2013年1月ハンギョレ21 943号

クムファさんは泣かない

[2013.01.07 第943号] [企画連載]

クムファさんは 泣かない

韓国男性と離婚したが, 娘と一緒に暮らす夢を育てて韓国を離れられない中国同胞女性… 1ケ月に2度しか子供に会えないけれど希望を失わない理由を聞く 韓国で結婚と離婚, そして、生.


今冬、初雪の予報がある日, 京畿道龍仁の小さな喫茶店で彼女に会った.
彼女は注文したカプチーノが出てくると、泡が消えるまでコーヒーを混ぜた.
中国の名前をそのまま持ってきた韓国名 はハン・クムファ.
三十五歳の彼女は中国・牡丹江出身の朝鮮族だ.
クムファさんの韓国語は不慣れという感じよりは、どこかの地方の訛りに似た感じだった.
そんな彼女が韓国に来たのか.
韓国に暮らす親戚の紹介で韓国の男に会い、2005年に結婚をした.


裁判所に行ってきたら、堅く閉じられたドア


≫ 京畿道 龍仁の喫茶店で会った ハン・クムファさんは、“韓国にきて結婚には失敗したけど, 子供を産んだことは本当に良かった”と話した.
離婚の痛みを体験して暮らす結婚移住女性が少なくない.     ムジゲ提供


“結婚生活は長くはなかったですよ.
2年すこしにもならないくらい暮らして, 離婚訴訟と面接交渉権のために1年ほど戦いましたか.
その大変な時間を耐えることができたのは、娘のジニのおかげでした.
韓国に残った唯一の理由です.”

韓国に移住して結婚して苦労したが、離婚もまた大変だったのだろうか.
幼い時に父母の離婚を見ている私は、それがどれくらい泥沼の戦いなのかを知っている.
時間が過ぎても、どこかに痕跡は残る.
ただし、あまり痛くなくなって、ぼんやりとその記憶に淡々とすることができるだけだ.
彼女にとっても時間は薬だった.
いまはその話ができるようになったのだ.

“夫の優柔不断な性格と婚家の家族との葛藤で離婚まで行ったと思います.
家族は、私が自分たちに従順なことを願ったのに、そうではなかったんです.
言うべき事は言って生きてきた私の性格を快く思わなかったのです.”

韓国に金を求めて嫁にきたのではないかという雰囲気と、どこかに逃亡するのではないかと監視する目がいつも嫌だった.
クムファさんは、これに関わらずに暮しを良くして、子供をよく育てる妻, お母さんとして韓国で生きたかった.

“家庭裁判所に離婚書類を受付けてもらって帰ってきたら、玄関のドアが開かなかったんですよ. 玄関のキーを変えたのです.
たまたま中国から実家の母がきていたのですが、母に面目ないです.”

第2の生を始めた韓国の土地で、クムファさんの希望は風のように消えた.
その頃にはよちよち歩きを始めたジニと別れなければならなく, 衣類ひとつも持ち出せないまま追い出された.
韓国はもう優しい国ではなかった.
堅く閉じられたドアの前で感じた悲痛と絶望の重さがあまりにも大きかった.
子供が一番可愛い時、その愛らしい時間を共にできずに涙で送ったクムファさんの時間が悔しく迫る.


“子供を産んだことは本当に良かったです”

夫側から提示した協議離婚に応じた場合、中国に追放になり、ジニに会うのがより一層難しいということを直感した.
韓国人と結婚する外国人は婚姻届を出して2年が過ぎて韓国国籍を取得するのだが、その前までは‘国民の就学ビザ(F2)’を持って外国人として住まなければならない.
また、滞留2年未満で離婚をすれば、韓国に住みたいという意志がないこと見なし、故国に送られるのが今の法律だという.
当時、クムファさんは2年にならなくて韓国国籍を取得する前だった.
家族は強制追放と国籍未取得, ジニのためにもクムファさんが折れて入ってくることを希望したもようだった.
しかし、彼女は戦って, 夫の過失に因った離婚として終止符を打った.
クムファさんは離婚訴訟をしながら難しい就学ビザの延長を受けて, 離婚後に国籍を得た.
だが、クムファさんの状況と経済力などを考慮し、養育権は夫に渡された.
離婚後、夫側がジニに会わせず、気が焦った.
それで面接交渉権を得ようとするなら、もう一度戦うしかなかった.
結果は、当然クムファさんの‘勝利’だった.

