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春香, ここに来て 抱き合おう
“映画監督というのは、自分が生まれてきた所から逃げることができない.
どんなに逃げたくても、自分の席に帰ってきて、結局、その生が映画に作られるのだ”.
林權澤 監督は遠回りして<春香傳>の入口に到着した.
自ら紙くず同然だと表現した1960年代,
同時代人に対する暖かい関心と愛情をあらわした1970年代,
そして、彷徨と構図の1980年代を送った後, 私たちの根を探査した90年代の終わりで、彼はついに不滅の古典‘春香傳’と出会ったのである.
これは, しかし, 回帰でありまた同時に革新だ.
西欧的映画文法をさっと払いのけて、彼を戦慄させたパンソリの感興に、すべての形式的規律を制圧する美学的挑戦だ.
<春香傳>は、それで、林權澤 映画履歴の決算であるとみるより,
新しい出発のように見える. デビューしたての新人監督のように,
彼はほとばしる興奮と不安を押しのけて、パンソリ
春香歌を用心深く映画に移し始めた.
1998. 9.16
(林權澤 監督の後ろに見える獄舎は、徹底した考証のたまもの.
どんな史劇でも正確に再現できなかったが,
<春香傳>チームは多くの資料と獄舎跡地を追いかけた末に獄舎のモデルを捜し出した.)
“春香伝 パンソリを映画にするんだ”
キム・デソン,
カン・ギョンファ氏等、演出部をタワーホテル喫茶店に集めて林權澤
監督が話を切り出した. カン・ギョンファ氏は慌てた. 半月前に<明星皇后>を作ろうと提案したが、“狂ったのか,
時代劇ならその莫大な製作費を誰が出すんだ?”という声まで聞いていたのに….
春香伝は、もっと旧式時代劇ではないか.
その上、最近では人々が聴くこともしないパンソリで映画を作るとは….
しかし、林 監督は、既に映像で声(註:韓国語で"ソリ")の感興を極大化するというコンセプトだけでなく,
シナリオはパンソリ唄いでもあった俳優 キム・ミョンゴン氏(国立中央劇場長)が担当して,
実際、春香・夢龍の年齢に合う新人俳優を採用して,
パンソリと劇とで映画を引っ張っていくという具体的構想まで終えた状態であった.
林 監督は <西便制(註:邦題「風の丘を越えて」)>を作る時、ジョ・サンヒョン氏のパンソリ
完唱 春香伝を聞いた後, がんがんと響きわたるその声と5年間一緒に暮らした.
あちこちをのぞいてみたが、結局パンソリに帰ってきた.
テフン映画社 イ・テウォン社長とも話を終えた.
“貴方が春香伝をやるというのならば, 私が製作しなければね.”そういうことだ.
林權澤-イ・テウォン
パートナーシップでなければ、こういう映画を誰が意欲を出すだろうか.
パンソリよりももっとパンソリである映画,
台詞も動作もリズムもパンソリである映画.
これまで穏健な話の映画を抜け出したことのない林
監督にとって、これは相当な美学的野心だが,
狂いが生じれば墜落する冒険だ. “本当にやりたかった.
だが、これが,
どんな映画になるのか、率直に言って、私も知らなかった.”
長く懐で暖めていたプロジェクトだったが,
百戦老将も緊張していた.
1998. 11.10
初めてのロケーションハンティング兼シナリオ会議のために、林
監督, キム・ミョンゴン氏, 演出部の南原(註:南原-ナムウォン-は春香傳の舞台)行.
林 監督の第一声, “いままでよく休んだよ.” <春香傳>は、本当に始まったのである.
南原
民俗村であたかも春香が家を建ててくれと待ち望んだような土地を発見した.
なぜか、仕事が序盤からよく進む.
シナリオ作業は、一日中パンソリを聞くこと.
そこから話も出てきて、台詞も出てきて,
削除・挿入する部分も決定される.
より重要なのは、パンソリのリズムを皆がからだになじませること.
これからは、パンソリで明けてパンソリで暮れる日が終わりもなく連なるはずだ.
演出部は、林 監督からもう一つの重要な指示を受けていた.
考証は徹底的に! 林
監督は細部のリアリティーが粗末なことを耐えられない人だ. <西便制>で、服に染みひとつ,
皺ひとつない大きな失敗を見れば、いまだに恥ずかしくて逃げたい.
演出部の仕事は、春香伝の時代的背景の朝鮮朝時の生活像に関する資料を残らず捜し出すこと.
