2013年9月ハンギョレ21 979号

最も低い所, この世にまたとない広間

[2013.09.30 第979号]

[私達が知らなかった近所-B トンジャ洞]
私が受けた助けを、他の人に戻したくさせるトンジャ洞広間


≫ トンジャ洞広間事務室前には常に住民たちが集まる.広間の掲示板には、ある教会の‘チャジャンミョン宣教会’が何月何日にチャジャンミョンを炊き出しするという告知もあった.


トンジャ洞広間(代表 キム・チャンヒョン) 以前にもこのような団体はなかったし, トンジャ洞広間以後にもこのような団体はない.
社会団体は多いけれど, 最も低い所に入っていって巣を作り、住民の支持を得て活動する団体はないということだ.
ソウルにはトンジャ洞の他にも、南大門・永登浦などの一帯にバラック村がある.
パク・ウォンソン ソウル市長は初めての現場訪問で永登浦のバラック村を訪ねたこともある.

トンジャ洞広間は2008年2月、部屋のひとつに看板をかけて住民共同体事業を始めた.
オム・ビョンチョン 前代表が分かち合いの家で活動して、バラック村の住民と縁を結んだことが土台になった.


60年間住んだ92歳のおばあさんと72歳の娘

トンジャ洞は、朝鮮戦争後から貧しい者たちがバラック村をなして暮らした.
貧しい日雇い労働者が仕事を求めやすくて, 各地に移動しやすい点が背景になった.
2011年5月に発行された<バラック新聞>にはトンジャ洞一帯で最も古くなったバラック部屋の話がある.
元来日本人所有のゴム工場だったが、バラックに改造されたそこでは、母娘が60年以上住んでいた.
当時92歳のおばあさんと72歳の娘は“当時ここが空いていたから無条件に入って住んだよ”と振り返った.
彼らは“区役所からは危険だから出て行けと手紙がくる”ながらも“息子の家に行ってもよく眠れなかったけど、よく知っているここだけはぐっすり眠ることができます”と話した.
このように形成されたバラック部屋は丈夫な生命力を受け継いできた.

今でもフアム洞方向への斜面道を上がって、40〜50年は経つ建物が目が細かいバラック部屋として残っている.
トンジャ洞広間は受給権者でありながらも権利をよく知らない住民たちに需給を受けるように手助けした.
ともすれば、犯罪嫌疑者を探すという名分で町内を嗅ぎまわる公権力の人権侵害にも対立した.
おかげで、住民たちの人権意識は以前より高まった.

トンジャ洞広間で会った30代男性は、“以前は野宿をしていたのですが, 社会団体の助けで自活勤労働き口も得て、野宿から抜け出せるようになりました”と話した.
ホームレスのための行動などで助けを得た彼は“トンジャ洞で暮らしながら、私が受けた助けを他の人に戻したい”と話した.

しばしば墜落として見なされるバラック部屋入居が、誰かとってはこのように幸運のひとつとして記憶される.
韓国保健社会研究員が2011年に発表した実態調査に基づけば, バラック村住民の38.7%は野宿生活を経験していた.

トンジャ洞広間は住民の便宜のための事を行う.
村共同体の台所を開けて、台所が特にない住民たちの不便を減らしてあげる.
その台所には、500ウォンだけ払えば食べることができるご飯が準備されている. おかずは自分で調理して食べればいい.
トンジャ洞では考えより多様な行事が繰り広げられていて, 火曜日には公園で映画が上映されて運動の集いも開く.


毎月5千ウォン以上出せば貸出可能な協同組合

トンジャ洞広間が共に作った広間村共済協同組合は住民の信頼の中に落ち着いた.
2010年3月, いくつかの住民が共済協同組合設立の意義をまとめた.
住民たち自ら出資金を出して組合を作ろうと決議した.
同じ年の4月15日、25名の推進委員は出資金を集め始め, 住民に事業の意義を知らせて、その種子を集めるために推進委員たちが廃品収集にたった.
熱心に古物を拾う姿を見せながら住民の支持を得た.
このように集めたお金で父の日の祭りを繰り広げた.
食事の仕度をする都合がつかずにうどんで済ませたが, この日の行事は村祭りの開始になった.

このように模範を見せると出資金が集まり始めて、2011年3月、組合がスタートした.
組合員は毎月1万ウォンずつ出資して数ヶ月が過ぎれば貸出が可能だ.
銀行貸出がほとんど不可能な住民たちにとっては貸出金は命綱のようなお金だ.
2013年7月までで組合員は360人, 出資金は6800余万ウォンに達する.
償還率は72%, 組合は予想を跳び越えて丈夫に維持されている.


文 シン・ユン・ドンウク記者 syuk@hani.co.kr

写真 タク・ギヒョン選任記者 khtak@hani.co.kr