2000年4月科学東亜 4月号

許浚は、恩師の死体を解剖したのだろうか?


シン・ドンウォン/ソウル大講師, 韓国医学士

kahakdonga0004_1.jpg (17149 バイト)‘小説 東医宝鑑’やドラマ‘許浚’のハイライトは、許浚(ホ・ジュン)が恩師ユ・ウィテが自身の死体を弟子の研究のために出す大きな場面だ. “どうして恩師のからだにメスを入れられようか”と、許浚が惑うと, サムジョク大師は、“恩師の崇高な遺志がわからないのか?”と、せき立てる. ついにユ・ウィテのからだにメスを入れた許浚の手が震え, 全身に汗が噴き出して雫になる. 人体の内部をのぞき見た許浚は、驚くに値する悟りを得て, それを描き写す. いわゆる‘新型臓腑図’というのが、それだ.


屍体解剖は完全な‘お話’


一言で、このストーリーは完全な‘お話’だ. それが歴史的真実か否を離れて、常識的な水準で考えてみてもそうだ. 死体1体を解剖して、途方もない医学的真理を発見するだろうか? なお一層正しい病気の原因と治療法を勝ち取ることができるだろうか? ここで 少しの間, 私達が生物学実験の時間に顕微鏡を覗いた時を思い出してみよう. 細胞を観察する、初めての時には顕微鏡の中に見えていることが何なのかをよく知ることができない. 雑多に散らばっているのがよくわかり、‘無秩序’であるかのように見えるだけだ. それぞれの物体に対する理解は、実習指針書があったから可能だった. 細胞壁がどうだとか, 核がどうだとか, ミトコンドリアがどうだとか… ところで、この実習指針書とは、どのように作られたのだろうか? 先達科学者たちの無数の科学的研究を土台に作成されたのである.

解剖学も同じだ. 病んだ部分とそうでない部分, ある部位と他の部位の連結, 表皮部分と深層部位の連結などを、解剖学指針書と恩師の教えがない初心者がひと目で理解するというのは、ほとんど不可能だ. どんなに当代の名医だとしても、解剖学の知識が少しもない許浚が、屍体ひとつから身体内部の構造とその生理学, 病理学的意味を読みだすということは絶対に不可能だ. つまり、解剖を初めてした人が、屍体をたったの1体見て、医学的真理を理解したとすれば、それは詐欺であるとしか言えないのだ.


生きている身体の運用重視

西洋医学が単に解剖をしたおかげだけで、現代の学である解剖学, 病理学, 生理学を産み出したのではない. 卓越した医学者たちが数多くの屍体を解剖して, 実験して, 検証の過程をたどって、そのような学問の基礎が打ち立てられたのである. ‘小説 東医宝鑑’と ドラマ ‘許浚’は、このような基礎的な常識を徹底的に無視している. あたかも、飛び抜けた医学の英雄 1人が一気に医学的真理をつかみ出したかのように描写している. こういう側面を見る時、その小説とドラマを‘歴史小説’とか‘史劇’などと呼ぶことも適当ではない. むしろ‘武侠もの’により近いということができる.

許浚の‘死体解剖’は、歴史的事実にも符合しない. それは、次の2種類の理由からだ. まず、どの史料にも許浚が死体を解剖したという記録が残っていない. 次に、許浚の漢方医学は決して屍体解剖を必要としなかった. 漢方医学の発展は、屍体を切って病気が位置する所を捜し出して集中して攻略する近代西洋医学とは完全に異なるやり方でなされた. 屍体から知識を得るのではなく、生きている身体の運用を重視した. すなわち、からだ内外の均衡と不均衡, 各器官間の有機的連結に関心をおいたのである. 特に、許浚の場合には、生命の根本だといえる、からだの中の精, 気, 神の修養に格別の神経を傾けた. 小説とドラマの中の屍体解剖は、このような、実際の許浚の作業と医学的成就を大きく歪曲して傷つけることだ.


