. すなわち 雨が降る前でも 霧が 混ざった 日 等 湿度の 高い 空気が 吹いて 冷たいものに 触れれば つゆを 結ぶようになるのに, 通風が 不如意な 所では つゆが まともには 蒸発しないために 水となり 流れる 現象が 生じる』 彼の 言うように ムアン面は 盆地型の 地勢を 揃えていて 表忠碑が 汗を 出すことができる 充分條件を 揃えている. それなら 必要と 充分 条件が 備わった 状態で 実際に 表忠碑は どのように 汗を 出すことができるか. 釜山大 黄水鎭 教授(気象学)は 簡単な 実験を 通じて 碑石の 結露 現象を 再現できると 話す. 『碑石の 結露現象は 湿気を 含んだ 暖かい 空気が碑石に 着いて 冷たくなれば 自然的に 発生する. 気象学では 空気 中に 含まれた 水蒸気の 量を 表示する 数値に 「比湿」( 1kgの 空気中に 含まれた 水蒸気の g水)という 用語を使うが 温度が 高まるほど 飽和比湿(1kgの 空気に 最大限 含まれる 水蒸気量)の 数値が 上がって, 温度が 下がって行けば 飽和比湿の 数値 はやはり 低くなる. したがって 高い 温度で 水蒸気を 含んだ 空気を 強制的に 低い 温度にすれば その 差によって 水蒸気を そとに 排出するようになる. 例えば 実験室で 碑石の 温度が 摂氏 20度で 周辺の空気が やはり 摂氏 20度に 湿度を 90%(雨が降る 可能性が 高い 水準)で揃える. この時は 碑石と 空気の 温度差が ないので 結露現象が 生じない. 湿度が 高い 梅雨期に 碑石が 汗を 出さない ことは このように 周辺の 温度と 碑石の 温度に それほど 差が ないためとみることができる. ところが 空気中の 温度と 湿度を そのまま 維持しながら(摂氏 20度に 湿度90%) 碑石の 温度だけ 摂氏 5度に 低くすれば 碑石に 結露する. その つゆ は 摂氏 20度で 含んだ 水蒸気量と 摂氏 5度のときに最大で 含まれる 水蒸気 量を 引いた 残りだ』 少なくとも 二 教授の 実験によれば 表忠碑で 汗を流す 現象は 非常に 科学的に 説明することができるという 結論となる. しかし 村民たちが 主張した様に 何故 唯一 表忠碑でだけ 結露現象が めだつように 現れているか, そして よりによって 国家的 重大事件が 発生する 時点に 合せて 汗を 流すようになっているかは 相変らず 疑問が 残る. これに 対して 金教授は 『それは 科学 外の 問題』としながら 『泗溟大師ほどの 高僧の 霊的であり 超自然的な 力を 無条件に 無視する ことは ない』と話す. しかし なぞは 相変らず 舞台を 少しの間 蜜陽の 表忠碑から 全羅北道 完州の 松広寺に 移してみよう. 蜜陽の 表忠碑に 劣らず 護国仏教的 特性を もっている 松広寺は 安置している 仏像から 国に 重要な 事が ある 時ごとに やはり 汗を 流すと 世間に 噂されて いる 所だ. 最近にも 仏像が 汗を 流して, 今でも その 痕跡が 残っていると して 痕跡が なくなる前に 急いで 行ってみた. 蜜陽の 表忠碑が 壬辰倭乱(文祿の役)と 関係されているならば 松広寺は 丙子胡乱と 深い 因縁を 結んでいる. 朝鮮朝 中期 1620年に 仁祖大王が 仏力を 借りて 外国の侵略から 国家を 保衛, 丙子胡乱時 中国 沈陽に 捕えられた 者の 早期の 帰還を 祈るために 重唱仏事をした 典型的な 護国寺刹である. そして この 本堂の 大雄殿 三尊仏(釈迦仏, 阿彌陀仏, 薬師如来仏)と 冥府殿の 地蔵菩薩 仏像が 国家が 危機のとき 間違いなく 汗を 流すという ことだ. この 寺の 住持の ジウォン僧侶の 話. 『さる 93年 松広寺の住持に 赴任して 以来 ぼくの 目で 仏様が 汗を 流すのを 4回も 目撃した. 大雄殿の 阿彌陀仏は 96年 11月頃 江陵 武装共産軍 侵入事件で 共産軍 が 射殺され 乱れていた 時点から 汗を 流し始めた 今でも 胸に流れ行き 染めていて はなはだ 気掛りだ. 以前には あんな 現象が なかったのに 国に どのようなことが起きるのか わからない. そして 95年末 盧泰愚前大統領 秘密資金 事件と 95年 6月 三豊百貨店が 崩れる 頃には 冥府殿の 地蔵菩薩が 途方もなく 涙を 流すのを見て 93年 10月 西海ペリー号が 辺山 近海で沈没した 時は 大雄殿の 薬師如来が 涙を 流した. 