"人生も料理もオーケストラ"
食べるために買うことは知っているのだが、食べる楽しみがなければ、人生は何が面白いのだ.
楽しく食べるためのもう一つの方法は、直接食べ物を作って、料理一皿に含まれたものを考えてみることだ.
この国の男たちの新しい楽しみのために、'新東亜’は、新年から容易にやってみることができる料理コーナーを開くことにした.
イ・ガンピル 東亜日報 新東亜 記者
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妻がいない家に帰って、ひとりでご飯を炊いて、鍋を炊き、食事を解決できる大韓民国の若い男が果して何人になるだろうか.
料理を趣味として前面に押し出す男たちが増えてきているのだが,
いまだに、大抵は料理を作る楽しみよりは、整えられた食膳に慣れきっているのが現実.
正常に自分自身だけの苦労で食事の仕度をするべきだとすれば,
その面倒を避けるために、いっそのこと外で食べて帰る場合がはるかに多いだろう.
このような点で見る時、もう還暦を過ぎて、三人の娘を皆嫁に出した,
そうして、遠い以前ならおじいさんの隊列に加えられていた、ハン・ウァンサン
尚志大 総長(64)は、その年配の人々と比較して確実に卓越した‘生存能力’を持っている.
何より、彼は台所を恐れない.
むしろ、“私が作った料理を食べてみた人ならば、皆、実力を認める”と話す程、台所に入っていくことをうれしがる.
いろいろなルートを通じて、彼のこういう容貌を十分に知っていた取材チームが
‘男のための料理コーナー’を作っ て、その初走者としてハン総長を浮上させたことは自然なことだった.
取材チームが 尚志大
総長室に電話をかけて、趣旨を説明すると、“新東亜でそんな企画をしたんですか”と、快く訪問を許諾してくれた.
総長室
秘書は、ハン総長が“見せたい料理があるんだけど”を連発し、“こっそり興奮なさったようでしたよ”と笑って伝えた.
11月最後の日曜日の夕方,
ハン総長の家にはたった今教会から帰ってきたハン総長夫婦の他にも、三人の娘の中で、唯一韓国に暮らしている長女のミミさんたちがきていて、彼の料理を待っていた.
ハン総長が紹介する、今日の料理は牛ひれ肉キムチ炒め.
キムチが入る料理には豚肉が適格であるが,
コシが強くモチのような牛ひれ肉は、豚肉とは異なるもう一つの味を提供する.
彼は準備した物を見せて“私が今日これを料理すると言ったら、以前食べてみたことのある教会の聖歌隊人たちが舌打ちしてましたよ”と自慢した.
ハン総長がこの料理を選択した理由は、何といっても準備が簡単で、短い時間に片づけることができるためだった.
ほんのちょっと酸味が出てきた程度に熟したキムチと牛ひれ肉を食べやすく切って、次に火にかけさえすればよい.
必要とする時間といえば、せいぜい20分程度.
既にキムチに入っている薬味だけでもうまみを出すことができて、別途に塩も必要としない.
肉に火が通りすぎると味が落ちるので、ミディアム程度にしておくのが、ポイントといえばポイントだ.
調理が簡単なために、それほど自信を持っていた実力が発揮される余地がないことが惜しいのだが,
包丁を持って肉を切る彼の手つきを見るに、どこかで覚えた手並みでは明らかにない.
キムチを切る間、キムチを食べてみて、キムチにしみこんだ塩分を推し量る姿や,
どの程度熟成したのかを知ろうとする姿もずいぶんと自然だ.
“誰でもできる料理なのに、この人が作ると妙においしいんですよ.
アメリカに住む子供たちに会いに行けば、私よりパパに‘あれ、作ってね’だって.”
“本当に理解できないことなんです.
パパが作る料理には特別なことが何も無いのに、とても独特で味がよいのです.”
妻のキム・ヒョンYWCA理事の話に、娘
ミミさんが相槌を打つと、ハン総長は“これやあれやとみんな入れれば、誰でも味を出せるさ”と自慢気な表情だ.
ハン総長が誇る料理の手並みは、まず、長い間の外国生活の産物だ.