考証は終わりがない. 衣装, 食べ物はもちろん, 棍杖の材質, 東軒(註:昔の役所)司令の姿勢,
火の玉の色合いまで. 図書館はもちろんのこと、民俗学者,
韓学者を尋ね歩いての聴きまわりは、撮影終了日まで止めなかった.
<春香傳>の獄舎と夢龍が乗ったロバは, よく見えないけれど,
演出部のかいた汗が表れた考証の結実だ. 獄舎は、林
監督の“私が幼い時に見た監獄は、TVに出てくる四角なものではない.
丸かったよ”という証言によって、各種資料を探した末に、1900年代初めの丸い獄舎の写真を捜し出して考証した.
李夢龍が乗るロバは、‘ソサン
ロバ’という一節の‘ソサン’が、アジア地域を意味するというのを知って探し回った末に捜し出した、貴種アジア血統のロバだ.
ロバ(彼の名前はサムドリ)は、後ほど事故も起こして面倒をかけるが、<春香傳>でなくてはならない貴重な存在となる.
年を越して、3月4日には、イ・ヒョジョンとジョ・スンウを新世代の春香・夢龍として選抜し,
3月8日にはミシリョンの雪の降る空の下で初めて撮影.
1999. 5.12
(有閑知識人のお坊ちゃんと濃艷な淑女の運命的出逢い.
春香のブランコ遊びから、撮影は困難の連続だった.)
その間ぽつりぽつりと撮っていたが、この日から<春香傳>撮影は本論に立ち入った.
パンソリの赤誠歌であり,
書生と有閑知識人の二つの顔を持った夢龍が広寒楼に出て、ブランコに乗る春香を目撃する運命的場面だ.
“本当は誤って立ち入った道でないだろうか.”スタッフに言えなかったが、林
監督は不安感が離れない. 準備が不足していたわけでもないのに,
スタッフたちの動きも演技者の動作も全く満足できない. 声(ソリ)の感興を映像で伝えるということが、果して可能な事だろうか?.
本当に、準備の問題ではなかった.
<春香傳>
撮影現場には、他の所にはない、特異なのものがいくつもある.
‘乱数表’と呼ばれる冊子もその中のひとつだ.
映画に入っていくパンソリを語節ごとに切って、0.1秒単位まで時間を計算しおいた、この冊子は現場でシナリオと同等に重要な本だ.
これほど細かく計算しなければ、映像と声のリズムを一致させることができない.
大型スピーカーも目立つ現場装備だ.
録音部は録音装備よりも、スピーカーをまず用意する境遇になった.
撮影する時間は、終始パンソリが響き渡る声に合せて、また、乱数表の数字に合せて、演技者とスタッフは定規で測ったように動かなければならない.
しかし、まだかみあわない. そういえば、0.1秒単位で計算された、声によってカメラを動かす前代未聞の作業を誰がやってみただろうか.
ジョン・イルソン撮影監督の他には、まだ撮影部スタッフたちはなんとも感じがつかめていないような表情だ.
力を持て余す日が流れる.
5月21日には、春香のブランコ場面を撮る.
高く蹴り上げなければならないが、幼いヒョジョンの力では満足できるだけの高さが出せなくて,
サーカス団員も呼んで女装もさせてみる.
いろいろなアングルから撮ってみた.
1999. 6.5
(パンジャ
役のキム・ハギョンは唱劇団のパンジャ専門俳優.で、10年以上声で鍛えたからだは、特別な指示が
なくても 自ずと パンソリと 交流した.)
パンジャが 春香 呼ぼうと 走りていく 場面 撮影. パンジャ役の
キム・ハギョンは、唱劇(註:韓国の民衆歌劇)界のパンジャ専門俳優.
各種の<春香伝>で、最高のパンジャとして君臨してきた.
だから, 声(ソリ)に敏感でからだもなじんだ人物で,
歩き方にしろ声にしろ、うってつけだ.
しかし、まだ林
監督はどんなリズムで行くべきか、確信が立たない.
一拍子一拍子まで分けて、リズム感を生かそうか.
でなければ、長く伸ばして、導線の流れを生かそうか. 林
監督がまず選択した道は、各種のアングルとやり方で多様に撮影すること.
試験編集で解答が見つけられるはずだと期待した.
パンジャ場面も細かく分けて、可能なだけ多く撮るようにした.
それで,
パンジャは脚ひとつで朝から夕方まで、ずっと走らなければならなかった.
もちろん、パンソリの長短とリズムに合せて.
撮影現場は、ほとんどパンソリ小屋だ.
昼夜で休むことなくパンソリを聞いたスタッフたちは、いくらか嫌気も出しながら、順次中毒になっていく.
