公金流用嫌疑を免れたが、左目を完全に失明した名司会者
李サンリョン
‘友情の舞台’の名司会,
心臓病の子供たちへの後援者‘ポパイ’李サンリョンが公金流用嫌疑を免れたが、その衝撃で左目を完全失明した事実が本紙によッて、初めて公になった.
外からは正常に見えるが、左目は白内障が発病して完全失明した. 
‘そのこと’を、まず説明しなくては現在
李サンリョン(54)が至った状況を説明できない.
李サンリョンは、どんな意図でもその事がまた議論になることを嫌わざるをえないが….
96年11月3日、KBS 2TV‘追跡60分’は李サンリョンが心臓病の子供の後援金を流用した嫌疑があるという内容の報道をした.
後援金を持ち出し、出版社と結ばれた著作権使用収入金を手術費用ではない用途に流用したという内容だった.
放送が流されると、メディアの報道が立て続けに行われ、続いて警察も捜査に着手した.
6日には李サンリョンの自宅と‘ポパイファミリー
’及び子供保護会などに対する押収捜索が実施されて、9日には彼が直接江南警察署に出頭し、調査を受けた.
その後の長い月々の間,
彼は言論の疑惑報道と、それにしたがう世間のきれいではない視線を、ただじっと耐えなければならなかった.
しかし、97年2月28日無嫌疑不起訴処分を受けた.
後援金流用可否について調べたが、明確な嫌疑点が表れなかったとソウル地検刑事
3部(安ジェヨン部長検事)は 明らかにした.
“みな終わったことだとは言えません.
いまはなんとか気持ちを抑えたが、一時的にせよ、世の中の人々に対する憎しみで殺意をいだいたことも多かったのです.
皆殺してしまいたいという、世の中に対する敵愾心と羞恥心,苦しさで、夜も何度も目が覚めてむっくり起き上がったりしました.”
李サンリョンは相変らず短いスポーツ刈りの頭をしていて、青年のように多くて黒い髪の毛は50台という年齢を疑わせる.
しかし、暫くして彼は昨年から毛染を始めたと告白した.
“そのことのためでした.
若白髪もそれほどなかった頭が、突然真白に変わったのです.
それだけではないです.
その頃に目がぼんやりする等の異常が生じたが、非常に心の余裕がないので病院に行くのが遅れて、白内障だと言われました.
部位がまん中なので、手術もできないというのです.
結局、左目は完全失明しました.”
実直なカトリック信者の李サンリョン,
敵も愛せと習った彼だが、いまだに胸の深くには憎しみが沈んでいるようだ.
インタビューの途中、その時が思い出されるような時々に、声が震えて激昂した.
しかし、それは人間としてあまりにも当然の姿なのかもしれない.
彼にとって、その事件は生命を失う程に致命的な衝撃だったのだ.
彼は自身を‘子供の友人’だと信じている.
とても長い間の信念だ.
子供たちへの愛は、彼の名声を積み上げたレンガと言えるかもしれない.
いや、それよりは彼の人生の意味だと言うべきだろう.
彼は、さる76年から20余年間、5百54名の先天性心臓病児童の手術費を用意し、幼い生命を救った.
79年、ソウル龍山に子供保護会を開いて、心臓病児童に対する社会的関心を引出した.
17年間で4百63名の少年少女家長たちに毎月8万〜10万ウォンずつの生活費を与えた.
いままで1千20余名の大学生に奨学金を支給してきた. 88年から90年までは、ソウル市内65小学校の欠食児童らに弁当を支給した.
91年からはソウル・モクトンに共稼ぎ夫婦の子女のための‘子供の家’を運営してきた.
それだけではない. 86年、子供大公園に子供たちが無料入場できるようにした.
87年、バン・ジョンファン先生の銅像を子供大公園に移した.
そのような彼が、たとえ無嫌疑・不起訴処分を受けたが、個人的な蓄財のために心臓病の子供たちを売ったという嫌疑を受けたことは、エイズ感染より致命的なことだといえなくもない.
“罪がないという裁定を受けたが、いまだに多くの人々が知らないのです.
罪があるようだと報道する時は記事の量も多いのに、不起訴処分を受けた事実の報道はほんのわずかで、扱わないものも….”
言論媒体の扇情的な報道態度に対して、彼は激しく不満をぶちまけた.
どうして、そこまで激することになったのか.
