“からだはたとえ日本へ帰っても、心はこの悲しいポプラの樹に残していくつもりです.”
小柄な体に黒い髪, 一目見ても典型的な日本人の山田育代(37)さんは、西大門刑務所 歴史館の死刑場にそびえ立っている‘号泣のポプラ’にやさしく触れた.
昨年の12月から、毎週金曜日ごとに西大門刑務所を訪問する日本観覧客たちを案内してきた山田さんは、3月23日にボランティア活動を終わらせなければならなかった.
2年間の夫の韓国勤務が終わることで、3月28日に日本へ帰らなければならないからだ.
“歴史館で送った時間が、最も大切な記憶になるようです.今日はなぜ時間が速く過ぎ行くのかわかりません.
高い刑務所の塀, 処刑場, 薄暗い獄舎, そして、悲鳴の声が聞こえる拷問現場….日本に戻って、日常に埋もれて暮らしたら、この生き生きとした現場を忘れてしまうようで心配になります.
”山田さんは歴史館の全てのものを漏らすことなく記憶中に収めようとするかのように、あちらこちらを何度も見て廻った.
日帝時代、数多くの愛国志士たちが閉じ込められて、つゆのように消えた西大門刑務所.
その空間で、日本観光客たちに歪曲されていた歴史の真実を紹介した日本人.このふたつの異なる存在がどうしてあるのかという歴史的アイロニーのために、山田さんはこれまで世間の話題にされてきた.
国内言論はもちろん、米国のワシントンポスト, 英国のBBC放送などでも、彼女の活躍姿が紹介された.
しかし、まさしく関心を持つはずの日本言論は、努めて彼女から顔を背けた.
ある日本新聞社のソウル特派員から、‘貴方は取材するには難しい存在’という言葉を聞いたという山田さんは、“過去に対して過度に消極的な日本言論に失望もしましたが、関心を持たれなくてむしろ気楽に仕事ができました”と話した.
日本の主婦が日帝の蛮行を最も赤裸々に見せる現場を守るという、このこと一つだけでも十分に感動的でありえるだろうが、彼女の韓国に対する関心と愛の前では、頭が自ずから下がる.
山田さんは、88年に初めて韓国を訪問し、朝鮮総督府の建物を見ていたが、当時はまだ韓国・日本問題に関しては大きな関心がなかった.
本格的に韓国に愛着を持つようになったのは、大学卒業後、静岡大学で教職員として勤めてからのことだ.
韓国の留学生たちとの交流の中で、教科書で習ったこととはあまりにも異なる韓国・日本関係史を知ることになって、韓国との弛みない縁も開始した.
決定的な契機は、夫 サワイ・トオル(36)さんとの結婚だった.自身に劣らず、韓国に大いなる関心を持っていた夫に会った彼女は新婚旅行地として、自然に韓国を決定した.
“韓国に関して勉強することができる所へ行ってみたかったのです.それで、新婚旅行地として、忠南 天安の独立記念館と光州を選択しましたよ.
たまたま、夫の韓国の友人が光州人であったので、その友人の故郷の友人が私たちを案内してくれることになりました. 1週間の短い期間でしたが、韓国近現代史の痛みを、すこしではありますが理解するようになったと思います.”
山田さんは、特に、独立記念館で相対した韓国の人々の眼を、いまだに忘れることができないという.
“日帝侵略館に行って観覧をしているのに、私達が日本語を話しているので、周囲の観覧客たちが皆私たちをみつめましたよ.
その眼を見た瞬間, 韓国と日本の間にある壁がどれくらい高いかを実感することになりました.
どうにかして、その眼の中に入っている壁を崩してみたかったのです.”
日本で韓・日問題に関して勉強をしてみようと努めたが、資料が充分ではなかった.それで、市民団体が行う公演やセミナーを熱心に訪ね歩いて勉強をしてきたという.そのようにひとりで東奔西走して、他の日本人たちは関心さえ示さない韓・日間の歴史を勉強してきた彼女に、いよいよ夫の韓国勤務という2年間の機会が与えられたのである.