あるスタッフは夢で赤誠歌をうなりだして,
‘さっと走って’というパンソリの一節は皆の感歎詞となる.
ジョ・サンヒョンの名唱に埋まって暮らし、ほとんど1年にわたって‘乱数表’を作った、スクリプター
チョン・ギョンジン氏は耳が肥えて, 普通の唱は面白くない.
林
監督の映画履歴として記録することだけのことはある、もう一つの事件がある.
パンジャの場面を撮りながら、初めてステディカムというものを使ってみた.
もちろん、お金がなかったというのではなく,
その間の絢爛なカメラワークを楽しまなかった 林
監督の演出スタイルのため. <娼>を撮る時、スーパークレーンを初めて見たという林
監督の固定スタッフたちは、ステディカムを見て非常に新奇だった.
<春香傳>は、色々な面で、林 監督には挑戦的だ.
しかし、ステディカムで撮ったフィルムは、リズム感がなじまずに,
結局 捨てなければならなかった.
1999. 6.13
憂鬱な日. 編集をしてみると,
パンソリの興と映像とが全く合わない.
現場では精巧に撮ろうと努めたのに, 編集すると違う状況だ. 林
監督は深い苦悶に陥った.
結論はこうだった. “長く撮ろう.
敢えて歌詞一つ一つに合せるのではなく、パンソリの興を全体的に生かす方向へ行こう.”
その代わりに、いままで撮ったものの大部分をまた撮らなければならない.
現場には若干虚しい雰囲気と共に,
今はもうパンソリのリズムにを乗ることができるという自信もついていた.
何より、林
監督が“いま、どのようにしなければならないかをわかるようになった”という.
梅雨期も迎えて、一ヶ月間の休息が6月17日決定された.
一ケ月間、シナリオ修正作業,
セット補完作業が休む暇もなくなされて、イ・ヒョジョンは、琴をかなりそれらしい姿勢で弾ける程習った.
イ・ヒョジョンのもうひとつの課題は贅肉落し.
顔についた脂肪を取るために、携帯電話に目標 kgまで書いておく程の情熱を見せた.
ジョ・スンウは、筆文字を熱心に習った.
これからは、この幼い俳優たちの質が想像以上に重くなるはずだろう.
1999. 7.24
(ジョ・スンウ-イ・ヒョジョン 最悪の 日.
お互いのからだを知った男女は、濃艷に戯れなければならないが, 二人の幼い俳優は、二日間ぎこちない動作を脱することができなかった.
林 監督の号令後、ふたつのからだが和らいだ.)
問題の愛歌(サランガ)場面. “ここに来て.
抱き合おう”で始まる、この大きな演目は、恐らく<春香傳>全体で最も難しい場面の一つだろう.
“5, 6日が過ぎて 二人の男女は恥ずかしさを忘れて….”
お互いのからだを知った
幼い男女は、もう慎ましさを捨ててお互い話もそぞろに屏風の後ろに入っていき、服を投げ捨ててからだを合わせなければならない.
問題は、その全過程にパンソリが流れて、あらゆる動作が一カットで収められるべきだということ.
3分近くの呼吸でパンソリのリズムに乗る、高度な愛の遊び.
慎ましい初夜を撮った22日分は無難に過ごしたが,
この場面では、ジョ・スンウが目立って硬くなっている.
経験がない16歳の少年が、どのように知ったかぶって女のからだと戯れるというのだろうか.
ジョ・スンウは、そのままさせるにはリズム感も適確ではないようだ.
初めのうちは、静かに指示を出していた林
監督の表情がますます硬くなっていった.
やるせなく二日が流れて、全スタッフは超緊張状態. 林
監督が爆発した.
“君の甘えをいつまで受け入れなければならないんだ.
君のために全スタッフが、二日間で一場面も撮ることができなかったんだぞ.
さっと触るんだ、力強く触るんだ、それが何だというんだ.”林
監督がそのように怒ったのは初めてであったから,
皆、うなだれてしまった.
ジョ・スンウは後で“その時は本当にそれで楽になりました”と言った.
おかしなことに、怒鳴られたとたんに、春香と夢龍のからだが和らいだ.
そして3テイクでOKが出た. 皆、拍手.

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("ああ、若様、わたしを連れていって."
幼い演技者の不慣れな愛の演技は、終始 林 監督の気をもんだ.) |
(最も難しかった什長歌の場面.
台詞をパンソリのようにしながら、悲しみと憤怒をあらわす演技は、初歩の俳優であるイ・ヒョジョンには越えることができない壁のように見えた.) |
1999. 8.1
愛歌は、それでもむずかしい.