許浚の外科手術

kahakdonga0004_2.jpg (15776 バイト)漢方医学は解剖学に土台をおいた学問ではないが、からだにメスを入れる伝統が全くなかったわけではない. 外科手術ともいえることが、いくつかの分野で存在した. でき物治療法, 身体奇形部位手術法, 刀傷(刀や槍などによる傷で内蔵がそとに出ること)により生じた傷に対する手術法などがそれだ.

‘発背’または‘発疽’と呼ばれる‘背中のでき物’は、伝統時代の不治の病のひとつであった. 歴史記録を見ると, 新羅の神武王, 後百済を立てたキョンホン, 高麗の叡宗と神宗がこの病気で死んだことが出ている. 朝鮮時代には画期的な外科手術的なでき物治療法があった. 仁祖時の医師 ベク・グァンヒョンと彼の門下たちは‘チジョンジナム’(でき物治療指針書)という本を編集して出したが, ここには驚くに値する外科手術的方法が含まれている. 鋭利な手術道具を使ってでき物を破き、いろいろ薬を用いて根を除去する、各種方法がそれだ. 今の目で見れば、どうということがないのだが, 当時としては画期的なものだった. 中国や日本から由来したものではないことだった. だが、ベク・グァンヒョンと彼の門下が発展させた、このようなでき物手術法は、彼らより何十年も以前の人物の許浚の医学では見えなかった内容だ.

漢方医学には、民間で‘三つ口’(唇とあごの端が畸形的になった症状)と呼ぶ先天的障害に対する外科的手術が存在した. それは、現在の手術形式とほとんど全く同じだ. 中国では、唐時代のある医師がこういう手術を10余回成功的に行っていて, 清時代にはこのような手術法内容が医学書中に位置を占めていた. 中国の場合とは違い、朝鮮では‘三つ口’手術に関する内容が知られていない. 許浚の‘東医宝鑑’も、これに関する内容はない.


ファタの麻酔手術

昔も刀や槍等、鉄類による傷が非常に多かった. 戦闘の主な武器がこのような鉄類だったことを想起しよう. 鉄類に傷つけられたいろいろな症状のうち、内蔵が外側に飛び出してきた場合も多かった. しかし、対応無策でしかなかった. こういう症状を解決する方法に関して、とても遠い以前から漢方医学でも深い関心を持ってきた. 韓国でも、現存する最古の医学書的な‘郷薬救急房’に、既に、外に出た内蔵を中へ入れて縫合する方法が載せられていた.

許浚の‘東医宝鑑’には、それよりはるかに洗練された方法が見える. 直接‘東医宝鑑’の内容を見よう. “鉄類に傷つけられた腸は、縫う方法で治すことができる. その方法は次の通りだ. 切れた腸が見えたら、手早く針と糸で縫い、次に、速く腹の中押し込んでいれればよい.”このように、針と糸で縫う方法は、現代医学で言う縫合術とその方法が大きくは違わない.

最後に、漢方医学の外科手術と関連し、 マブルサンという痲酔剤の存在と ファタの伝説的な手術を抜かすことができない. 小説 三国志に出てくる名医ファタは、腹を切ってからだの内部臓器の病気を治したことが知られている. その時、痲酔剤として、マブルサンを使用したという. 関連記録を紹介すれば、次の通りだ. “仮に、病気が塊りとなって体内にあるが薬も役に立たず、当然、手術しなければならない人は, マブルサンを飲んですこし経つと、まさに酔って死んだように気を失う. この時、刃物で切って取り出す. 病気が仮に腹の中にあれば、腹を切って洗って、縫って膏薬を当てる. 4-5日を過ぎれば痛くなくなる.”

痲酔剤を使用したファタの手術法は、漢方医学の歴史上、最も本格的な手術法だったと言えるが, そのような伝統はファタ以後は徹底的に無視された. 取りあえず、先述のように、刀傷による傷の縫合と身体的障害を正す手術, でき物治療術程度が存在しただけだ.


