2009年10月ハンギョレ21 783号

デビュー30周年に最後の正規公演 ジョン・テチュン・パク・ウノク夫婦…
“数年間戦った大衆の実を誰が持っていったか”

[2009.10.30 第783号] [VS]

“ぼくの中から、これ以上歌が出てこなくて”

デビュー30周年に最後の正規公演 ジョン・テチュン・パク・ウノク夫婦…
“数年間戦った大衆の実を誰が持っていったか”

□ アン・スチャン

彼らに青春を借りた者が何人いたことか.
彼らの歌無しで青春を回顧する者がいるだろうか.
驚くなかれ、30年にわたった魂の光をとても隠すことはできない.
彼らの歌のおかげで、私の今日が新たになってきたので, どうしても震える心を抑えることはできなかった.
特別な姿を一人で受けるつもりで, 去る10月12日ソウル麻浦区のあるスタジオでふたりの歌を聞いた.
男子は白髪が増えて, 女子は頬に肉がすこしついた.
夫婦は10月27日から11月1日まで、ソウル ジョンドン 梨花女子高100周年記念館で‘ジョン・テチュン/パク・ウノク デビュー30周年公演’を開く.
練習を終えたチョン氏は、タバコから煙を吐いた.
パク氏は一回用ドリップコーヒーを出していた.
去る30年を話さなければならないのだが, その時期が手ごわい.


≫ デビュー30周年記念公演を前にして、ジョン・テチュン/パク・ウノク氏が、去る10月12日ソウル麻浦区のあるスタジオで練習をしている. 写真<ハンギョレ21>パク・スンファ記者

- タバコまで吸うのに、声が相変らずです.

ジョン・テチュン(以下 ジョン) = 歳を取れば歌手は声がより良くなります.
そして、このタバコは…, タバコの中でも風味が一番良い(彼はタール6mg, ニコチン0.6mgのタバコを吸っていた). 高等学校の時から吸ってきたのですが、最近も1箱の半分は吸います.

パク・ウノク(以下 パク) = え, 2箱以上は吸うじゃない.
でも、この人は1集の時よりも、今、声がはるかにより深くなりました. 今が一番良いようです.
<托鉢僧の明け方の歌>などを聞くと、30年過ぎても、あまりにもたいしたものですね.
そんな人が何故歌を作らないのか、切ないです(その理由はこの記事の末に出てくる).

- 何故、そんなに夫を尊敬するのですか? 平等夫婦ではないようです.

ジョン = (笑)誤って知られています. この人が度々こんな言い方をするから.
(2人の関係で) パク・ウノクさんの裁量権が大きいですよ.

パク = 妻としては理解して, ファンとしては好きで….(笑)


バイオリン専攻で音大を志望したジョン・テチュンは、浪人時期に青春の熱病をひどく病んだ.
蜜陽, 木浦, 鬱陵島, 済州島などに家出した.
兄に捕まり、京畿 平沢の故郷の家に連れ戻されて農作業をし、軍隊に行って, 軍服務の中で歌を作った.
慶尚南道 馬山で育ったパク・ウノクは幼い時から歌を歌うことが好きだった. “トイレでも一人で歌を歌いました”と、パク氏は回顧する.
歌手 チェ・ベクホの勧誘と推薦でレコード会社を訪れて, たまたまデビューアルバム録音を終えたジョン・テチュンに会った.
ジョン・テチュンはパク・ウノクに自身の曲をその場で渡した.
チョン氏は1978年, パク氏は1979年にデビューした.
2人は1980年5月、結婚した.


- デビュー直後スターになりました. 何故その道を続けて行かなかったのですか.

ジョン = 初めは賞をもらって脚光を浴びましたが(彼は1978年文化放送10代歌手歌謡祭で新人賞を受けた), その世界によく馴染めませんでした.
外でぐるぐる廻っていました.

パク = 私たち二人とも芸能界に合いませんでした(違う場所で夫婦は“<明朗運動会>のような娯楽番組に出演するのが嫌だった”と話したことがある).

- では、なぜ、わざわざ大衆歌謡を選択したのですか.

ジョン = 音大を志願したのですが、落第して浪人しました. そうこうしながら、こちら(大衆音楽)に越してきたのです.
クラシックは演奏だけするのですが, 私は人々に私の話を伝えたかった.
それで、歌を選びました.

