97年2月号 HOT MUSIC

特集:日本のロック大解剖 より序文
日本という 国の 音楽を 接するに先立ち、われらは あまりにも 多くの 複雑な 思考を 経なければならない. これは 私が 日本のミュージシャンの 音盤を 紹介する 機会があるごとに うんざりするように 反復してきた 事項だが, 今 私たちが置かれている 状況下で 何らの 私心なしに日本音楽を 受け入れることとは容易なことでない. これに 対して 誰が 責任を負うのかは 私もわからないけれど, いまだに日本の 音楽を 聞くたびに 多くの 社会的, 政治的な 圧迫感を 受ける. いや, それよりは 私たちが置かれた状況が 私たちに 引続き 頭の中で 計算させてちっぽけな頭を 転がすのだ.

音楽に接するにあたって このような 論理に合わない 政治, 社会学的な 思考が 何故 必要なことであるか? 公式的には遮断されていて, 部分的には 深く 浸透しているというのは 日本音楽だけであり, 音楽を 聞くにあたって '正しい' '正しくない'との 喧喧諤諤があちこちから聞こえるのを見れば 私たちが 容易に何も考えずに音楽を 聞く 日は まだ遠いと言える(なによりも 歌謡の 事前審議が なくなったことも 僅か なんヶ月前でしかない). いまだに 我々は 単純に 日本のミュージシャンであるという理由だけで全曲が 英語でできた アルバムでも 商店から没収されるという悲しい 現実に 置かれている. あちこちの書店に 日本語 教材が 置かれてあって, 大抵の大学には みな 日文科が存在している 状況で、このような もの等は 非常に 受け入れるに難しい 事実だ. こういう 現実は 私に このような 難しい(?) 文章を書く度ごとに 何度も進退を 繰り返させる.

こういう 難しくて 堪え難い 質問から抜け出すために 筆者は まず ひとつ の条件を 前提に この 文を 導いていこうと思う. 今回の文章から 日本の ロック音楽のみならず 日本 以外の 他の どの 国の ロックであっても差別をしないで 同等な イメージで接するようにしよう(ここで '同等'という ことは 音楽に対して 点数を 付けるという 意味では ない). より 正確に 言えば, 日本の ロック音楽, 米国, 英国, ドイツ, シンガポール, 韓国 等 他の 地域の ロック音楽に優劣はない それは、ロックというものを文化的 形態で 認識するという 意味だ. したがって, 私は この 文に対して どんな 政治的, 社会的の 問題も 介入することを きっぱりと 拒否する 考えだ. 率直に言えば, この 雑誌は 音楽雑誌であり、音楽に対する 社会学的な 接近であっても 政治的 発言は 他の 筆者が 他の 空間ですることになる. このような 前提条件だけを読者が 念頭に 置いているならば, 読者は この 文を 読むのに あって いかなる 乱雑な 悩みをも体験しなくてもいいだろう.

2番目に留意したいのは この 誌面に 載せた 大部分の 音盤は 読者が 公式的な ルートを 通じては 全く入手が不可能な アルバムだという 事実だ. 大部分の 音楽評論が 読者の 鑑賞を 手助けするための ガイド的な 役割を することだと考えると, これは 耐えられなく 苦しくて 苦しい 状況だ. また, この アルバムを いつになったら 読者が 容易に 入手して 聞いてみることができるかという疑問に対してさえ明確な回答をすることができない. しかし, ひとつ はっきりと 言えることは このような 状況は いつかは 終わるという ことだ. この ガイドが 1年先走ったのか, 5年先走ったのかに 対しては 話す言葉が ないけれど, かと言って このような もの等が あなたがたが 終生を 通じても 絶対に 聞いてみる 機会さえ ない '絶対ダブー'では 全く ないと言える(事実は この話でも 特に慰められるようなものではないが). 上の 二つの 事実に対し 読者の 了解を 求めながら この 文を始める.