しかし、彼は用心深く、ぎりぎりのところで抑えながら言った.
結局、やむを得ないことだが、彼は扇情的な言論媒体が育てた、この時代の芸能人でしかないということだ.
“意欲を失いました.
これから他の人々ではなく、私と私の家族のために生きるべきだという思いに度々とらわれます.
20余年を人のために生きたが、引き延ばしていた娘の結婚式を来る4月に挙げる準備をしながら、自分自身が悲惨な気分であり,家族にすまないという気持ちで鬱積している.”
李サンリョンは、来る4月16日に結婚する長女のミンジョンさん(28)の結婚式の費用を用意できないほど難しい境遇に置かれている.
破産状態と言うべき境遇だ.
銀行では利子が滞ると、最後の残った不動産の清潭洞にある5階建て‘ポパイ
ファミリー’本社ビルを競買すると脅しをかけている.
なんとか時間を稼ぐ方法もない.
かと言って、娘の結婚を無計画に延期することもできないという、父の心情だった.
結局、彼は恥をかえりみずに友人たちに事情を打ち明けた.
友人たちはできるだけ式場費その他の必要な費用を分担することになった.
“金壽換 枢機卿が取りまとめてくれました.
神様がより大きく使おうと、試練を与えるのであるから、勝ち抜くべきであり,世の中がすっかり雪で覆われても、雪が溶ければ本物の自分が現れるようになる.”
しかし、既に96年11月以前の李サンリョンは死んだのだ.
満身瘡痍になった李サンリョンは、それまでの歳月を生きてきた自身を否定する.
完全に名誉が回復されれば、また心臓病の子供を助けるつもりだと話すが、それは以前のこととは明確に別の善行になるようだ.
1千名の心臓病児童に新しい生命を与えた後に引退するという彼の話通り、彼は名誉を回復すれば、また心臓病児童の手術費調達に全力を尽くすはずだ.
しかし、彼の‘純粋の時代’は既に過ぎた.
周辺の人々は、73年 MBC-TV 子供番組‘集まろう
歌おう’の司会者で放送活動を始めた彼が子供たちへの愛を実践していく過程を見守って、‘李サンリョンが子供たちのポパイであるのは、彼自身が‘子供’であるため’だと話したりした.
彼は歳をとっても童心を失わないおとなだった.
“子供の目が怖いです.
他のものなら何でも耐えらるけれど、子供たちの誤解が解けないまま目を合わせるのは耐えられないことです.”
普段、子供たちからサインをねだられると、彼は16項目もぎっしりと健康であることと勉強を熱心にすることなどの文を書いたりした.
道で会う子供たちをそのまま行き過ぎられなくて、頭を撫でて頬を摺り寄せたりした.
しかし、‘そのこと’が子供たちと自身の間に打開するに難しい障壁を立たせたような感じを彼は持っていた.
李サンリョンは最近、8年間乗っていたコランドー(訳注:自動車名)を降りた-
‘そのこと’以後、彼は一時各種デマに苦しめられたが、その中のひとつが、李サンリョンはベンツ
500,夫人尹ヒェヨンさんはBMWを乗り回しているということだった.
彼は記者にあきれたという表情を浮かべて、答える価値もないと軽く一蹴した.
- 電鉄と汽車などの大衆交通手段を利用している.
インタビューの一日前にも、彼は江陵と束草で行事司会を務めて‘日当’を稼いでくるのに、狎鴎亭駅から清涼里駅までは地下鉄,
清涼里駅から江陵まではムグンファ号を利用した.
しかし、夜の空気に触れながら狎鴎亭駅から清潭洞の家まで、悠悠と闊歩をしながら新たな自由と心の平和を得たと述べた.
“これからまた力を出さなければ.
真実を知っていて、力を出せと慰めてくださる方達が多いのです.
いつだったか、大衆浴場で、そのような事はないと信じている、早く活動を再開しろという方もいらっしゃいました.
放送局からまた呼び返される日がまもなくくるでしょう.
他のものはわからないけれど、あのために終映になった‘友情の舞台’(MBC
-TV)はそれで復活すれば良いですね.
そうなれば、ひたすら‘友情の舞台’の進行だけをしながら、芸能人としての残った生活を実のあるように過ごしたいです.”
李サンリョンは具体的に明言はしてくれなかったが、MBC側からの接触がなされているような印象を漂わせた.