99年、夫と共に韓国にきた山田さんは、光州望月洞墓地(註:ここには光州事件犠牲者の記念墓地がある)参拝はもちろん, ときどき挺身隊のおばあさんたちがいる‘分けあう家’を訪問したし、挺身隊のおばあさんたちが日本大使館前で繰り広げる‘水曜集会’にきちんと参加してきた.
山田さんと西大門刑務所の出逢いは、昨年光復節になされた.
西大門刑務所 歴史館 学芸研究員 ヤン・ソンスクさんが聞かせてくれた、その日の山田さんの姿は、あまりに因縁を感じさせる.
“西大門刑務所で殉国先烈追悼式行事がありました. その時、夫と共に参加した山田さんが、行事の間中、焼け付くような陽射しの下に佇んでいました.
それで、私が陽射しがあまりに強いからテントの中へ入れと話しかけたところ、山田さんが‘このようにして、日本が韓国人に行った誤ちを謝罪したい’と答えたのですよ. ”
この事を契機に、歴史館職員たちと自然に親しくなって、ボランティア活動までするようになった.
山田さんの日本批判は、日帝残滓清算を研究する韓国の学者にまけないくらい冷酷だ.歴史館研究員たちは、山田さんが日本に戻って極右団体の威嚇を受けたり‘いじめ’にあうのではないかと心配もする.
山田さんは、“侵略戦争に関して、今まで日本政府がした遺憾表明は、本当の謝罪ではない”と断言した.“外国から謝罪しろと強要されて、あいかたなくしたことでした.誤った教科書のせいで、多くの日本の学生達が歴史の真実を正しく知らないのに、さらに歴史教科書を歪曲しようとしています.
隣国から認められることができない国の未来が果して明るいといえるでしょうか?”日本政府に仮借ない批判を浴びせる理由に関して山田さんは、“日本が嫌いだというのではなく、本当に愛しているから”と強調した.
山田さんは、日本の観覧客たちから“なぜ貴方が率先してこういう仕事をするのか ”という抗議もたくさん受けた.
その度に、より詳細に刑務所のあちらこちらを見せて、歴史を正しく知ることが日本の未来にとって助けになると説得した.山田さんが最もやりがいを感じる時は、日本の大学生たちが自発的に訪ねてきて、歴史の真実を学ぶ姿を見る時であった.
“歴史館を訪ねる日本人は、大部分意識がある人たちですよ.昨年、9千余名の日本人が訪問したということですが、韓国を訪れた日本人が皆ここにきて、心の荷物を担って戻ることを願います.”
展示館中で、山田さんが最も格別だと考える場所は拷問室だ.
観覧客に拷問室を説明する時は、抑制できない感情がこみあげた.“ひどい拷問の中でも、どうしても自身の意志を曲げなかった人々を思えば、人間の志に対する尊敬心が生じます.私の生を収拾する契機にもなりました.”
2年間、西大門区民として暮らしてきたことが誇りだという山田さんは、仁寺洞書芸学院でハングル書芸を学んで、水準級に上がった.卓球同好会員として活動し、出会った韓国のおばさんたちと交わることもした.
どれくらい廻っただろうか、韓国の大抵の中小都市と山をほとんどカバーした.最近になってからは、大型書店をまわって韓国の歴史教科書を買い入れた.
“日本へ帰って、多くの人々に韓国の歴史本を見せてあげます.
また、ハングル書芸展示会を開いてみたいですね.”
最後のボランティアを終える午後4時が迫ると、山田さんの顔が上気した.
“韓国に来た時は、韓国人が私を嫌うものと思っていました.
ところが、あまりにも親切にしてくださいました. 形式的な親切ではなく、胸中から沸き出た韓国人の情を抱えて行きます.
誤った歴史に関して、韓国人よりも日本人がもっとたくさん学ばなければなりませんが、韓国人も歴史の学習を怠らないことをお願いします.”
平凡な主婦であり、また、勇敢に歴史の真実と良心に充実しようとした山田さんの最後の言葉が頭の中から離れなかった.
イ・チャング記者[window2@kdaily.com]
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