何日かぶりに会った青春男女は、以前よりも一層濃艷に抱き合わなければならなかったが、なんだかぎこちなかった.
弱り目にたたり目で、衣装まで失敗があって、男女の下衣の色が全く同じだった.
林 監督が突然消えた.
一ケ月の休息の後では、方向が途切れるので、はるかに長い一ケ所では,
林 監督の緊張はかなり増す.
編集でリズムを作りだすより、一テイクのなかでリズムを作りだすのは、撮影する時にたいした緊張を必要とする.
だから、ひとつでも狂いが生じれば、神経が鋭くなる.
しばらくして、また現れた 林
監督は、ジョン・イルソン撮影監督に言った. “ジョン技士,
タバコ一本ください.” <将軍の息子>の時に絶っていたタバコを、10年ぶりにまた吸った.
林 監督の喫煙再開はニュースになって忠武路(韓国の映画産業が集まる)に知らされた.
“私は果して正しくやっているだろうか?.” 最後の瞬間まで、林
監督は心の奥深くで渦巻く不安を感じていた.
1999. 10.15
離別歌 場面. 夢龍は、決別をしてロバに乗るが,
嗚咽を飲み込んだ春香は、もう耐えきれずに、“ねえ、わたしを連れていってください”と、叫んで,
ロバにすがる. サムドリはこれまでによくやる癖があった.
長い間現場でじっと立っていなければならない場面でも、"レディ!"と声が出されると動きだすのだ.
それで、林 監督はサムドリのために、手まねで、"レディ! ゴー"とやらなければならなかった.
ひもをつかむヒョジョンが度々失敗したため、林
監督がまた怒った.
“ひもをつかんで行けないのなら、引きずられてでも行け.”
勇気を奮ってロバに必死にすがりついたヒョジョンが、突然サムドリの後ろ脚に蹴られた.
林 監督とスタッフたちは冷や汗が流れた.
ヒョジョンは病院へ移送になった.
幸い、大きな傷ではなく、一日入院してまた撮ることができたが,
皆ひやっとした瞬間だった.
サムドリの非行は、そこで止まらなかった.
ある日、宿舎の前につないでいたサムドリが消えた.
映画を撮るのに飽きて逃げてしまったのである.
今、サムドリが消えれば終わりだ.
新しいロバをさがす時間も、馴す時間も ない. スタッフ7人が出ていって、一時間ほどさ迷った末に、近くの村のあるおじさんに連れられたサムドリを幸いにも発見した.
サムドリは、その日以降後は本当に落ち着いた出演者として残ってくれた.
パンソリがからだに染みついたスタッフたちは、今はもう飲み込みが速い.
台詞とパンソリの関連付けが最も難しかったという、什長歌(春香が棍杖で打たれる大きな場面)も、林
監督の大きな怒鳴り声とヒョジョンの涙がつながりながら成功裏に終わった.
林 監督は人をなだめるにも卓越している. “私が, 憎い?”
1999. 11.1
夢龍が乞食の姿でウォルメの家を訪ねる、夜の場面.
移動カメラが夢龍の歩みを追いかける. 林
監督とジョン・イルソン撮影監督が移動のため、担当する助手
チェ・ウンジンに “これは、君の場面だよ”と、一任した.
獄に捕らえられて、死を待つ恋人の家.
身分を隠して訪問するしかない夢龍は、複雑な心境を表現しなければならない、簡単ではない場面.
3回程のテイクで監督がOKサインを出したが,
チェ・ウンジンは自分は納得できないと言い張って、結局また撮った.
今はもう、あらゆるスタッフがパンソリのリズムで仕事をしている.
そうこうしているうちに、終わりが迫っている.
夢龍が過去を振り返る場面を考証した、成均館
ユン・ヨビン儀礼部長は“この
映画は、林權澤が見た春香伝”と話した.
春香伝は、両班の良い姿と教養,
常民の毒舌と諧謔が交合しながら絶えず変わってきたし,
新しい千年の劈頭に林權澤という老監督の手によって、もう一つの異本(註:原本を再解釈したもの)が誕生したのである.
この新版 春香伝は、他の版本とは違い,
世界人の評価を受けることになる. <春香傳>は、前例のない、新しいパンソリを作りだしているのだ.
この製作記は、演出部 カン・ギョンファ氏の口述を土台に, 林權澤
監督の回顧とその他の資料を見て整理したものです.
文 ホ・ムンヨン・デザイン クォン・ウンヨン 記者
copyright(c)2000 The Internet Hankyoreh
webmast@news.hani.co.kr
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