日本大衆音楽家 春日
カン・サネと手を取合った東洋の‘エリック クランプトン’…
東西の音楽を混ぜ合わせたい
彼が口を開くと‘面白い’という言葉が次々に飛び出始めた.
“面白くなければならないでしょう”
“面白くないことはできないです” “ああ, それは面白いですね”
“面白く生きるべきですよ”……
生が面白くなければ生きられないという彼は、一緒にいる人たちにも‘面白さ’に向かって燃え上がる、その気持ちを伝染させる妙な能力があった.
カスガ "ハッチ" ヒロフミ(春日博文).
‘ヒロブミ’と発音する人々に、彼は “ヒブミではないです.
ヒロフミ”だとびっくりして飛び上がった. 伊藤博文が植民地
韓国に残した痛みを彼が知っていているかは聞かなかった.
白髪が入り交じった長い髪をしっかりと一つに縛った彼は“私はいつも‘私が
韓国人だったなら’と考えます”と話した.
“日本より韓国が気楽です”とも.
一日 6〜7時間ずつかけて身につけた農楽
(写真/‘カン・サネと予備軍’と共に.
彼は最近、彼らとの作業のために、1年のうち数ケ月は韓国で過ごす.)

私たちの大衆音楽のなかで、しばしば‘ハッチおじさん’と呼ばれる彼は、今年四十四になったギタリストだ.
長く才能に恵まれた素早い指が印象的な彼は‘東洋のエリック
クランプトン’と呼ばれる程持って生まれた音楽の手並みを自慢する演奏家兼作曲家だ.
東京にあるドラタヌレコード代表として,
世界を飛び廻って、気持ちの合う音楽人と同じ舞台に立ったりレコーディング作業をする自由人として、彼は持って生まれたコスモポリタンのように見えた.
そのような彼が韓国を自分の家のように出入りするようになったのは、‘サムルノリ’に惚れぬいたためだ.
彼は13年前、日本で金ドクス サムルノリ
の音を聞いて衝撃を受けた.
“85年に東京公演に来たサムルノリに会いました.
その前までは焼き肉とキムチしか知らなかった.
韓国がどこにあって,
植民地の歴史とはなにかなど、全く知らなかったのです.
ところが、一晩ケンガリ(註:鉦)とチャング(註:長鼓)
の音に酔うと、すぐに 韓国に行くべきだと思いました.
李グァンス先生の音は今でも忘れることが出来ないですよ.
小さな灰皿のような真ちゅう一つを叩いて、そこからどのようにして天地を揺るがすような音が起きているのか知りたくなりました.”
東京にチャングを教える所があって、そこを探して行って習った. 1年たち、チャングのばちを握ると、韓国に行きたい熱望がより強烈になった.
知り合いのピョンテクで暮らす崔ウンジャン先生を紹介された.
“君は、一ケ月でチャングを壊してしまう”という言葉に、前後の見境なく、87年、韓国に出てきた.
崔先生の家に入り、一日 6〜7時間ずつ、農楽を身につけた.
農村生活の中に生きている農楽を学んでいるので,
劇場の舞台に閉じ込められているサムルノリが、調味料をふりかけた食堂の食べ物のようにひどくまずかった.
“私が集中することで呼び出す、その ‘ビート’ですよ.
人のからだを揺るがす鼓動というものです.
言わば、血を沸き出させる脈,
足の裏から脳天まで揺るがす振動であるのです.
。ピョンテクに行って、一つの村,
一つの労働共同体が生きていく中で大事に保管している、その血脈を見たのです.
それに比較すれば、金をもらって舞台
上で叩いても、ちょっと面白味がないですよ.”
彼と話をしてみれば、彼が日本の人だということを忘れてしまう.
日本語を翻訳したような日本語的な韓国語を角張って発音する日本の人々と彼は違う.
正しく習った韓国語に、韓国を愛す心が大きいためのようだった.
韓国酒を好んで飲んで, 韓国タバコを楽しく吸って,
他の人々が“韓国人のようです”と話せば “わははは”
笑いをさく烈させる彼は“前世は韓国人だったのかもしれない”と言う.
“韓国にもっと留まりたかったが、ビザの問題が解決できなかった.
ピョンテクを離れながら、その問題を解く方法を研究しましたよ.
