98年7月31日 NEWS PEOPLE NEWSPEOPLE.gif (941 バイト)

[ルポ] IMF ヨンジュゴル
 
京畿道 パジュ郡 ヨンプン里には有名な淪落街(註:売春街)がある.いわゆる‘ヨンジュゴル’だ.newspeople98_8_4.jpg (9892 バイト)
かつて米軍相手の基地村として出発したヨンジュゴルは、その歴史で全国的に知られている. しかし、最近は開店休業の店舗が増えている程、景気が急激に悪化している. 特に隣接村のパジュ郡 ポムウォン里に新興倫落街が生まれ、伝統の‘ヨンジュゴル’を威嚇(?)している.ポムウォン里に新しく生まれた淪落街は、別名‘20抱’だ.

京畿道 パジュ郡 ポムウォン邑 ネヌン里.ヨンジュゴルからタクシーで5分程のこの村は、表から見ると典型的な田舎の農村だが、郊外周辺地域の、ある路地に入るとそこは淪落街である.建物は築後いくらもたたない多世帯連立住宅式だった.道の両側に整然と建ち並んだ娼家に立っているアガシたちはヨンジュゴルとは違い、路上での客引き行為はしなかった.後ほど知ったところでは、派出所からの厳命のためだった.

この淪落街の名称は‘20抱’.元来 20名の抱主(註:妓楼の経営者)が同業形式で出発したので、そのように呼ぶ.これは 20年前の79年に生まれ、10余年間商店方式で運営されてきた.しかし、90年に入っていったんは自然に消滅したが、昨年春、新しく改装して出直したということだ.

ここのある事業主は“ヨンジュゴルとは雰囲気が違う.わたしたちは客引き行為をせず、また、お客さんを清潔に応対するために最善をつくしている”としながら、それと無くヨンジュゴルを競争相手と決めている表情であった.20抱の事業主は全部で60余名で、200余名のアガシたちが仕事をしていた.

いわゆる新興淪落街を形成したポムウォン里‘20抱’にはソウル地域のミアリやチョンホ洞一帯の淪落街で仕事をしたアガシたちが大部分.

さる7月23日 夕方 8時.京畿道 パジュのヨンジュゴル淪落街.入口には‘未成年者は、この地域には絶対出入出来ません’という警告板が掲示してあった.その内側は淪落家密集地域.たいていの淪落街がそうであるように、ヨンジュゴルもやはり幅 3〜5mの道をはさんでマッチ箱のような娼家が両側にずらりと並んでいる.その娼家にはアガシたちが座っていて、通りかかる男を見ると、子供のように飛び出してきて客引きをする.

陽が山の向こうに沈み始めたためか、アガシたちは仕事の支度をしようと、熱心に化粧をしていた.時折、早くから娼家の前の道を行き過ぎる人を誘惑した.

ヨンジュゴル淪落街の特徴は 1〜2階建ての一般旅館式建物で、1戸当たり 3〜5名の淪落女(註:娼婦)がいる.彼女たちは、家主を‘ママ’‘おばさん’などと呼び、食事をし、昼にはほとんどが各自自身の部屋で眠る.このような淪落家屋は全部で90余世帯.

ここで4年間営業してきたという呉某氏(40)とひそかに会った.彼は最近になってからのヨンジュゴルの変化を簡単に話した.△アガシたちが200名から300名に増えた △外部の事業主たちが集まってきた △しかし、売上げは大きく減って 将来が不透明だ、などという点だ.

これは、ソウルの清涼里や千戸洞 新吉洞 などの淪落街が閉鎖して行き場のない淪落女がここに集まったと呉氏は話した.事業主も同じ.その上、客足は過去に比べて格段に減って‘価格破壊’までする等、背水の陣で営業をしているということだ.

昨年のこの時期には、一日100余万ウォンずつの売上を上げていたが、最近では、一日50万ウォンも儲けられないというのが呉氏の愚痴だ.