ハン総長は、留学時期‘ワンサン湯’という料理を開発した人気ある料理士だったという.
当時、アメリカ人は牛の尻尾や骨などを食べなかったのだが,
これを無料でもらってコムタンスープを煮出して、自分のような境遇の貧しい留学生に食べさせたとのこと.
しかし、今日の料理の実力を作りだした、より重要な要因は、彼と妻が30年を越えて演出している、通常ではない結婚生活にある.
大学を卒業してYWCAに帰って社会生活を始めたキム・ヒョンさんは、ある日、自身を某だと紹介した知らない男から国際郵便を受け取った.
ハン総長が友人に紹介を受けた後、無計画に手紙を送ったのだった.
あわただしいことに、結婚を前提にお互いを知り合って、良ければ結婚しようという内容の初めて手紙の65年夏から、翌年春まで200余通も続いた末に、いよいよ66年初めに結実を見た.
結婚後、米国で新婚生活を整えた二人は、徹底して相手方を認める‘平等夫婦’の典型を作って生活した.
違う点は違うように,
同じ点は同じに、お互いを待遇するということが彼らの変わらない夫婦哲学.
‘家のなかの掃除がなぜされていないんだ’などというような、相手方に責任を問うののしりは、お互いに一回もしたことがない.
こういうふたりの生活方式をおいて、娘・ミミさんは、“若い
私たちもまねをすることができないほど先進的”と話す.
牛ひれ肉キムチ炒めとワンサン湯の他に、彼が自信があるという、料理人‘ハン・ウァンサン式
鶏の煮込み’は、まさに、この夫婦の人生が
溶けている‘理由のある料理’だ. 1970年、ソウル大教授として故国に帰ってきたハン総長は、維新反対活動で76年、学校から解職された.
続いて80年には、金大中内乱陰謀事件にかかわり、5ケ月18日間の獄苦を味わった.
81年、出獄後、博士学位を受けた、母校のエモリ大の理事である米議会上院議員のサム・ノン氏の助けで米国亡命の道についた彼は、この学校で招へい教授として活動したのだが,
この時からハン総長がソウル大に復職になって帰国した84年まで、キム理事はブルックリンで布教活動をしていて、二人は週始めにだけ一日か二日程度を共に過ごすことができた.
当時、三人の子供の養育は父である彼の役割だった.
学校から帰ってきた子供たちに早くおいしいご飯を作る姑息な手段として牛ひれ肉キムチ炒めを開発したのもこの頃だ.
彼は高等学校に通っていた長女と末娘,
そして小学校に通っていた末の息子に食べさせるために料理番組を熱心に観たという.
“その頃、鼻ひげを長く伸ばした西洋料理士が出てくる番組が人気ありましたよ.
ある日、中国皇帝が食べたという鶏の煮込みを紹介したんです.
大きな釜に鶏を入れて、気が抜けないようにして、次に4時間程たっぷりと煮る料理で、簡単そうに見えました.
これをすこし変形し、ニンニクも入れて、塩も足してぼくの好みにこっそり変形をしたところ,
年下ながらも子供達がとても好みました.”
料理の他に彼が持った、もう一つの趣味は、合唱団の指揮.
教会聖歌隊の指揮を通じて、鍛えられてきた彼の指揮の実力は、総長就任祝賀の席で、学校の合唱団を即席指揮する程の水準だ.
そのためか,‘料理観’を聞く質問に、ハン総長は‘オーケストラ合唱’だと答える.
“団員皆は各自、自分の声を出して,
それが全体的にアンサンブルを作り、ひとつになるのがオーケストラですよ.
料理も同じです。
料理の材料は、個性を持ったオーケストラ団員です.
これらは適切な加熱を通じて、お互いに影響をおよぼして、結局、全体に溶け合わさっていくんですよ.
白菜が葱と同じで、葱が白菜と同じでは、立派な料理が出ない理由がまさにここにあります.”
各自の仕事に充実しながらも、お互いの人生に溶けた、ふたりの生は、それ自体が最高の味を大事に保管した、一品料理一皿であった.
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