99年1月
Lady 京郷
挺身隊ハルモニ(註:元従軍慰安婦のおばあさん)救済に続いて欠食児童救済に乗り出したアンダー歌手 ホン・スングァン |
2年余の間に100回の巡回コンサートで10億ウォンの基金を集めて挺身隊のおばあさんを助けた. そして、彼はまた100回を目標にして欠食児童救済をしようと、今日も歌を歌う. ホン・スングァン(36)は、歌で歴史観を正しく立て直したくて、歌で食膳を整えて、飢える子供達の腹を満たすのが唯一の楽しみだ. IMF体制になってからすでに1年が過ぎた. IMF以後、全てのものが縮こまっていった. 輸入も減少し, 支出も減少し, 人々の希望も擦り減り、そして、人を思いやる心もあまりにも縮んだ. だが、ホン・スングァンの、人を思いやる心は、より一層大きくなった. おとなりがぼろを着て食うに事欠けば、彼は落着かなくなるという人だ. ホン・スングァンは歌手だ. アンダー歌手とも彼を呼び, 福音聖歌歌手とも. しかし、彼は、 ![]() ホン・スングァンは、96年以来、挺身隊ハルモニ救済基金準備公演を計100余回を行ってきた. それで彼が集めたお金は約10億ウォン.彼はこのお金を挺身隊のおばあさんたちが日本から変則的に受ける民間次元の報償金代わりに支給した. 神様と歌しか知らなかった彼が挺身隊ハルモニの存在を知って、彼女たちが他人ではないという思いを抱いたのは95年だ. “ 95年3月1日に韓日戦後世代が集まってハンマダンコンサートを持ちました. その時、挺身隊ハルモニたちが招請されたのです. そのうちの金ハクスンおばあさんが、公演が終わると私の手を握ってこのようにおっしゃいました. ‘若者よありがとう. このように私たちのために歌ってくれる人に会ったのは初めてですよ. 私たちがこのように生きてきたのに、若者達が私たちに関心を持たないから、これまでとても悲しかった’ その後、何日もこの問題を抱えて悩みました. 率直に、面目なく恥ずかしいと思いました. 挺身隊問題は、その本質をながめれば、それは歴史を正す作業だと私は言いたいですよ. ” その後、ホン・スングァンは教会, 職場, 道で100回にわたるコンサートを開く. 小さなまごころが集まって、金持ちの1億より、より貴重な、貧しい自分の1000ウォンずつが、挺身隊ハルモニのために送られた. 週 1回ずつ、2年余りを一週も休まずに公演しながらホン・スングァンは多くのことを学んだ. 持てる者の欲には終わりがなくて, 苦痛は苦痛を受ける人だけがわかるということを. “50大企業を選定し、各企業当たり1億ずつだけ出させても、日本が民間機構を前面に押し出した(註:日本政府は国としての賠償はすでに完了したとして、民間機構を通じて元従軍慰安婦への"おみまい金"を出そうとした)報償金にすりかえようという挺身隊問題を解決できると判断したのです. でも、ただの1ケ所の企業からも返答がありません. 教会の中でも外でも大きな力を持っているというのに文句ばかりです. それより、より深刻だと思ったことは、私たち若者の歴史観ですよ. 大学生でさえ、挺身隊がなんの話なのかわからない学生が居たのですよ. 一度、ソウルの某大学で慈善公演をしたところ、約 1千人きました. 後で、公演が終わって募金箱を見ると、9万ウォン入っていました. ひとり当たり100ウォンにもなりません. 事実、衝撃でした.” ホン・スングァンは、むしろ30〜40名の小さな教会で、そして、チェ・イルド牧師の仲間たちが5百ウォン, 1000ウォン,10000ウォンの本当に誠実が含まれた寄付を送ってくる時、大きな悦びを感じた. 