特に、ソウル等で淪落業をしていた事業主たちがヨンジュゴルに進出後は、家賃だけが非常に上がってしまったという.

これと関連して, 呉氏は“以前はヨンジュゴルの商売がよく、ソウル等の淪落女たちに選好された”としながら、“しかし、IMF以後は客足が激減して、開店休業の店がますます増えている”と話した.

彼はまた、週末や休日には客がある程度はあって、それによって命脈が維持しているのだとも話した.こちらを訪れる客は、金村 ムンサン イルサン 議政府 等、主に京畿北部地域とソウルに住む人々だ.特に週末の夕方には、ソウルから弾丸タクシーに乗って来る場合が 多く、淪落街入口にソウルタクシーがずらりと並んでいる光景が目撃されたりするということだ.

この日の夜9時.紅燈街のあかりが本格的に道を照らして、ショートパンツ姿のアガシたちも蠱惑的な姿態で道行く人を掴んだ.誘惑する方法も様々だ.切実に哀願する泣訴型があるかと思えば、大胆に男の隠密な所を触って露骨に誘惑する猛烈派アガシたちも少なくなかった.

ソウルから2ケ月前に来たという K嬢(22)は、“お客が多い方ではないが、事業主と契約関係が明瞭で、客たちのマナーがソウルにいた時よりは良いようね”としながら、“きっちり1年間だけ一生懸命にお金を儲けて、ソウルに行くつもり”と話した.

K嬢によれば、ここに従事する300名のアガシたちの年齢は大部分が20付代であり、20代序盤の年齢が70%以上であるという.30代のアガシも時々いるが、年齢に邪魔されて‘フィールドゲーム’に持ち込まれることが少ないという.彼女たちの一日の収入は状況によって異なるが、平均10万ウォン程度.事業主と50対50で配分するという点を勘案すれば、一晩で20万ウォン程度稼ぐわけだ.

ここで3年目の仕事をしていると、O嬢(24)は、“夜12時から明け方2時がピークタイム”としながらも、“過去には20代から 5−60D代のお客さんまでがあったけど、最近は壮年層のお客さんがかなり減りましたね”と話した.

ヨンジュゴル淪落街は、元来、朝鮮戦争後ヨンプン里一帯に米軍基地ができて、自然に生まれたのだ.小さな川辺に、一つ二つと、もう一ケ所(ヨンジュゴル)は米軍専用の淪落街, 他の一ケ所(デチュボル)には、内国人だけが利用する淪落街が形成になった.この一帯をまとめて‘ヨンジュゴル淪落街’と呼んだことが今の‘ヨンジュゴル’の通称になっている.

そして、70年代末、ここに駐屯していた駐韓米軍が撤収することによって、米軍を相手にしていたヨンジュゴルは事実上閉鎖して、代わりに内国人を相手にしていたデチュボルが
繁盛, 今日至っているという.厳格に言えば、今のヨンジュゴルは‘デチュボル’と呼ぶべきなのだというのが、ここの住民たちの話だ.

ヨンジュゴルは、時々未成年者の雇用などでメディアに報道される度に存廃の論争が行われるが、この地域の住民の大多数がなくなるのを願わないという.地域経済の70〜80%も占めているというのが最も大きな理由だ.仮にヨンジュゴルが無くなったら、ヨンプン里(1里〜4里,住民8千余)一帯は一朝一夕で取るに足らない農村に変わってしまうという.特に淪落女たちは、消費性向が強く、美粧院 クリーニング屋 ギフトショップ 等の商店は、彼女たちがいなくなれば、すぐに店を閉める程に依存度が非常に高い.

このように、ヨンジュゴル淪落街は地域住民には、陰と陽の2面の存在だ.
ここの一関係者は、最近になって伝統のヨンジュゴルが、新しい勢力に浮上した‘20抱’と微妙な対決様相を帯びているとし、今後の推移が非常に気になると話した.



<キム・ムンギ記者 km@seoul.co.kr>