2012年5月ハンギョレ21 911号

脱原発と核武装を共に叫ぶ右派

[2012.05.21 第911号] [クォン・ヒョクテのもう一つの日本]

右翼 教科書‘新歴会’初代会長, 天皇制擁護知識人などの‘脱原発’転向 むしろ天皇制を呼び入れて相変らず核武装望む右派の脱原発論理

2012年5月5日は、日本の歴史で意味深い日として記憶されるはずだ.
原発がすべて稼動を止め、初めて‘原発のない世の中’になったためだ.
もちろん定期点検のための措置なのに加え、中央政府も再稼働に固執しているので, 地域民の顔色をうかがっている地方自治体首長の気持ちが変われば、いつでも原発が稼動を再開する状態に置かれていることではある.
経済不況, 雇用不安, 電力不足を根拠に、原発の再稼働を主張する企業と政府側の反撃も強まるはずだ.
それで、‘原発のない世の中’はいつまで持続することができるか、大言壮語出来ないのが現実だ.

だが、1年前の原発事故といまだに続いている放射性物質の拡散を思い起こせば, 事故後1年後に訪れた‘原発のない世の中’は、むしろ時遅しという感がなくはない.


原発廃棄のために日章旗容認する左派

1960年代以来痕跡をなくしていた大衆の抗議行動が福島以後、あちらこちらで起きている.
時には1万名を超える抗議デモもあり, 若い層の自発的なデモ参加者も過去より明確に増えた.
だが、大衆の熱気が目につくだけの政治的変化をもたらしたのではない.
日本のある知識人は福島原発事故で、既存のあらゆるパラダイムに革命的変化が起きると予想したが、少なくとも政治領域ではほとんど変化がなかった.
事故当時執権与党だった民主党は相変らず執権与党で, 福島原発事故から約1ケ月後にあった地方選挙でも原発問題は争点になられないのみだけでなく、はなはだしきは原発支持候補が当選することもあった.

それなら何の変化もなかっただろうか?

昨年、日本のある言論人と対話をしたことがある.
原発廃棄のための集会に日の丸(日章旗)を掲げて参加した右派の問題が日本で論争の的になった時だ.
彼は福島事故で自身の世界観が変わったことを強調した.
彼はその時までの進歩的世界観を一旦‘留保’して、あらゆる力量を原発廃棄に注がなければならないと話した.
‘黒い猫でも、白い猫でも、ネズミをよく狩ればいい’であるから、右派でも左派でも、原発廃棄のためには力を合わせるべきだというのだ.
彼は元来日章旗とナショナリズムに対して否定的な考えを持った人だ.
ところが、福島事故以後、原発廃棄のための大衆の抗議運動に日の丸が助けになるなら、これを厭う理由がないという考えに変わったのである.
敢えて言わば、原発廃棄のための統一戦線構築の必要性としてなのか? でなければ、原発廃棄のためにならば、ナショナリズムも容認できるという意味であるのだろうか?
それほど、福島以後の日本社会の危機感がどれくらい大きくなったのかを知る大きな課題だ.

考えてみれば, 右派が原発廃棄を主張する集会に参加して, 左派が原発廃棄のために日章旗を容認する現状が福島以後に現れたパラダイムの変化かもしれない.

冷戦解体以前には、日本で通用する保守・革新の区分法があった.
政治地形上でみればはるかにより複雑な構図があるけれど、概して米−日安保条約及び自衛隊の解体を主張して現行憲法を支持する側を革新というならば, これに反対する側を保守とした.
しかも、もう一つの区分法がまさに原発問題であった.
概して原発廃棄を主張する側が革新陣営であったし, 原発支持を主張する側が保守陣営だった.
もちろん、この構図が絶対ではなかった.
だが、平均的な感覚ではこういう区分法が作動していたのは事実だ.
したがって、原発反対集会に参加した右派団体等の行動は、このような境界を跳び越えることだった.
福島以後現れた保守右派の‘転向’といえるのだろうか?


神が降りた祝福の地のために

もちろん、このような‘転向’は保守右派に一般的な現状ではないようだ.
大衆文化出版社で有名な小学館が発行する<ニュース ポスト セブン>が、昨年8月、興味深い記事を載せた.
保守右派知識人26人を対象に、原発問題に対して意見を求めたところ,‘無条件継続’は4人,‘条件付き継続’は17人,‘将来廃棄’が1人,‘どちら側でもない’が4人出た.
もちろん、26人が日本の保守派を代表するとは言えないうえに、保守という概念も必ずしも明確なものではないから、この結果だけをもって保守派の原発に対する態度をすべて判断できない.
だが、26人中に‘原発継続’を主張する人が21名で、‘廃棄’を主張する人が1人に過ぎないから, 上で述べた保守・革新の区分法は相変らず有効だと見られる.