奇しくも 大雄殿には 全く同じ 条件の 仏様 3尊が 祭っているのに 涙を 共に 流す場合もあるけれど 大部分は 別々に流すので 自然的の 現象だと 説明することは 難しい』 実際に 大雄殿の 阿彌陀仏は 胸部分をほの赤く 染めていて, 釈迦仏と 薬師如来仏も 水が 流れた 跡が 鮮明だった. そして 大雄殿の 片隅には 87年から 91 年までに 4回 汗を 流した 仏像の 写真と 日を 記入し 展示しておいていた. これを 表忠碑の 汗記録と 対応してみよう. 仮に 国に 重大事が ある 時ごとに 表忠碑か 仏像が 汗を 流すならば ある程度 一致性が あるのではないかという 期待感からだ. 汗 を 流した 歴史や 記録数を見てみると 表忠碑が 優越なために 松広寺 記録にある 日(計 8回)を 表忠碑 に あてはめてみる これを また 当時に 国家的 事件 事故が あったかを 検討してみる 方法を とった. 対照してみた 結果 お互いの 記録から ある程度の 一致性を見せたことは 松広寺記録 基準で 5回であり 残り 3回は 特別な 関係がなかった. 一方で 表忠碑から 汗を 流した 記録(蜜陽警察署が 把握した 資料で 計49件)を ずっと 注意深くみれば 国家 重大事だと 意味を 附与するには 多少 無理になる 日も なくはなかった. 独裁政権に対する 警告 最後に 泗溟大師の出生地を 調べてみるという考えで また 蜜陽に 足取りを 移した. 弘濟社 表忠碑をすぎて ムアン面 中山里に 向かう 町角で 表忠碑と 似たように作られた 石碑を 発見した. 碑石に 碑閣を 建っていて, 碑石の 大きさと 材質が あまりにも 似ていて 好奇心が わきあがってきた. 碑文を 読んでみると 「松界 シン・ソンセン 六威碑」と 書かれていた. たまたま 道を通り過ぎた 村老が あって 尋ねたら 自身は シン・ピョンサン氏(81)でこの 碑石 主人公の 子孫になるという. そして それから 驚くべき 話を聞いた. 『碑石は 立てて 3年に なる. ところが ある日 碑石を 注意深くみる 水が 流れた 跡を 発見した. ひょっとしらと思い 泗溟大師碑に 汗が出る 日に 碑石を 見ると やはり 全く同じく 汗が 流れていた』 それなら 学者が 主張した様に 泗溟大師碑が 汗を 流すことは ムアン面の 地理と 気象学的 条件から 発生する 自然 現象という 説明が 説得力を 持つ. しかし シン氏の 主張を 後押しする 証拠を 確認することは 難しかった. ムアン面事務所と ムアン面 住民たちに 対して 問い合わせを してみた 結果 『シン氏 六威碑が 汗を 流すという ことは 初耳であり そのような事は ない』と 強く 否定した. 結局 汗 を流す 現象は 科学で 説明できるものの それに対する 意味づけは 科学の 範ちゅうを 越えることであることは, 泗溟大師生家跡地 の直前で 「トクミョン寺」という 小さい 寺を 運営している 女菩薩に 偶然に 会いながら 感じることができた. 「人徳化」という 仏名を 持った 彼女は このように 話した. 『私が 泗溟大師を 奉じて 4年目だ. 実は 既に 10年前に 夢で 泗溟大師 の出生地を見て めくらめっぽう 探したところ ここが 夢に 見た そのままであった. それで わたしは それから ここに 住処を作って 生きている. 表忠碑に行って 1週間 終始 祈祷をして 過ごしたこともある. そうしているうちに 人々の 信仰を呼び そのまま 表忠碑に 泗溟大師の 霊魂が 宿っていることを なんども 実感した. たとえ 汗を だすこと 自体は 自然科学的な 現象といっても 泗溟大師が 天気を 通じ 国家の 重大事を 暗示すると 受け入れれば 国民 情緒上 むしろ 健康なのだといえるのではないだろうか』 事実 日帝時代 韓国を 支配した 日本人は 話す必要がなくて, 光復(解放) 以後 国民から 正統性を 認められない 権力者らは 表忠碑が 汗 流すことに 対して 恐れを 感じてきた. 表忠碑を 管理する 弘濟社 僧侶らは 『国が 乱れている時 表忠碑から 汗を 吹き出しても 役人が 外部に 口外できないように したりした』と話す. これは 表忠碑が 情操的に 独裁者らには 警戒心を 呼び起こす 表式であったし, 独裁政権で 呻吟する 一般 国民には 一つの カタルシスに されてきたことと 見ることができる. 汗を流す 表忠碑の 真の 価値は まさしく ここに あるのてはないか. アン・ヨンベ |