前夫は離婚後にベトナム移住女性と再婚して子供まで作った.
事実, 私は前夫がクムファさんより年齢も若くて言葉も正しく話せないベトナム女性と再婚をしたということにすこし驚いた.
父親が新しく設けた家庭が7歳のジニに馴染めなくないか.
クムファさんのように肩身の狭い生活をして育つのではないかが気掛りだ.
彼女がジニを連れてきて一緒に暮らす日をあきらめない理由を知ったようだった.

体ひとつで追い出されたクムファさんは、京畿道 水原移住民センターの助けを受けて、似た境遇の移住女性たちがいる施設で1ヶ月程生活した.
韓国にきて知り合った中国の女性がなんの 条件も無しでお金を貸してくれて, そのお金で訴訟を始めた.
そして、食べて生きることが大変で、すぐに働かなければならなかった.
韓国はお金があってこそ生きられる国であった.
そのようにして働いた電話機会社で、いまは5年次正規職社員になった.
その日も徹夜勤務を終えて帰ってきて、疲れているだろうに、クムファさんの顔には微笑が戻った.
インタビューの終始、彼女が生に対してとても肯定的で明るい人だということが感じられた.
情が深くて、人を好きな彼女であった.

“韓国にきて結婚には失敗したけど、子供を産んだことは本当に良かったです. ジニには月に2度程会うのでうが、それもかまわないです.
1年1年が少しずつよくなっています.
私もいつかはより大きい新しい出発をしなければ.”

親権と養育権をあきらめた状態と1ケ月に2度という限定された時間に子供に会うことにも、それで満足だという言葉に胸が冷えた.
毎日のように抱いてあげても息子は常時愛おしさの対象なのに、‘2度’という数字に縛られているということが、言わなくても大変なことだと考えられる.
ジニと会う日にはすべてのお母さんのようにおいしい食事をして, ショッピングをして, 映画を見て、楽しい時間を送る.
クムファさんが差し出した携帯電話にはジニが明るく笑っていた.
大変な時間を頑張ることができるようにしたもっとも大きい力ではないだろうか! 難しくて悩まされる経済事情にあってもジニの保険を欠かさずに維持したクムファさんの努力がとても有難かった.


これから, 幸福な日だけが残った

2歳の息子を育てている私は、たびたび育児に関する困難を友人に訴えたりした.
子供が私を困らせたのではなく, 育児に閉じ込められて自由になにも出来ない境遇が苦しいというのが、もっとも大きな理由だった.
世の中にいなかった子供を産んで育てるのは当然難しい事なのに、われ知らずだしぬけに溜息が出た.
私がどれくらい贅沢な愚痴を吐きながら暮らしてきたのか、クムファさんに会った後感じるようになり、同じお母さんとして恥ずかしかった.
毎日目を合わせて、笑って、触ることができる息子が常に傍らにいるということだけでも感謝したことだった.
ジニのためにすべきことがまだ多いというクムファさん、生に対する熱情は誰より強かった.
クムファさんが離婚の傷で汚された韓国でより大きくて新しい夢に向けて走って行っているのが見えた.
これから, 幸福な日だけが残った.
水原へ戻る道, 雪が降った.
その雪を眺めて、いつか彼女にまた会ったら、カプチーノ一杯を必らず注文しようと考えた.
話すようにコーヒーを飲んだ彼女が気にかかった.
近くの喫茶店でカプチーノの泡と香りをしっかりと感じて、今日よりずっと明るい明日を思ってみたくなった.


キル・ウンシク 主婦・ダサン人権センター 会員