97年10月 Lady 京郷

亡命者で事業家として成功した北朝鮮料理専門飲食店 代表 金・ヨン


京畿道イルサン新都市郊外周辺に位置した‘牡丹閣’は交通も不便で、わかりにくいのに、昼食,夕食時には、客であふれている. 一日6百名余りが牡丹閣の平壌冷麺とギョウザ等の北朝鮮料理を食べるために駆せ参じるらしい.

TVでなじんだ 金・ヨン氏(37)がひとなつこい挨拶をして客を迎える. 平壌からソウルにきて6年、資本主義体制に立派に適応している彼は、“これから結婚もしたい…”と余裕ある表情をする.

ランチタイム前に金・ヨン氏に会い、インタビューをするつもりで午前11時に約束をした. 約束時間に合うように、イルサン新都市郊外周辺に位置を占める北朝鮮料理専門店‘牡丹閣’を訪ねたがドアが閉められていた. 12時から3時まで,6時から9時まで店を開けるという案内板がドアの前に立てられている.

サングラスをかけた小柄なおじさんが食堂の前で水を撒いていた. そこへ、主婦たち六.七人が自動車二台で乗り付けて来て、水を撒いていたおじさんに食堂のドアを定時前に開いてくれないのかと尋ねた.

そのおじさんは営業方針によって、定時にドアをあけるので、待つ間に湖見物でもしろとコーチをした. ややあって、ネクタイをしめた男性4人がクルマでやってきて、牡丹閣の前で全く同じ場面を再現した.

12時にまだならないうちに、少なくない人々が牡丹閣を訪ねた. 客たちの要求で11時40分頃にドアをあけた. 20余名の客たちがどっと入っていった. どこで聞いてこのように訪ねてくるのだろうかと思った.

金・ヨンさんは11時30分頃に現れた. 細い眼鏡がよく似合う彼は、スニーカーをはいたカジュアルな姿だった. 遅くなって申し訳ない、すぐに近くの建物の地下にある喫茶店に行ってちょっと待ってくれと言って、牡丹閣の裏手につかつかと歩いていった.

喫茶店でコーヒーを一杯飲むほどの時間を待っても現れなかった. 12時を過ぎた頃、あやまりながら入ってきた. 白いズボンに付いた汚れを手でこすりながら座った. “厨房でちょっとありまして”どのようなことが あったのか尋ねる間もなく説明してくれた.

“いつもオープンする前に厨房に行き、あらかじめ料理の味を見ます. しかし、今日ギョウザがよくなかったのです. それでひっくり返しました. 十万ウォン分にはなったのですが,納得できないものはお金にはしないのです. ひっくり返しました. そとで見た金・ヨンと厨房での金・ヨンは別人なんです. 私が厨房に現れると、皆ぶるぶる震えますよ.”

彼は多弁で,明るい気質を持った人のようだった. 料理が自分の口に合わなければ,すなわちお客様を愚弄することだと考えてひっくり返してしまう過激な(?)性分など持っていそうにないように見える. ところが、それが気難しい主人の形で顔を出すのは、彼の行動が善意から出発するためだろう.

彼が北朝鮮料理専門店を始めたのは、昨年の10月だ. 初めは精肉店を知り合いと一緒に始めた. ところが、1ケ月の商売がまったくでたらめだった. 91年亡命して、初めて始めた事業が初めから低迷し、堪え難かった.

その上、協同経営者が、展望がもてないと判断したのか、手を引いて米国へふらりと渡っていってしまった. 精肉店では見込がないように思えた. それで、北朝鮮料理専門店ならどうだろうかと思い、北朝鮮料理を作ってみた.

弟・妹たち(自分より若い者たちをそう呼んだ)4名と共に平壌冷麺,ギョウザ, 肉料理,白キムチを研究して作ってみた. 1ケ月を‘平壌味’を求めて努力し、その味が出てきた.

そして、故郷に帰れない人たち(失郷民)を招いて味見の品評会を行った. 結果は‘良い味だ’. 平壌の香りがするので‘牡丹閣’と商号を変えて、本格的に営業を開始した.

初めは、主に失郷民を相手に宣伝をした. 放送にも出演して、審議に‘警告’を受けない程度に牡丹閣の広報をした. 1週間を過ぎるころから客がぐんぐん増え、1ケ月も経たないうちに大盛況といえるまでになった. 週末には席がないので帰る客も少なくなかった程だ. そういえば、平日にも6百余名の客が来るのだから、週末にはもっとすごいだろう.

