2011年7月ハンギョレ21 868号

根こそぎ抜かれた人々

  [2011.07.11 第868号] [世界]

ソ・ギョンシク教授の福島原発事故現場ルポ… 利潤追求と欲望が表わした巨大な人災で生の根拠地を失った住民たち

省察的文章を書くことによって韓国社会に多くの響きを投げかけてきたソ・ギョンシク東京経済大教授が、最近、福島原発事故現場を見て感じた点を<ハンギョレ>に送ってくれたので、これを掲載します._編集者

≫去る5月10日、日本福島原発放射能流出事故で避難して身を守った川内村の住民たちが防護服姿で'一時帰宅'のためのバスに向かっている.連合 AFP

3月11日に大地震が発生して100日が過ぎたが、福島第1原発事故は皆目収拾される兆しが見えない.
事故発生後2ケ月が過ぎて、ついに東京電力は‘メルトダウン’を認めたが、今、事態はより一層悪化し、原子炉の底が溶けて穴があけられることによって核燃料が地べたに落ちる‘メルトスルー’状態になったという.
福島原発はこれから破局の直前で綱渡りを する局面だ.


政治も‘メルトスルー’した日本

それでも、去る6月18日、海江田経済産業相は、点検のために稼動中断中である原発は安全だと宣言して再稼働を要請する方針だと明かした.
菅直人総理もこの方針を承認した.
私はこのニュースを福島県のホテルで聞いた. 日本では原発だけでなく、政治も‘メルトスルー’したようだ.
去る6月16日から四日間福島に行ってきた.
教育テレビの<心の時代>という番組に出演することになり、取材と撮影のためにスタッフと同行した..6月16日, 大学で講義を終えた後、郡山に向かい, 夜8時に到着した.
夜の通りは瞬間的に平穏に見えた.
自転車に乗って家へ帰る女子高生たちが目について, 耳に聞こえるその子たちの話声は明るくさえあった.
3月12日、家を訪れた韓国の客と共に食事をしたが、テレビで原発水素爆発映像を見た.
破局的事態の到来を告げるニュースだったが、その日以後、すぐに私の生活に大きい変化はなかった.
変わったのは‘現実感’だった.
周辺の風景が奇妙な程鮮やかに見えていたのに、なんだか模造品のようで、私が見ている現実が非現実的に感じられた.
現実と非現実がひっくり返った感じ.
郡山の通りで女子高生たちの姿を見た瞬間も、またそのような感じが強くよみがえった.

≫ 日本警察が去る4月21日、福島県 原発 半径20kmにいる南相馬市に立入禁止の看板を置いて車両を統制している.連合AFP

ホテルに荷物を下ろして、スタッフと一緒にご飯を食べに行った.
‘焼肉 ホルモン’という看板を掲げた店に入った.
まだ30代に見える若い店の主人に話しかけると、仕事の手を休めてて答えた.
彼は在日3世だった.
郡山で生まれ育ち、東京の朝鮮大学校を卒業した後、一時朝鮮学校の教師をしたが、何年か前からこの食堂を運営している.
“原発事故の影響は?” と聞くと、原発作業関係者が食事をしに来るので商売は悪くないと多少思いがけない話をした.
だが、彼にはまだ小学校入学前の子供2人があるので, 子供たちだけでも放射線量が少ない所に避難させたいと真摯な表情で話した.

翌日, 私たちは郡山から飯舘村を経て、南相馬へ向かった.
飯舘村は放射線量が高く、‘計画的避難地域’に指定されている.
村を貫通する道路は車が行き来していたが、家々は人の気配無しで静かだった.
道から見える田畑は何も手付かずで、そのままにされていた.
放射線のために、今年の農作業を断念したのである.
南相馬市に入っていくと、ひとり, 田の雑草を刈っている人が目についた.
近づいて話をしてみたら、清水という75歳の農夫であった.
そのまま気を落としてばかりはいられなくて、雑草刈りをしているという.
可能なかぎり放射線被爆を避けるため、野外作業は一日1時間だけするという原則を定めたとも.
“放っておけば、あのようになってしまうから”彼が指した近くの畑には雑草が繁茂していた.
“わびしくて”と彼が言葉を吐きだした.
“いつもなら、今頃は田のカエルの声が騒がしくて夜に寝ることができない位だったはず.今年は田に水がなくてカエルも鳴かない. わびしくて.”


