‘シーバスリーガル’は、韓国現代史と直・間接的に多くの‘悪縁’がある.特に、79年に起きた、10・26(註:朴正煕大統領を金載圭中央情報部長が宴席で殺害した)と12・12(註:朴大統領死亡後、大統領代行として執務していた鄭昇和
陸軍参謀総長を排除して実権を握ろうとした全斗煥
本部長とその部下のノ・テウが実行した軍事クーデター)について、一部では“仮に、その時、シーバスリーガルがなかったとすれば、どのようになっていただろうか”と話す程にその‘役割’は強大(?)だった.
さる79年、10・26事件がおきた日.宮井洞 安家(註:旧大統領官邸所属の家)小宴会席上に登場したのは、その有名な‘シーバスリーガル’
12年だ.朴正煕大統領は、普段シーバスリーガルを好んだために、金載圭中央情報部長が自ら用意した.
韓国の現代史を変えた、運命の小宴会行事が開始した.車智K警護室長は、シーバスリーガルの瓶をつかんで、急須に注いだ.キム中情部長は、急須の取っ手をつかんで、朴大統領の酒杯にまず酒を注いで、“閣下,わたしもカクテルを作ることができます”と話した.
いつのまにか雰囲気は盛り上がっていた.朴大統領は、あたかも自身の運命を予感でもしていたように、この日にはシーバスリーガルが非常においしく感じられた.1時間も経たないうちに、金桂元
秘書室長と、いつのまにかシーバスリーガル一瓶半を空けた状態なので、ほろ酔い機嫌に酔っていた.この時、キム中情部長は、シーバスリーガル一杯をぐっと空けた.二杯目だった.そして、パン
パン パン! 残った酒も床に倒れた.
シーバスシガールは 79年 12・12時にも‘威力’を発揮する.巨事
直前の12月12日 夕方 6時半 延喜洞 閔マダム宅.酒案床(註:酒と肴を盛った膳)が出された.酒は、やはりシーバスリーガル12年だった.張泰玩
首都警備指令官 鄭炳宙 特典司令官 金晋基 陸本憲兵監
等は、全斗換氏を待って、シーバスリーガルを交わし始めた.
張泰玩氏は、後日、検察調査で“延喜洞の料亭に6時半頃到着,
全氏を待って7時頃から食事を始めたし
鄭炳宙将軍の乾杯音頭によって、シーバスリーガルを1杯飲んだ後、しばらくして陸軍参謀総長公館で銃撃戦が行われたという知らせを聞いた”と陳述したことがある.
この席にいた人々の証言によれば、この日、張泰玩氏は酒にほとんど酔うこともなかったように見える.しかし、一部では、この日は酒に泥酔した状態で首都警備舎に戻って、新軍部側に対する攻撃命令を下す等、‘理性を失った命令’を下したと主張する.
翌日の12月13日、兪学聖 軍需次官補は、禹国一
保安司参謀長に“禹将軍, 昨夜は、その人たち(張泰玩氏等)に酒をたくさん飲ませて、精神を乱すほどにしたのだ”と叱責したという.
この日の夕方7時頃、景福宮第30警備団に集まった、12・12主導将星等もそうである.彼らは、鄭昇和
陸軍参謀総長の連行に関する裁可を受けようと、総理公館に行った全斗換(当時
保安司令官)を待って、焦燥した気持ちを強い洋酒(シーバスリーガル等)でなだめていた.
これと関連, 朴俊炳(当時第20師団長)は、後ほど検察調査で“その日の午後6時30分頃、第30警備団に到着して、兪学聖軍需次官補
ファン・ヨンシ第I1軍司令官 ノ・テウ第9師団長などとチャン・セドン第30警備団長の接待を受けて、洋酒を飲んだ”と陳述した.
遡れば、61年5月15日午後 5・16巨事準備を全て終えた状態で朴正煕(当時
所長)は、どぶろくを飲んで緊張をなだめたという.結局、どぶろくで始まった朴正煕
時代は、外国産のシーバスリーガルという洋酒によって運命を閉じてしまった.
誰が言ったか.男は酒によって運命が変わると.
[キム・ムンギ記者]
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