2010年3月ハンギョレ21 802号

無料フォン・無償提供紙, 無料ではありませんよ

[2010.03.19 第802号]

[キム・チャンホのお金の人文学]

時々現実を偽装する数字化されたお金… 数学的合理性は重要だが、数字自体に対する執着は誤謬につながる

去るバンクーバー冬季オリンピックでイ・サンファ選手は女子500mスピードスケートでドイツ選手を0.05秒抜いて金メダルを占めた.
0.05秒! その時間は私たちは日常ではほとんど意識出来ない.
言葉そのまま、瞬く間に, いや、それよりはるかに短い瞬間に起きる動作の変化を肉眼で分別することはほとんど不可能だ.
運動競技では超精密計測装置のおかげでその差を正確に判読できる.
そのような意味で、スポーツは科学の発達と共に進展されてきたという話になる.

≫ 数字化されたお金は、意味と価値を伝達するのに有用だが, たびたび現実を偽装して反映する. 無料フォンを可能にする通信社のマーケティング費用は、結局消費者が出した通信料金から出たお金だ. 無償提供紙もまた、主収益源である広告費の源泉は消費者が払った物の値段だ.
二つとも真の無料ではないという話だ. (左側から)ハンギョレ イ・ジョンア<ハンギョレ21> リュ・ウジョン記者


お金が絶対的価値を担保するという漠然とした信頼


近代科学の核心には数学がある.
“自然は数学という本で書いてある”と語ったガリレオ・ガリレイから, “私達が信じている真実の中から数学的正義を抜いたら、絶対的なことはない”と話した<コスモス>の著者 カール・セイガンに達するまで、科学者たちは数学をモデルとして事物を把握してきた.
科学の領域でだけではない.
科学が支配する時代に、数字はあちらこちらで強大な力を発揮する.
国家政策や専門家の討論で、統計資料は確実な根拠とみなされる.
日常の対話でも、各種数値を時折挿入すれば、なぜか有識だと見られて説得力がいっそう高まる.
考えてみればアラビア数字はアルファベットよりも普遍的な文字だ.
“私たちの子供が今回一等になりました.” この一言で息子の自慢は完成する.
“韓国はまったく憂鬱になるよ.” そう話す代わりに自殺率を比較すると明確になる.
私達が数字を最も多く使うのは、やはりお金と関連したことだ.
物やサービスの価値を正す時、金額を提示すればすぐ計られる.
人の能力は彼が受ける月給や年俸で簡単に比較される.
そして、自身が居住するマンションの坪数と価格は、そのままま幸福の等級として見なされる.
ところが、果してお金で現れる数字は本質をどれくらい反映しているのだろうか? 経済学には‘貨幣幻想’(money illusion)という概念がある. 額面価を購買力や価値として同一視する錯覚をいう.
それで、インフレのために実質賃金は落ちても名目賃金がそのまま維持されれば労働者はそれほど抵抗しない.
例えば、物価が5%上がる時に賃金が2%上がる状況, そして物価が2%上がる時に賃金はそのままである状況があるとしよう.
合理的に計算すれば、労働者にとっては前者より後者が得なのであるが, 実際には前者の場合をより一層好むということだ.
お金が絶対的な価値を担保にしていると漠然と信じるためだ.
インフレ以外に勤務与件も考慮できるだろう.
例えば、月給が5%上がったのに夜勤が増えて、結局10%より長時間働くことになったら, 月給はむしろ減ったわけだ.
しかし、勤労時間をそのままにして月給を3%減らされるより、はるかによいと考える.
時間は容易に換算できる重要な役割だが, 労働の質はどのように計ることができるだろうか.
例えば、全く同じ月給を受けているけれど.遂行する業務があまりに難しくなったり、上司や同僚との不協和音でストレスをたくさん受けるようになったとすれば、月給は実際に削られたわけだ.
月給はそのままなのであるが、仕事に対するやりがいが大きくなって自己啓発も併行できるようになったとすれば、報酬は増えたと見るべきだ.
だが、大部分の労働者はそのようには考えない.


価額上昇には敏感, 大きさ縮小には鈍感

貨幣幻想と似た錯視現象は、私たちの経済行為でたくさん発見される.
物価も一事例になることができる.
市中に出ているチョコレートは、去る20余年間価格が変わらなかった.
ところが、チョコレートを好む人々が明確に感じることだが, 一年過ぎるとその大きさが小さくなる.
最近の商品を見れば、同じ会社とブランドの製品なのであるが、10年前に比べてほとんど4分の3程度に減っているようだ.
事実上価格が上がったのと同じだ.
だが、政府が調べる物価動向には捕えられない.
もちろん、消費者はチョコレートを買う時、値段が上がったことを体験するが, 量がそのままで価格が上がる場合よりは鈍感なのが事実だ.
製菓会社は消費者のそのような弱点をよくわかって利用する.
チョコレートの場合にはその大きさが目ですぐ確認されるために、それでも消費者が損害をこうむると感じることができる.
賃金計算からインフレや勤労時間と同じように、価格計算で商品の体積も量的な次元の問題であるために、その対応関係を容易に識別できる.
ところが、質的な次元へ行けば難しさが生まれる.
サービス業の例を見てみよう.
ある食堂の料理価格はそのままなのであるが、おかずの質が下がり、従業員が不親切になり、食事空間が狭苦しくて不便になった.
非常に忙しく生きていく生活の中で、そのような微細な差を感知しながらも損益を確かめることは容易ではない.
しかし、この場合も実際には料理価格が上がったことと同じだと見るべきだ.
消費者が代価を払うにも、それがかくされた状況が非常に多い.
携帯電話販売場ごとに‘無料フォン’と書かれていたが, 嘘だ.
通信社が昨年マーケティング費として使用したお金が何と8兆6千億ウォンだというのだが, そのうちの相当部分が顧客争奪のための無料フォン提供に入っていた.
それも、結局は通信料金に反映されて消費者が支給した.
もちろん、あらゆる消費者がまんべんなく負担するのではない.
そのなかでも不平等が発生する.
ある会社に永らく充実な顧客は損害をこうむる反面, 周期的に通信社を移しながら番号移動にともなう恩恵だけ享受する‘憎らしい顧客’は利益を見るものだ.