- 直接作詞と作曲をしたのですが, 歌はどうやって作りましたか.

ジョン = 元来、歌を作る人は、それがどこであっても出てきます.
<起きなさい 烈士よ>を集会現場で書いたわけではありません. 運転しながら作ったのです.
<托鉢僧の明け方の歌>も、寺に行って作ったわけではありません. 夕立の降る夏, ソウル 仁寺洞の屋上部屋で作りました.
<北漢江で>は、予備軍動員訓練を受けにいきながら楽想を浮上させました.


ショープログラムに引きずられるのが嫌いだったジョン・テチュン/パク・ウノクは、他の道を選んだ. 1985年から3年間、全国の小劇場と野外ステージを巡回して公演した. 1989年には、スタートしたばかりの全教組を支持する全国巡演をまた開いた.
大学の露天劇場が彼らのステージになって, 労働者・農民・学生が彼らの大衆になった.

- ‘初期 ジョン・テチュン’から‘後期 ジョン・テチュン’へ転換する契機がありましたか.

≫ 公演練習を終わらせた夫婦がスタジオ前の路地をのんびり散策している.写真 <ハンギョレ21> パク・スンファS記者

ジョン = 私は大学を卒業していません. 知識人でもありません.
しかし、<実践文学>のようなものを読みながら、生や芸術の目的を探しました.
私が主流文化を何故嫌うのかがわかるようになりましたね.
それほどそのような問題が切実で, それを受け入れる準備ができていました.

パク = 初期の歌を聞くと、世の中とは関係なしに、どこかに離れたい20代青年の告白のようです.
この人については、結婚が現実へと目覚させる契機だったようです.
足を踏んで生きた世の中の変化を悩むようになったようです.


“これ以上は殺さないで, 貴方も皆死ぬだろう.”(<起きなさい 烈士よ>) “あちこち腐った水溜りをかき出して流して行こう。”(<黄土江で>) 1990年の<ああ, 大韓民国>アルバムはその絶頂だった.
民主主義, 貧困, 平和を緊迫に問い正すものだった.
夫婦は韓国公演倫理委員会のレコード審議も拒否した.
不法カセットテープは大学街と集会現場で売れた.
政府は彼を告発したが, ジョン・テチュン/パク・ウノクは違憲審判を申請し, 結局1996年レコード事前審議廃止を引き出した.
以後のあらゆる韓国歌手は夫婦に借りを負っている.


- 2002年10集アルバム以後、新しい歌がありません. 2004年の公演後には外部活動もしていません.

ジョン = 私は元来話す歌手でした.
去る5年間、その会話の門を閉じたのです. 歌も作りませんでした.
まれに小さなステージに上がっても、社会的問題に対する発言をしなかった.
商品性が強い初期の歌だけを歌いました.

パク = (初期の歌が商品性が強いという件) それは貴方の考えであって・・・.

ジョン = 新聞や放送も見なかった. 時事問題への関心を切ったのです.
龍山惨事現場にも行ってみたことはありません.
ただし、以前から <ルモンド ディプロマティク> 韓国版を購読しています.
フランスの知識人たちと共に世の中を周遊することが楽しいのです.

- 何がそんなに嫌だったのですか.

ジョン = 金大中・盧武鉉 政権時期にも辛かった人々, 絶望した人々がいました.
誰が勝利したのかという疑問が頭から離れませんでした. 大衆が何年間も戦って得た実を誰が持っていったのか.
そのような世の中に入っていくことができなかったのです. 資本の支配へと進入していました.
そこに同乗しないと決心したのです.
私はこの文明の一部ではないと自らに宣言して、この文明から離脱すると心に決めました.

パク = 自分の口では(世の中に対して)門を閉めたとか言うけど, 人にはその仕事がありますよ.

ジョン = いや, 役割論はきらいだ.
あるものをしてきたから、今はこういうものをしなければならないという話はおもしろくない.
いままで尖兵の役割をしたから、今後も前線に立てと? どんな人にも与えられた役割というものはないよ. 自分の熱情で自分を実践をするのであって.
熱情が冷めればその人が抜け出て, 新しい状況に対して新しい熱情を持った人間が必ず現れます.