1車線の狭い道路が混雑するので交通整理することも別段悩みの種ではないという. “こちらの言葉で‘大爆’ さく烈したようです. 北朝鮮では、かぼちゃは伸びた蔓から落ちると言います. 本当に気が気でないですよ. 今年に入って、ソウルは汝矣島と江南,仁川,浦項,楊平等に6分店を出しました. 今後 全国的なチェーン網をつくるつもりです”

彼が北朝鮮料理専門店を出したのは、自分の料理の腕に自信があったためだ. 韓国に来てからは、仕事がなくて家にいる時、退屈な時には故郷の料理を作った.

母親が作ってくれた料理の味を思いながら作り、一人で食べるのが侘びしくて友人を招待し共に食べた. 特に彼のキムチ作りの腕は飛び抜けていて、周囲から称賛を受けた. 松茸,キュウリ,せり,キャベツ 等、キムチの品目も多様だ.

彼が牡丹閣で自ら厨房長を自任するのも、こういう料理の腕のためだ. だから、厨房職人の味とはなんであるかなどと比べる人がいない.彼が厨房の人々をぶるぶる震わすほどまでにこだわるのは、牡丹閣が生きていくためには味で勝負をかけるしかないという生存戦略のためだ.

“お金がたくさんあれば、内部施設を拡大して,駐車場等のサービスも上手にやるのが普通ですね. わたしたちにはそのようなゆとりがなくて,料理で勝負するほかにないんです. 私が厨房のおばさんたちに対して小言屋になるしかないんですよ.”

資本主義社会で‘大爆’さく烈する程成功した社会主義体制出身が感じる感慨が気になったが、彼は“何が何やらわかりません”と話した.

“競争で負けない覚悟と自信はあります. それしかない方法というのは、一歩も退かないことです. 北朝鮮にまた行くこともできないし. オープンして、一日も休んだことがありません.

それでも、まだ韓国(資本主義社会を指す)で生きていこうとするのは難しいという話を聞きます. 私が一時詐欺にひっかかって1億以上なくしたのも純真だったからでしょう. いまはかなり変わりましたが. つつましく生きて、自らをむち打つのです. ”

北朝鮮の食糧難に対する北朝鮮出身の飲食店主人の気持ちがかなりあるのではと、北朝鮮の同胞を助ける運動について尋ねた. 北朝鮮の同胞を助ける運動に積極的に賛成して関心を持っているだろうと考えたのだが、“まったく関心ないですよ”とのことだった.

少しの間、記者の目と緊張状態のまま虚空でぶつかった. 他の人ならともかく,故郷の人々が飢えて死ぬというのに… 金・ヨン氏の態度は心外だった. 彼は、記者の怪訝心に自身の経験を話して釈明した.

亡命する前に中央党(朝鮮労働党白頭山建築研究員対外室勤務)で仕事をしていた彼は、韓国から送った‘愛の米’を とてもよくもらって食べた. 電子製品と毛布,化粧品もよくもらって使った. 水害で苦労する‘人民’達には届かなかった. いわゆる特権層の人々にだけの良い贈り物になってしまった.

今、繰り広げられている北朝鮮を助ける運動も、ぼろを着て食うに事欠く‘人民’たちはになんの助けにもならずに,上にいる者たちだけが腹がいっぱいになるという論旨であった. 国際人権団体から要員を派遣して、直接人民に配分されるようにすればいいことではないかと反問すると、彼は“それは北朝鮮を駆り立てる声’だと一蹴した.

一旦、要員が見ている前では人民たちが受け取るだろうが、まもなく党幹部が電話で取り返す指示を出せば、そこまでだと話した. 金・ヨン氏は北朝鮮の体制をまったく信じない人だった.

北朝鮮体制に関する限り、人道主義的な観点は徹底的に排除している. 彼の立場があまりにも明確で、これ以上話を引き出す術がなかった. 家庭を持っていないのだが、韓国で体験した女性恐怖症の話をした.

雰囲気がちょっとなごんだ. 彼は韓国にきて、女性に会うたび怖かったという. いったい何を考えているのかわかりませんよ. 最近、お金に余裕も生まれて、妻をめとるべきだと考えているのに、どんな女性が良いのか、よくわからないのですと首をかしげた. 来年の春くらいには結婚するかも、という予感をさらけ出した.

飲食店を訪れる人々の中には、彼に女性を紹介してあげるという人が多かった. その度に彼は、“ああ, 一度 会いましょう. 気立てだけ良ければいいのです. 外貌は放送局に一緒に行く時見劣りしなければいいのです”などと, 老チョンガー特有の冗談をとばした.

しばらくの間、相当なTV番組には出演し、才覚ある語り口で視聴者の目を引いた亡命スターであった. いまはKBSとMBCラジオ放送に出演しているほかは飲食店に集中している. 彼は成功した亡命者の標本であった.

写真 /ミン・ヨンジュ記者 文 /シン・グァンシク記者