非情な力に抵抗する人々

南相馬に入って、佐々木たかし先生を訪ねた.
先生はスペイン思想研究者だ.
何年か前、東京の大学を退職し、母の故郷であるこちらに移って暮らしていた.
先生が暮らす地域は原発から半径0〜30kmにある.
‘緊急時避難準備地域’だ.
いつでも避難して身を守ることができるように準備しておけということだ.
原発事故発生直後、この地域住民の多数が せわしく避難を行ったが、佐々木先生は心を決めてそのまま残った.
今後もそこを離れないと宣言した.
政府は原発から画一的な同心円を描いて危険地域を指定したが, 実際には、この地域の放射線量は郡山や福島より低いらしい.
政治権力の官僚的指示にそのまましたがって右往左往したくない.
危険や不便を覚悟しても、自身の尊厳と自由を守りたい.
これが佐々木先生の考えだ.
彼は認知症を病む妻と一緒に暮らしている.
右往左往すれば妻の病気がより悪化するのではないかという心配も、彼が動かない理由のひとつだ.
妻という存在のおかげに‘魂の重心’を確実に握ることができたと彼は話した.
佐々木先生は初対面である私に笑顔で対してくれた.
2階の書斉は壁いっぱいにコンピュータとテレビ, 電気釜, 電気ポットなどが乱雑に置かれていて, 低い椅子に座った認知症を病む妻が聞き取れない言葉をぶつぶつつぶやきていた.
佐々木先生は妻の手を少しの間も放さないまま,“いつも共にいます.
散歩する時も, 眠る時も.
記憶というのは、ひとりがなくしても、もうひとりが持っていれば問題ないですよ. なんの不自由もありません”と笑った.

≫ 4月19日、福島原発から20km程離れた地点の田で韓国-日本市民調査団が放射能濃度を測定してみると、20.96マイクロシーベルトを記録した.
これは年間被爆線量の200倍に該当する数値だ.
原発事業を推進してきた自民党所属候補の選挙広報の立て札が立っている.
チェ・イェヨン 提供


佐々木先生は北海道生まれであるが, 後に一家が満州に移住した.
父親は満州国の官吏だったが、戦争が終わる前に早く世を去った.
“父は現地人を匪賊といって追い出すことをしたようですが、晩年には自身がしたことに大きい疑問をいだくようになったようです”と先生は話した.
未亡人になった彼の母は、幼い息子を抱いて日本へ戻って、故郷である南相馬に住みかを定めた.
東北から北海道に, また、満州へ行ったが, 敗戦後にはまた帰国する等、佐々木一家が歩んできた軌跡は、対外膨脹を繰り返してきた日本近代史の軌跡と重なる.
その後裔である彼が人生の詰めに、病んだ妻と一緒に定着しようとしていた土地から根を抜かれる境遇になった.
大多数の人々は好むと好まざるにかかわらず、職業, 息子たちの学校, 隣人や友との交わり, 土地と家などという小さな契約関係などの網の中に位置を占めて、一定の土地に‘根’をおろして生きている.
それは、郷土愛や愛国心のようなものと時に混同されることもあるけれど、本来は違うものである.
この土地や国を愛してここにいるのとは違う.
ここに生活の基本的根拠があるために、ここにいようとするものだ.
戦争や災害などの外部的力でその‘根’が抜かれるのは、そのままま生活の基盤自体を破壊されることであり, 難民になることだ.
何も植えることはなくても雑草を刈る農夫も, 認知症を病む妻も,‘座り込み’する老学者も,‘根’を抜こうとする非情な力に抵抗しているのだ.


原発を守ろうと住民の接近を防ぐ政府

佐々木先生のお宅を出て、国道6号線を追って南下すると、まもなく警察が設置した封鎖線が現れた.
日が沈んでだんだん暗くなる道路上に警察車両の赤色灯などが騒がしく投げかけられていた.
福島第1原発から20km, 立入禁止区域の境界だ.
道路は自衛隊と警察の緊急車両が頻繁に行き来していた.
車に乗った人々は皆しっかりとマスクをしていた.
入っていけない道路の先には、まさにその瞬間にも放射能をばら撒き続ける原発があった.
若い警官が私たちに近寄ってきて、私たちの身分と来た目的などを問い質した..神奈川県警から派遣されて、24時間交代で勤務しているという.
若い警官たちはいったい何から何を守るのか? 一般人が危険地域に入っていき被爆するのを防ぐというのが公式的説明だ.
だが、その地域は本来住民たちが‘根’をおろしていた土地だ.
視角をかえれば、原発を推進してきた政府と企業が人間から原発を守っているとも言えるだろう.
今回の原発災害は、当初‘想定外の天災’だと言われたが、いまは人災だったことが明白になった.
原発災害を“核という統制不可能なこととの戦争”に比喩した人もあるが, それは正確な言葉ではない.
これは‘天’や‘自然’が人間に加えた暴力ではない.
ある種の人間が利潤追求と潜在的軍事力に向けた欲望のために、他の人間の‘根’を破壊した事件だ.