ところが、印象的なことは、この設問に参加していない有名保守右派知識人の中に福島以後、公開的に原発廃棄を主張する人が現れたということだ.
そのうちでも目につく人物は西尾幹二だ.
右派修正主義教科書団体である‘新しい歴史教科書を作る会’(新歴会)の初代会長である西尾は、昨年7月発表した‘脱原発、これこそ国家永続の道’という文を通して原発賛成から原発反対に‘転向’することを宣言した.
彼が言うことはとても単純だ.
福島事故で原発がどれくらい危険かを悟ったから、先祖から譲り受けた‘神の降りた祝福受けた豊穰なこの国’を原発が汚染させてはならないということだ.
だが、同時に彼はかくも言う.
戦後、日本社会は伝統を忘れて自身を否定して無防備状態で福島の災難を予想できなくて迎えた.
すなわち、福島事故は‘戦争 (可能性)を意識できずに襲撃された’格好だ.
それなら、今後予想される外賊(たぶん中国や北朝鮮)の侵略も予想できずに無防備状態で迎える可能性が大きい.
したがって、原発を推進する代わりに憲法を改正して軍事的に充実した対策を建てなければならないと.
彼が言いたいことは、原発自体というよりは、福島事故を契機に広まっている日本社会の無力感を軍事大国の道に導くための教訓として定めようということだ.

竹田恒泰慶応大学教授の脱原発論は、はるかにより復古的だ.
皇族出身らしく彼は、原発は“神聖な国土を汚して日本人の自然観にも合わない”と‘神の国’日本に溶け合わないのみだけでなく、“天皇陛下の心琴を泣かせることであるから反対”しなければならないと話す.
そして、日本人の精神は“社会的弱者の生命”を惜しむことであるから、多数の原発労働者を放射線に露出させる原発産業は廃棄しなければならないと話す.
“社会的弱者の生命”を重視することが日本人の精神だとは、国家主義者の便宜的な‘精神論’を見るようで後味がすっきりしないが, 重要なことは、脱原発のために日本の伝統と天皇制を呼び出しているという 事実であろう.
したがって、彼らの脱原発論は平和主義ではなく軍事主義で, 生態主義ではなく復古的ナショナリズムに近い.


脱原発がむしろ核武装の助けになる

ところが、彼らの脱原発主張がそのまま反核を主張することではない点に注意を注がなければならない.
事実、右派はかなり以前から日本の核武装を主張してきた.
福島事故以後にも原発を継続増設しなければならないと主張する右派は、核兵器開発のための原料確保に原発が有利だという根拠を出した.
再処理施設を通して核兵器の原料であるプルトニウムを安定的に確保することができるためだ.
代表的右派論客である桜井よしこは“核を作る技術は強い外交につながる.
原発技術は軍事的に重要な意味をもつ”としながら、原発廃棄が核武装の技術的・原料的基盤の崩壊につながることを憂慮する.
東京知事である極右派政治家 石原慎太郎も同じ観点を取っている.
それなら、脱原発を主張する右派はどうだろうか? <戦争論>という漫画を描いた代表的な国家主義者 小林よしのりは脱原発を主張して同時に核武装も主張する.
前で例に上げた竹田恒泰は原発が核武装に有利だという既存右派等の見解を論駁して、むしろ脱原発が核武装の障害物にならないことを力説する.
日本は大量の核兵器を開発できる多量のプルトニウムを確保しているので、核兵器開発に必要な原料には全く問題がないし, したがって核兵器開発には原料を提供してくれる原発ではなく、技術力と国家の意志が重要だと話す.
すなわち、右派の脱原発論は平和主義的反核論とは違い、生態主義的観点でもない.
復古主義的ナショナリズムと核武装論の変形だ.
したがって、右派の脱原発論は厳密に言えば、思想的‘転向’ではなく、日本を軍事的に大国化しようという戦略に合せた‘戦術’である場合もある.
それなら、右派の‘戦術’を戦術的に利用して原発廃棄の動きに‘黒い猫と白い猫’を皆結集させようという脱原発を主張する革新陣営の試みをどのように理解しなければならないだろうか?

福島以後, 日本社会に広まった実際の危機感を理解できないわけではない.
地震と津波があって、富士山噴火の可能性が現実として迫ったという分析も出てきた.
小説と映画に登場した<日本沈没>までではなくとも、福島事故で日本社会が崖ぶちに追い込まれたという危機意識が風船のようにふくんでいることもまた事実だ.
だが、脱原発を主張する橋下大阪知事のようなファシストが大衆の熱狂的な人気を博して日本社会を変えることができる‘白馬に乗って来た超人’として現実を動かすようになれば, そして、脱原発を主張しながら核武装を叫ぶ右派の声を聞くようになれば,‘迎合して脱原発’が持つもう一つの危険性を考えざるをえなくなる.


日本の‘選択ではない選択’に対する姿勢

原発不感症にかかり、福島を‘海の彼方の火’とだけ見ている韓国社会では‘原発のない世の中’に突入した日本社会の‘選択ではない選択’はうらやましく見えると言える.
明確にそうだ.
原発の‘担保’から抜け出せないのみだけでなく、その自覚さえない韓国社会に日本の選択があたえる意味は大きい.
だが、同時にその‘選択ではない選択’に識別された、複雑で微妙なナショナリズムの‘再構成’を保守右派の‘転向’を通して読みだすこともまた忘れてはならない.
福島とその以後は、原発問題であり、また同時に日本問題でもあるためだ.


クォン・ヒョクテ
聖公会大 日本学科 教授