(写真/<北京飯店>)
何日か前、食べ物の映画二編を同時に見て、一人で非常に笑ったのを思い出す.
その理由が チャジャンミョン(註:ジャージャー麺.韓国では日本でのラーメンなみにポピュラー)を素材所在にした韓国映画
<北京飯店>と、ラーメンを素材にした日本映画 <たんぽぽ>が、韓国と日本という二文化の差をあまりにもよく反映していると思った.
文化とは、結局日常で派生する行為等の昇華だと見る時、食べるという行為は、既に一つの‘文化的
パフォーマンス’の始発点になるはずだ.
それなら、チャジャンミョンとラーメン.
この二つのどんぶりに含まれた、他の種類の麺のように、韓国と日本はどれくらい遠くて近いか?
料理を芸術に昇華しようという、たんぽぽ
日本映画 <たんぽぽ>は、たんぽぽという名前の女主人公が偶然に出会ったカウボーイハットを被った男の助けで最高のラーメンを作るまでの過程を描いたコメデイだ.
韓国映画 <北京飯店>の場合も同じように、伝統‘チャジャンミョン’に固執する社長と、キャラメルと化学調味料を合わせて軽い口当りにしようという厨房長の対決,
そして社長が中風で倒れると、彼の遺志を敬って全国で最もおいしいチャジャンミョンを作りだそうという従業員たちの努力がたんぽぽと似ている.
(写真/<たんぽぽ>)
しかし、<たんぽぽ>の初めの場面は、ラーメンを作ることでなく、ラーメンを食べる方法で始まる.
ラーメンに習熟した老人は、ラーメンの視覚的美しさと香りを鑑賞した後,
箸でその表面を撫でて愛情を表現し,
はなはだしきは、こっそり隠されていた豚肉を右に隠した後,
“すぐにまた見つけるさ”という挨拶をしろと弟子に教える.
多少戯画化しているこの場面は、チャジャンミョンが出されれば、すぐさま口の中へほうり込んで味わうのに熱中する
<北京飯店>の客たちとは全く違う.
それほど日本の人々はささいなことでも几帳面な過程を踏んで、これを一つの道理と礼法にすることによって、美しさの境地を感じているようだ.
もんぺと着物の差のように、私たちにとって重要なのは、容易に腹がいっぱいになっておいしいということ,
すなわちチャジャンミョンの機能である.
その上、<たんぽぽ>のたんぽぽが最高のスープと麺を作るのに全身全霊を傾ける反面,
<北京飯店>の従業員たちは最高のチャジャンを作ろうとする.
日本料理は、各素材が独立性を維持していて、それぞれの味が料理をした後にも本来の特徴を維持していなければならないという点で‘名詞的’といえる.
反面、チャジャンミョンはチャジャンという場を求心点に、各種材料が入り乱れて統一されたうまみを出すという点で、はるかに‘動詞的’だ.
このように、日本文化の核心は、既存のものを入り乱れないようにする、並列的な保存と整理にあるならば,
反面、私たちの文化は、外来文化でも本来の性質を私たちのものとして変容する創造性と包括性にある.
このような側面では、当然我が国の職人にとっては、短い時間で多くのことをやり遂げる瞬発力と融通性が随一の徳性になるしかない.
このような点は <北京飯店>でもそのまま現われる.
中国から来た新参料理士ヤン・ハング(キム・ソグン)は‘北京飯店’の社長が倒れた後,
あらゆる失敗をしながらも短期間内に中国料理の手並みを熟練させる.
このような新米の、突然の職人への変貌は、映画 <たんぽぽ>では想像さえできない.
最終的には瞬発力, 新米から職人に
チャジャンミョンとラーメンという、庶民の食べ物の一つだけを見ても、韓国と日本はそれほど違う.
しかし、一つ忘れてはならないことがある. 映画 <たんぽぽ>で、たんぽぽがまず最初に受けた訓練は、ラーメンを作る方法ではなく,
客に接する態度であった.
手の平ほどのその店で、たんぽぽは最後までお客さんから目を離さずに,
お客さんが言う注文をみな暗記する訓練を受ける. <北京飯店>にはないけれど、<たんぽぽ>にはあること,
それは恐らく、創造性については便泌水準(註:行き詰っている?)だが、まだまだ米国を脅かす唯一の
国, 日本の力ではないかと思う.
シム・ヨンソプ/ 映画評論家
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ハンギョレ21 1999年 05月 27日 第259号 .
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