翌日、私たちは郡山市郊外の朝鮮初・中級学校を訪ねた.
去る40年間をこの学校と一緒に生きてきたという理事長は在日2世で, 庶民的な人物だった.
彼は放射線測定機で毎日放射線量を詳細に測定して記録していた.
測定機は一般学校なら文部省が貸与してくれるが, 朝鮮学校はその対象から除外されている.
日本政府が学校教育法上の正式学校として認めないためだ.
各種行政情報も朝鮮学校には伝えてくれない.
朝鮮学校では保護者の希望によって、子供たちの被爆放射線量をすこしでも減らそう と、新潟の朝鮮学校に子供たちを逃避させている.
子供たちは新潟で寄宿舎生活をして、2週間に一度週末にだけ郡山の保護者と再会しに帰ってくるそうだ.
そのような生活を続ける場合、資金や精神 面で無理がある.
今後どのようにするのか、まだ何も決定できなかった.
その日、久しぶりに父母と再会しようと, 校長が運転するワゴン車で新潟から子供たちが帰ってきた.
出迎えにきたお母さんたちは室外では放射線に露出するのが恐ろしくて、急いで子供を連れて行った.
あるお母さんが話した.
聞いてみると、そのお母さんは在日朝鮮人ではなく、韓国からきた人だった.
夫が日本の人だった.
いわき市で災難にあったという.
その日、一夜だけ父母と子供が共に送って、日曜日の午後にはまた子供達が新潟に戻らなければならない.
お母さんは韓国人, 父は日本人, 子供は韓国・日本二重国籍だ.
何故朝鮮学校に入学させることにしたのか? その理由を, お母さんはシンプルに“韓国語を習わせたくて”と言った.
シンプルだけれど、穏当な心ではないか.父も積極的にその選択に同意したという.
その穏当な心の母子に要求される代価は不当に高い.
日本では朝鮮学校を危険視する沒利害と偏見がある.
進学や就職面で不利だ.
公的教育支援も少なく、保護者の学費負担が大きい.
韓国でも南北分断が続いていて、朝鮮学校を危険視する視線が多いだろう.


事故現場にも相変わらずな朝鮮学校差別

サッカーを好きだというこの子には、これからどんな人生が待っているか? それを想像すると私の胸は率直に言うと重い.
日本ははやくから朝鮮を植民地支配した国だ.
日本の国民の多数はその歴史を知らなかったり無関心だ.
そのような国で、子供は日本人と朝鮮人という父母間で生まれた子供として生きていくことになった.
彼が通う朝鮮学校は、日本社会から敵と見なされたり、少なくとも警戒対象だ.
その上彼は‘福島の子供’として生きていかなければならない.
広島, 長崎の被爆者たちが今でも苦痛を受けている社会的差別に今後も継続して露出されるはずだ.
地震直後から声を高く叫ぶ‘日本はひとつ’‘日本は強い国’というスローガンはどれほど空虚で自己中心的であることか.

福島滞留最後の日, 私は萱浜海岸へ行ってみた.
まだ古くは見えない大きな老人ホームが津波に直撃されて完全に破壊されていた.
泥水の波が窓と壁をぶち抜いて天井まで届いた痕跡が残っていた.
老人たちが何名ここで命を失ったのだろうか.
仏教の100日忌祭のためか、死んだ彼らに捧げた花束が残っていた.
そこから海岸へ行く何kmかの道には、真黒な建物の残骸だけが限りなく積まれていた.


“こんなことがあったのか, ありえたのか….”(原 民喜)

小説家 原 民喜は広島で原子爆弾と遭遇した後、燃えてしまった野原のような道をさまよって目に見える惨状を‘夏の花’という作品に込めた.
しかし、その作品の技術は独特だ.
目に見えることが皆‘超現実主義’のようだったためだ.
現実と非現実がひっくり返って, 非現実こそ真実という事実が続々と現れたのである.
何kmも建物の残骸がつながる萱浜海岸で私はその原 民喜を思い起こした.
太平洋の荒い波が海岸を殴っていた.
25km程南の方に福島第1原発がある.
海に流れた放射性物質は、以後も永らくはっきりと人間と自然環境を威嚇するはずだ.
海や空には境界がない.
放射線被害は地球上のあらゆる人間に及ぼされるはずだ.
そのぞっとする未知の危険に対しては‘アレルギー’や‘ヒステリー’こそが似合う反応ではないだろうか.
だが、日本政府も企業も, そして愚かでも数多くの市民も、すでに危険や不安から目をそむけている.
続けて警告を発する証人たちは孤立し、疲労して絶望に陥る.
原 民喜は朝鮮戦争が真っさかりである時、トルーマン米国大統領が核兵器使用を検討しているという報道に接して自殺した.
また、どれほど多くの原 民喜が死へと追いやられるだろうか?.


福島(日本)=ソ・ギョンシク 東京経済大 教授翻訳 ハン・スンドン 論説委員