1998年に出したアルバム<チョンドンジン>で、ジョン・テチュン/パク・ウノクは、また叙情の世界へ帰依するようだったが, 実は長い沈黙の開始だった.
2002年に出したアルバム<また始発を待って>は事実上の引退宣言だった.
“もしもし, 新しい世紀はどこですか. 21世紀へ行く道はどこですか.思う道はどこですか.
同志よ、私も知りません”(<オートバイ キム氏>)と歌う時, それはジョン・テチュンの真意だった.


- あまりにも潔癖症的ではありませんか.

ジョン = 私の体質がそうです. アウトサイダーで理想主義者なのです.
少しでも気に入らないと抜け出す気質を持って生まれました.
大衆歌手だったけれど, 大衆のそばにいるよりは自由で理想主義的な芸術家でいようとしました.
一時は私と似た人々に会って共にすることができたのですが, 終生そのようにしなければならないとは思いません.
その領域から抜け出して、自由に思考しながら, 非現実的でも原論的に省察できなければならないと考えます.

- 相変らず好きな人が多いのに, 大衆にあまり文句を言わない方が・・・.

ジョン = 文句ではなく、私の歌にあまり誇張した意味を附与するなということです.
大衆がジョン・テチュンの歌を相変らず好きだと? それは私に対する好意の表現かもしれませんが, 時にその好意が行き過ぎれば非難になります.
私の歌を相変らず好きなのに、何故そこまでして非難…. 私はその話に同意しませんよ.

- 一緒に休むと物足りなくなりますよ.

パク= ひとりで歌を歌いたいという考えがないわけではありませんでした.
この人がみなやめて山に入っていき、そこで住めば良いと話した時, 私は正反対でした.
育児問題から抜け出し、やっと音楽を安らかに熱心にできる時でしたから.
ただし、共にしてきたことが古く見えるのに, 一人でやる意欲がわかなかったのです.


かたくなに門を閉じていた二歌手をステージに上げたのは、長い間の‘ファン’たちだった.
昨年12月, 100余名の各界の人々が、ある食堂を借りてデビュー30周年を祝賀してくれた.
意気を集めて‘記念事業団 推進委員会’まで作った.
ダン・ビョンホ, ド・ジョンファン, イ・チョルス, イ・ウィス, ムン・ソングン, ユン・ドヒョン, キム・ジェドンなどが名前を上げた.
今回の公演はその結実だ.


- 今回の公演も無理にすることなのですか.

ジョン = 違います. お客さんを迎える感謝の心から準備しています.
ただし、話は多くはしないでしょう. メッセージやストーリーを込めることもしません.

パク = デビュー以後からいままでの歌を集めて20曲程度歌う計画です.

- 公演以後、活動に変化はありますか.

ジョン = ありません.
いままでそうであったように、ずーっと….

パク = この人は断言を多くするのです. 人の事をどれほど知っているのか.
ある感じが自分にぐっと入ってきて、また歌を作ることができるでしょう.

ジョン = 私にとって、歌はものすごく重要でした. 私を表現して実践する道具だったのです.
歌をまた始めるのならば、それだけの理由がなければ.
いいかげんに下手に始めて放棄することができることではありません.

- 歌を作って歌えば、少なくとも自身にとっての慰めになることができませんか.

ジョン = 私の中から歌が出てきません.
歌が出てくるのにわざわざ抑圧するのではなく、単に出てこない.
これ以上、出てきません.


彼の歌の中に<私たちの死>という曲がある.
“共稼ぎ零細庶民夫婦が外で仕事をしている間, 地下の貸間で遊んでいた幼い子供たちが火事になっても外に出られなくて窒息して亡くなった….” 長い朗唱の後に歌がつながる.
“若い父は夜明けに働きに行き、お母さんもお金を稼ごうと家政婦に行って.
…小さい窓の太陽の光もか細いわたしたちは終日横になって天井だけを眺める.
…後ろの階段には誰一人訪ねて来ないけど、泥棒や強盗が来るかも.
…部屋のドアは必ず開くことなく、真っ白い煙が部屋の中に溢れてもわたしたちはお互い抱き合って涙だけ流した….”
記者はまだその歌に次ぐ記事を読めなかった.
書かれていなかったのだ.
それでも、彼らは歌をそこまでにするという.

今回が最後の正規公演だという.
10月27日から11月1日まで.
公演 問い合わせは 02-3272-2334

アン・スチャン記者 ahn@hani.co.kr