徹底した検屍

伝統社会では、医学的理由であっても、屍体に汚点を付けることは禁忌に属した. これに関する2種類の事例を見てみよう. まず、許浚と同時代の人物のジョン・ユヒョンに関してである. 彼は、壬辰倭乱(註:文祿の役)の最中に転がっていた屍体を解剖して、臓器を観察し、五臓図も描いたという人物だ. こういう話がイ・イクの‘城壕社説’に伝わっている. 屍体を解剖したため、驚くに値するほどの医術を得たという世間の風聞と共に, イ・イクは“屍体を切ったために、自分の寿命通りに死ぬことができなかった”という非難を呼んだ. もうひとつは、開港直後、紳士遊覧団として日本の病院を見学した ソン・ホンビンという人物の見学記だ. 解剖図と解剖人体模型などを見終って、彼は“本当にぞっとすることこの上ない. これは、仁術をする者がすることではない. ひどい、酷い”と、西洋の解剖術を非難した.

このように、朝鮮時代には人為的な屍体解剖を良くは見なかった. しかし、殺害された屍体の検屍は非常に徹底した. 屍体に残った痕を分析し、殺害方法と動機を推定する‘科学’を発達させた. いわゆる、無怨録(殺人者を明るみにして、怨みを晴らすという意味)の伝統がそれだ. 世宗時の‘シンジュ無怨録’と、英祖時の‘ジュンス無怨録’が、この伝統を代表する. その完成度は高く、近代西洋医学が導入された後にも、しばらくの間はこの法医学知識が裁判にそのまま活用される程であった.

“刀で突かれたのか、おので押し切られたのか? 首をくくって死んだのか、殺した後に首をくくったのか? バラバラ殺人か、殺害後バラバラにしたものか? 毒殺か、そうでないか?.....”あらゆる類型の殺害方法に対する‘科学的’分析が、無怨録の内容を埋めている. その科学性は、初期分析から始まる. 次は、傷跡が歪曲なく表れるようにした良い例. “屍体を正確に観察しようとするなら、屍体をきれいに洗って、傷を検査しなければならない. 決められたことにしたがって、酒, 醋などを使用し、屍体に かぶせて, 死亡者の服類で完全に覆う. その上に暖かい醋と酒を注いで, その場で一時刻程伏せておけば, 醋と酒の気が入り込んで、屍体がなじんでくる. これを待ち、覆っていたものをはがして、 酒と醋をきれいに洗い落とした後で検屍をする. 万一、待ちきれずに酒と醋でさっと洗うだけだと、傷の痕跡が現れない.”

今と同じで、朝鮮時代にも殺人事件は非常に厳重に扱った. ‘シンジュ無怨録’や‘ジュンス無怨録’を編纂することになった動機も、もしも誤って判定し、悔やみを残すような事が無くなるようにするためであった. 実際、殺人事件が行われた場合, その地方の官衙では、首領が責任を持って死体を調べるようにされていて, それでも足りず、観察使がまた検査して確認した. これをそれぞれ、初検, 再検という. 事件が微妙な場合には、多いときは3検, 5検まで行ない、‘悔い’がないように努力した.


現在から過去までを才談してみよう

‘許浚の死体解剖’の教訓は何か? それがでたらめだといっても、その反面教師となる点が全くないことはない. わたしたちは、この主題を通じて、漢方医学と西洋医学がどのように違い, 許浚医学の特徴が何かを效果的に推量できる. また、伝統社会で死体解剖に対する考えがどうであり, 解剖学とある程度類似の性格をもった外科手術がどんな方法で存在したかを見回すことができる. こういう考察を通じて、過去の医学と文化が、現在のそれとは違っていたことを悟ることができる. また、そのような、他の差異を無視して現代的見解を過去の医学文化にそのまま適用した時、どれくらい深刻な誤謬が生まれているかが明確に分かる. ‘許浚の恩師解剖’は、過去の文化を現在の見解で語ってはならないと言う明らかな教えを私たちに言い聞かしている.
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