幸いにも、放送局で2度にわたり、ARS で寄付を集めて、10億という目標額を満たすことができた. ホン・スングァンは挺身隊ハルモニ基金を準備すると、休む間もなく、欠食児童救済基金準備慈善公演を開始した. この公演も、計百回を計画していて、現在、20余回へと進行した. TVを通じてIMF以後に数多くの子供たちが父母の失職で飢えているという消息を聞いて、顔を背けることもなく、また再び始めたのである. “石ころを噛んでも消化するという年齢の飢えている子供達が、今、約15万人. これは公式集計で、この程度であるが、実際ははるかに多くの数字の子供達が食うに事欠いている状態です. 学校では給食でしのげるが、これから休みになれば、一日一食できるかも心配になる子供達です. 皆、子供たちを私たちの未来だと言うでしょう. その未来が、今ご飯を食べることができなくなっているのです. この土地に暮らす、あらゆる人の責任です. ” 少年の食膳という名前で彼のコンサートは進行している. しかし、IMF以後の‘自分も飢えているのに、他人を助けられるか’という冷たい反応に、ホン・スングァンは切なくなる. そのような時に、ホン・スングァンは、“今、私たちの前には人を生かす少年の食膳と、死を意味するヘロデの食膳が置かれています. 二つの内からどれを選択するかは、全て私たちにかかっているのです. いま、私たちは、餅を五つ、 魚を二切れで多くの人を生かしたオビョンイオの奇跡(註:故事か?)を作りだす時だ”と話す. ホン・スングァンは、82年、釜山大美大彫塑科に入った. 高校時期には応援団長をする等、活動的だった彼は、大学生活では学習よりは歌と信仰生活により一層没頭した. 無名歌手の時期、 ハ・ドッキュ, ジョン・テチュン, アン・チファン, 国楽家 金ソンニョなどと共に国楽歌謡を大衆化するのに苦労し、‘シンウィジョンウォン’や‘ニンダルレナルゴ’のような国楽レコードを作りだした経歴の所有者だ. 正式な大衆歌謡界のデビュー要請にも、彼は自分がしなければならない仕事がなにかを知っているので、当分人を助ける仕事を優先している. ホン・スングァンは29才で結婚し、今は8才, 6才の二人娘がいる. 夫人の朴ヘジョンさんとは、ミュージカル (註:ジーザスクライスト)スーパースターの公演で出会ったのだが、夫人は当時、声楽家として大学で教鞭を執っていた. “ピラド役で出演していました. はじめは、舞台美術を担当していたというのに、歌って、踊りまで踊ったんですよ. その時、妻に会いました. 結婚しようと、とても強く迫りました. ほんとうに. 妻は職場も華やかだけれど、私はほとんど失業していた水準で、妻の実家では当然反対しましたよ. 妻の家に初めて挨拶に行った時に、部屋で3時間もの間、一人でおかれたのですが、その間、妻の実家の方たちが皆で話合いをしていたのだそうです. ‘挨拶を受けよう ’‘受けられない’ どんなに長かったことか. そのようにして結婚しました. 妻には、今でも申し訳ないですね. 私より音楽の才能もあって、より勉強したかったでしょうに… . いまはだいじょうぶ. 妻の実家に行けば、まさに鶏をしめてごちそうしてくれます.” ホン・スングァンは欠食児童救済と共に、来る1月、北朝鮮同胞助け合い韓国日本合同コンサートを企画中だ. 日本内の在日同胞歌手たちと主に連係し、北朝鮮の飢餓児童を助ける趣旨で、このコンサートも準備の真最中だ. このように、人を助ける仕事になれたホン・スングァンだが、まさに家に入れる生活費もまともに持っていくことができずに、常に妻の理解を求めている状態だ. 人を助けるという心を持って仕事をするより、生活の一部のように人を助ける人になりたいというホン・スングァン. インタビューでは終始、自分よりもっと熱心に他人を助ける人が多いので、このように何度も顔を出すなんて顔から火が出ると、頭を掻いていた. 文 / 宋ヨンドク 記者 写真 / イ・ソンドク 記者 |