地下鉄で朝出勤の交通便に大量配布されるタブロイド判新聞を‘無償提供紙’と呼ぶのだが, これまた厳密に言えば無料ではない.
消費者が直接お金を出さないだけで, その新聞の収入源である広告料を結局は消費者が該当商品を買う時に出すことであるのだ.

≫ 政府支出を増やすほどGDPは上がる. 生産性が落ちて環境を破壊する大規模土木工事に税金を投下するのも同じだ. GDPもまた経済規模と成長の正確な測定手段ではないという話だ. 4大河川事業 栄山江区間工事の様子.
<ハンギョレ21>ユン・ウンシク記者


それでも無償提供紙はその代価として新聞を得ることができて, また、広告はどの媒体でも出すことであるからそうだとしよう.
広告とは違って、消費者になんの恩恵も戻らないのに間接費用がたくさん使われる商品がある.
医薬品がそれだ.
韓国の製薬会社は売上げの40%にもなるお金を営業費として支出する.
研究開発費は5%にすぎない.
処方箋に自分の会社の薬を使ってくれと頼むために、医者達の海外研修などの色々な‘賛助’をしようと使われるお金なのであるが, これまた結局は患者が負担するものだ.
そのような方法で確かめれば、隠れている費用をあちらこちらでさがすことができる.


GDPも現実と数字の乖離現象が見えて


企業の会計帳簿にも常時陷穽がかくれている.
一時、米国で最も革新的なモデルとして脚光を浴びて‘7大企業’の班列にまで上がった 巨大エネルギー企業 エンロンは、この2001年に突然没落することになったのは、数字のトリックが明るみになりながらだった.
エンロンは会計帳簿にいくつかの費用を記載しないことで損失を隠して, 幽霊会社を作って不良分を受け渡した.
企業主に‘粉飾会計’の誘惑は常時かくれるようだ.
あげくの果て、2009年にインド版エンロン事件が起きた.
インド屈指のソフトウェア業者であるセティアムの会長は、去る数年間、会社利益と資産水準を大きく膨らませて報告してきたとさらけ出した.
帳簿に書かれた資産12億ドル中の何と94%が偽りで作成されたということだ.
このように明白な詐欺や意図的に操作したことがないにせよ、現実と数字間の乖離は色々な形態で存在する.

環境専門シンクタンク‘ワールドウォッチ’を率いるレスター・ブラウン博士は、“いわゆる‘市場の失敗’はニューヨークのウォールストリートでなく, 化石燃料を基盤とする私たちの文明自体から始まる”と説破する.
市場価格に‘真実’は含まれていないというのがその核心だ.
すなわち, 各種石油製品や肉の市場価格には環境破壊の間接費用が反映されていないということだ.
‘無料昼食’はないのに, いつか行なう費用を隠して正当な価格より安く供給されていたら、資源が枯渇し、過剰開発される.
市場が誤った‘信号’を送るために、わたしたちは石油を過消費するようになる.
ブラウン博士によれば, これは“必ず計算しなければならない費用を帳簿に記載しない”という点でエンロンスキャンダルとそっくりだ.
このような点で最近登場した‘社会的会計’という二者択一システムを凝視するに値する.
‘社会的会計’を主張する彼らは、既存会計情報が企業経営人と投資者のためにだけ生産されるという点に限界があることを指摘する.
社会全体のための会計情報が作られるべきだということだ.
ウィリアム・カップなどの先駆者が1950年代から問題を提起したのだが, 企業は労働者の生と環境と共同体などに費用を転嫁させながら利潤を得ているが、結局は社会の損失を誘発するという点を強調している.
二者択一会計ではそのような費用がどんな方法にも反映されて、包括的費用がわかるべきだということだ.

国家が算出する各種経済指標にも弱点が多い.
例えば、しばしば国内総生産(GDP)で経済の堅実さを示すのだが, それが財貨とサービスの価値を皆表すと考えるためだ.
ところが、ノーベル経済学賞受賞者であるジョジフ・スティグリッツによれば、‘政府部門’を測定する方法が適切でないという.
例えば、政府が支出を多くすれば、その効率性と関係なしにGDPは上がることになるという.
‘経済援助’という美名の下になんの生産性もないのみだけでなく、むしろ環境を破壊する大規模土木工事に無分別に税金を注ぎ込む韓国政府が直視しなければならない大きな課題だ.


数字の裏面の真実に対する終わりのない探索を


現代社会では数字は非常に重要だ.
広範囲な社会と巨大な体制を経営しようとするなら、数学的合理性と客観性を確保しなければならない.
しかし、その数字が何を反映するのかを冷静に正さないまま、その名目にだけ執着してみるならば重大な誤謬をおかすことになる.
1997年、金泳三政府末期に国民所得1万ドルを達成するために、為替レートを850ウォンに無理に縛っておいた結果、外国為替危機を迎えたのも、その一つの例となる.
無理に伏せておくには限界がある.
‘真実’はいつか必ず表れることになる.
お金で表れる数字を絶対視しなくするには、その裏面にかくされた実体を絶えず探索しなければならない.
それは、私達が窮極的に何を願うのかについての問いでもある.
経済運営で人文学的討論と省察が要求される理由がここにある.
 

キム・チャンホ 聖公会大 教養学部 招聘教授