どうせなら、心を揺るがした韓国の音をより知るために韓国語を学ぶことに決めました.”
延世大韓国語学堂に入って、1年程勉強した.
いろいろな分野で仕事をする友人と交わるようになって,
その色々な縁で知り合った人が、歌手 カン・サネ氏だ. 彼が最近、1年に数ケ月ずつ韓国に出てくる理由が彼と行う作業のためだ.
カン・サネ 3集 アルバム <ピッタギ>と 4集 <ヨンオ>
製作に音楽監督として参加して,
いまは‘カン・サネと予備軍’に‘招集’されてライブ舞台に立っている彼は、私たちの大衆音楽界が聞けば耳の痛いことを愛情混ざった声でさらけ出した.
“はじめはひどく驚きました.
この国は、まったく計画ということがなかったのですよ.
公演やアルバム製作でも、数日の間で全て片づけますよ.
少なくとも、1年程の時間をかけて共に仕事をする人々の間で意見を交わしながら煮詰めていく日本とはあまりにも風土が違って、初めはちょっとうろたえていましたよ.
次の公演場所へ向かいながら、携帯電話で公演が開かれるか確認するのを見て、たいへん驚きました.
ライブのステージでは、楽器の調律が正しくされているのか試す時間さえ与えられなくて,
楽屋控え室があるか, 雨が降れば頭を覆う天井があるか,
とても心配しました.
もちろん、いまはその‘韓国的な’慣行にある程度慣れて、また、それは人間味にあふれたやり方なのだと思います.”
彼は元来、ドラマーであった.
彼がギターを弾きながらも、打楽器の事に気をとられるのは、10代の時期に音楽を始めて血を沸かせた打楽器に対した本能のためだ.
ロック音楽を聞いて、そして彼は韓国サムルノリとアフリカの太鼓の音を愛す.
カン・サネのアルバムで打楽器が魅力を発散しているのはハッチの力だ.
“60年代後半、日本を巻きこんだ‘スクールバンド’を結成してドラマーとして出発しました.
その頃から仕事をしたという記憶がないですよ.
面白く遊んだという記憶だけです.
収入が底をついて、ひどい貧乏が身についたのか,
あれば食べて、なければ食べない. それが気楽だった.
その代わりに、どこでも、おもしろいチームがあれば走って行き、一緒に演奏して遊びました.
それで大満足ですよ.”
92年、日本で開かれた韓国・日本演出家会議の時、在日同胞音楽家たちと作った‘東京ビビンパクラブ’も‘おもしろくて’何年かを楽しく走りまわった.
彼が演奏する現場に行った人々は、彼がどれくらい音楽を楽しんでいるか、すぐに分かる.
ステージを支配する美しい40代,
民族と国境を超えて、あの良い音楽を抱いて踊る、このおじさんギタリストは日本大衆音楽開放などの韓国・日本関係と同じ政治色のある単語はやめて、胸の中の深い所にある純粋な‘音楽’の話をしようといった.
“何故、西洋音楽を模倣するのか”
“私が見るのに、韓国の人々は日本の人々よりもはるかに音楽性が飛び抜けていて、音楽を楽しむことができます.
韓国でも日本でも、みな西洋音楽を模倣して、ついて行こうと忙しいけれど、それはやめた方がいいですね.
興味が沸いておもしろい韓国伝統音楽を、やむを得ず受け入れた西洋音楽と混ぜたら、とてもおもしろいです….
西洋音楽をする人はチャングをしらず、また、チャングをよく打つ人は西洋音楽を知らないから.”
彼は好きなあらゆる音楽をかき混ぜて、自身だけの音楽を作ってみたいという.
人間が機械に合わせる音楽は、今後何年も続くわけがなく、コンピュータ音楽に飽きればまた人の呼吸が生きている音楽に帰ってくるが、その時、韓国伝統音楽は可能性が多い音楽だと評した.
“人々のからだの内に入っていき、彼らが話すように,
歩くようにする音楽を演奏したいですよ.
私が出す音を聞いて、人々が喜べば、良いことではないでしょうか.
ぼくの音楽は‘面白く生きよう’と叫ぶ、ぼくの内面の伝達手段なのです.”
写真 パク・スンファ記者
ハンギョレ21 1998年 12月 24日 第238号 .
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