彼は現在、大田MBC -TVの‘主婦 歌謡熱唱’,春川MBC-TVの‘マガジン Q’,2次民放
CJB(清州放送)の‘CJB 歌謡スター’等の3放送局の司会者として活動している.
昨年10月からであった.
しかし、中央空中波放送は、まだ彼に門を開いていない.
無罪が判明したにもかかわらず、自分を呼び返さないことに対して、彼は惜しむ.
彼は‘友情の舞台’に進行役で復帰することが本格的な名誉回復の開始だと考えているようだ.
8年間‘友情の舞台’を進行してきながら彼は全国各地を回った.
軍人たちは、彼を本当の上官であるように尊敬した.
からだが痛くても,
雨雪に濡れながらでも、一度も休もうともしなかった.
それが軍人の士気を高めることだと彼は硬く信じていたのだ.
‘お母さんに報告〜’で始まる、お母さんと軍人息子の出逢いを見ながら自身も涙を浮かべたことが一度や二度ではなかった.
“復帰できるだろうという希望を持っています.
そうでなくても、このまま座り込んではいません.
借金も返して、心臓病の子供たちも助けなければならないでしょう.”
李サンリョンは、昨年末だけで90ケ所の忘年会行事進行を務めた.
アシスタントがいなくても、通常3,4時間を機知にとんだ話で編みあげる彼は各企業では経済的な司会者のようだった.
彼は、そのような席を通じて、いまだに自身が‘死ななかったこと’を確認することができた.
さる 1月14日には中央水産食品事業部という健康食品業者を引き受けた.
‘王なまず エキス’という健康食品を製造,販売する会社だ.
彼は体面にかかわらず、親密な知人たちの名簿を作成し、電話をかけて購入を頼んだ.
多くの人々が快く彼の要請を受け入れてくれた.
そのような小さな助けが、彼には千軍万馬を得たような大きな力になった.
彼は‘そのこと’以前にそうであったようにまた奔走の日が始まった.
今夏には‘子供ポパイ兵営キャンプ’を開く考えだ.
父母に依存して甘えるだけの子供たちに軍人と同じ気概を植え付ける行事を持とうということだ.
“大学(高麗大 林学科)時も応援団長だったときにはただの一度も立ち寄らなかった図書館に閉じこもって夜遅くまで勉強をしています.
環境運動を共にした鄭宗澤 学長(忠清専門大)が提議をしてくれたものも有難いけれど、今は何もできないですから.
芸能人教授ならなんなく単位をくれるだろうという考えで受講申請をする学生に刺激を与えます.
もちろん、面白さは保証しますよ.”
李サンリョンの教授赴任覚悟. 彼は来る3月の新学期から忠清専門大スポーツ外交学科の兼任教授で任用される.
彼が教える分野はスポーツ外交学,ボランティア論とレクリエーション余暇論などの科目を預かって、毎週8時間ずつ講義する.
このために、彼は各種関連書籍を読んで、講義ノートを準備している.
20余年の実践経験を最大限生かし、理論と現実を均衡させて接続した講義を繰広げるという彼の抱負だ.
体系的で組織的なボランティア論が確立されてこそ、今後の国家的な大事を円満にやり遂げられるので、熱情で教えるのだという彼の考えだ.
“また事業を始めて、借金も返してやり残している奉仕もしなければならないと考えていますが、相変らずお金には大きな欲がありません.
名誉をとりもどせるならば、他のことは重要でありません.
大学の講壇に立つことになったこともひいては名誉回復のための良い機会だと考えます.”
今後は他人よりは自分と家族のために生きたいという彼だったが、ボランティア論に対する話が出てくると、わが国の人々の相互扶助が、あまりにも感性的次元に偏っていて、自己犠牲的な部分が足りないと指摘して、熱を上げた.
すなわち,わが国の相互扶助は、道徳性に関連した部分に執着して、展示的な一過性行事に終わっているということだ.
そして….
インタビューを終えた彼が写真撮影のためにすぐとったポーズは腕を曲げて二頭膊筋を強調する特有の‘ポパイ
フォーム’だった.
彼は漫画の中のポパイがそうであるように、ホウレンソウを食べればまた力を得て、‘ブルート’をなぎ倒すようだった.
そのホウレンソウとは、たぶん人々の信頼であるだろう.
文 / 金サンジン 記者 写真 / ミン・ヨンジュ 記者
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