98年11月
Cine 21 178号
封切り作 . . 家族シネマ . |
. 家族シネマ ![]() (写真/家族が 20年ぶりにカメラを前に置いて集まった. しかし、反目は終わらない.) 封切り/ 11月28日 上映館/ ソウル - ミョンボ, ハリウッド, シネコア, 東亜, シネハウス, シネマ天国, CGVカンビョン11, 梨花芸術, ロッテ3, キョンウォン, 釜山-釜山, 大邱-シネアジア, 光州-太平 大田-シンド 製作 朴哲洙フィルム, ヨンソンプロダクション 企画 朴哲洙 原作 柳美里 製作総指揮 ジャン・ヒョンホ シナリオ ウ・ビョンギル 撮影 イ・ウンギル, 崔ビョンウ 照明 朴ジョンファン 同時録音 イ・テギュ アートディレクター 朴ヒソン 音楽 ビョン・ソンヨン 編集 朴コッジ 出演 ユ・エリ, 伊佐山ひろ子, 梁石日, 中島忍 製作年度 1998年 上映時間 114分 等級 18才以上 観覧可 あらすじ ![]() 会社員もとみは会社から帰ると、自分の家の前に20年ぶりに家族が集まっている姿を見て驚く. ポルノ俳優をしながら、正式な映画俳優を夢見る妹 洋子が、"君の家族の話を映画にしよう"という片山監督の提案を受け入れて、この日から撮影することにしていたのだ. もとみの家族は問題だらけであった. スロットマシン業者の技術者として仕事をしてきたが、失業の憂き目にあった父は、若い時から経済的に無能力に, 極悪のお母さんはキャバレーに通って生活費をかせぐが、妻帯者と目があうと間もなく家出した. 弟 カズキは秀才だったが、大学生になることとテニスの他には何にも関心がない自閉症患者になってしまった. 映画撮影を契機に、お互いが負担になっている家族が会うとぎこちなく、時には自然な対話と葛藤を反復するけれど、和解に達するには感情の溝があまりにも深い. もとみは、仕事で出会った老彫刻家に妙な親近感を感じて同床するが、彼からも背信を味わう. 情 報 <家族シネマ>は在日同胞作家 柳美里の97年度 芥川賞受賞作の同名小説が原作だ. "小説からは映画を作らない"というのが、朴 監督のこれまでのこだわりだった. ところが、この小説はちょっと特別だった. 朴 監督は <産婦人科>を撮った時、一つの家族の中に私達が生きる姿のあらゆる要素が溶け込んでいるという考えに至り、家族という存在をまた眺め直すようになった. 既存の歴史的,社会的接近法とは別の次元で日本を扱ってみたいという欲求もあった. 小説 <家族シネマ>は、これに丁度合う原作だった. その上 <301,302>の 日本配給で得た日本での知名度も活用することができた. ![]() 日本の小さな村で主にされた撮影は、緊張の中で進行した. 日本の俳優が出演して台詞が日本語という点のために、映画振興公社が版権担保融資対象から除外するという方針を明らかにしたうえに, 国内での封切りも難しくい状況に陥りそうで, 朴 監督が"それなら、映画亡命でも申請する"と対抗したためだ. もちろん、さる10月20日、政府の日本映画開放方針が発表され、肩に力こぶを込めていた両者が若干拍子抜けしたが. 完全に前後が変わった状況のおかげで、朴 監督は試写会場で、"日本映画開放に便乗しようという意図は全くなかった"と、守備的発言をしなければならなかった. それでも、速度は変更がなく朴哲洙式に速く撮る. 出演陣とスタッフが一ヶ月間合宿しながら20回の撮影で終えた. 製作費は計12億ウォン程度であり、日本主要映画会社等と日本配給も論議中だ. 映画は小説とちょっと違う. 細部の心理描写を省略した代わりに, 2台のカメラを動員し、故意的に映画の内と外の境界を薄くした. 片山監督が撮る映画中映画は <家族シネマ>の一素材でしかなかったのだが、たびたび二つの映画間の境界が曖昧になる. もちろん、片山の映画は主に持って撮るのが中心の画面で、朴 監督の映画は固定カメラの静的な画面だが, 編集の妙を生かし観客に両者の区分を難しくする. 小説では家族の再会と断絶感確認の契機になった映画撮影が、映画<家族シネマ>では、映画自らの意味に対する質問に昇格する. 朴哲洙式 `額縁構造化¨とでもすべきこの技法のヒントは、原作で片山監督が自身の映画が"フィクションでもなく、ドキュメンタリーでもない新しいもの"だと話す一節にも出てくるけれど, 事実は<学生府君神位><産婦人科>で既に 朴 監督が他の方式で試みたことだ. <学生府君神位>で 朴 監督は最後の場面に出てきて "カット"と叫んで、映画の中に登場し, <産婦人科>では出演者がカメラをみつめて観客に話しかける. 映画が虚構であることを自らあらわす技法が <家族シネマ>では、もう少し巧妙に使われているわけだ. 溌刺とした形式の試みにもかかわらず <家族シネマ>は何となく寂しく感じられる. 映画内外の境界や、フィックションとドキュメンタリーの境界を曖昧にする技法自体が、もはやある程度使い古されたせいもあるが, 家族の断絶という本来のテーマが形式の試みとどんな関連があるのかがよく分からないためだ. 主要人物のキャラクターと動機も明確でない. 例えば、もとみが映画撮影を嫌がりながらもずっと引きずられる理由や、老彫刻家と同床する理由が不明だ. 小説でもとみが家族と世間に対してもった感覚の正体は異物感だ. 幼い時期に家庭が破綻した後、彼女には世の中がいつも馴染めなく、少し気障りだった. 明瞭な動機が説明されなくても、道端に座っている犬との短い接触, 老人の部屋に漂う奇妙な臭いに対する精密な描写ゆえに、彼女の選択は共感を醸し出す. 映画 <家族シネマ>は、注目するだけの形式を見せるけれど, 原作の心理的共感という徳性はないがしろにしたようだ. 著名な日本の評論家 佐藤忠男は、原作の多少固くて憂鬱なトーンが映画で"喜劇への飛躍"を成し遂げた点を高く評価したが, 映画の笑いが韓国の観客の笑いにつながるかは座してみることだ. 許ムンヨン 記者 -------------------------------------------------------------------------- Copyright 1995-1998 ハンギョレ新聞社 webmast@news.hani.co.kr . |