2007年11月ハンギョレ21 684号

正祖がもう10年生きたなら

2007年11月08日 第684号

正祖がもう10年生きたなら
出版・ドラマで‘悲運の王’シンドローム… 時代状況で似たせつなさを感じるのだろうか


いまや、正祖の時代だ.
200余年前、突然死を迎えた朝鮮の王は書店やTV画面で華麗に復活した.
人々は彼の試練に顔を歪め, 彼の敵に憤怒し, 彼が迎えた突然の死に胸を痛める.
人々は何故正祖に歓呼するのか.
正祖の痕跡が残っているソウル昌徳宮後苑の姿を見回して, 彼の一生を扱ったドラマの撮影現場を見てみた.

□ 文 キル・ユンヒョン記者 charisma@hani.co.kr
□ 写真 ユン・ウンシク記者
yws@hani.co.kr

昌徳宮 楽善斎を右にかすめて過ぎて、北に道をとる.
コンクリートで包まれた低い丘を上がると, 広い蓮池とその周辺に楼閣が並んでいる.
蓮池の名前は‘芙蓉池’で, その北方に位置した美しい2階建楼閣の名前は‘宙合楼’だ.
厳密に言うと宙合楼は、その楼閣の2階を呼んだ名前で, 建物が自らの機能を発揮している時の1階の名前は‘奎章閣’だ.

△昌徳宮にある蓮池 芙蓉池の向こうに楼閣 宙合楼と奎章閣の姿が見える.整然としている正祖の文字を見るようだ.


児童図書までが“正祖暗殺を防げ”

奎章閣が‘奎章閣(註:王の文書保管庫)’であったのは、それが 正祖の奎章閣だったためだ.
1999年、<私たちの宮廷の話>を書いたホン・スンミン 明智大教授は、“正祖は王の文章や王室の族譜, 物品を保管していた小さな書庫だった奎章閣を国内外図書を多数所蔵する王立図書館にした”と話した.
若い人材がそこで文書を読んで整理し、今後王と共に作っていく未来を準備した.
その人材が育つことによって、奎章閣は図書館から研究所に, 研究所から王の秘書室と政策開発室と監査室と出版所としての機能が順次拡張された.
奎章閣は正祖の奎章閣であったし, そうであるために正祖の死と共に事実上死滅し, 世人の記憶から忘れられた.

王の華麗な帰還だろうか?
2007年秋, 大韓民国大衆が最も愛するようになった文化アイコンは、207年前に亡くなった朝鮮22代国王‘正祖’(1752〜1800)だ.
市中に出てきた正祖関連文化コンテンツはあまりにも多くて、いちいち名前を選ぶのが難しい程だ.
文化放送では9月17日から正祖を主人公と定めたドラマ<イサン>を放映中で, 死に至るまで正祖の余生を描いた韓国放送の8部作ミニシリーズ<漢城別曲-正>は去る7月に好評のうちに放送を終わらせた.
ケーブル放送CGVでは‘正祖暗殺ミステリー’<8日>を11月17日から放送する予定だ.
本では、ソウル主要書店のベストセラー上位ランクに上った作家 イ・サンガクの<イサン 正祖大王:朝鮮のイノベーター>と小説家 キム・タクファンの正祖時代3部作が目につく.
児童図書市場で大人気を得た‘ノ・ビンソンシリーズ’は、韓国史側に目を向けたが, その最初の主人公は他でもない正祖だ.
本のタイトル<ノ・ビンソン, 正祖大王の暗殺を防げ>は、正祖に対する大衆の心理を素朴にあらわすという点で、最近まき起こった‘正祖シンドローム’の画竜点睛と呼ぶに値する.

悲運の君主正祖を最も早く呼び出したのは、小説家イ・インファだった.
彼は1993年に書いた<永遠の帝国>で老論との勢力争いに押されて死を迎えることになる‘正祖像’を創造した.
彼の小説はベストセラーになって映画も作られたが, 大衆は正祖に対して今のような熱狂的な反応を見せてはいない.
去る15年間、韓国社会にどのようなことが行われたのだろうか.
その間、韓国社会が体験した変化を評価する最も適合する単語は恐らく‘惜しみ’だろう.
1993年以後、韓国社会は外国為替危機を体験し, 政権交替をなし, 政権交替をなしたその進歩・改革勢力が10年間韓国社会を引っ張ってきた.
しかし、貧富格差は相変らずで, 非正規職は差別を受けていて, 若者達は‘20対80の社会’(註:上位の20%が大部分の富を享有し、残りの80%は不完全な雇用状態で辛うじて生計を維持している不平等社会)で‘88万ウォン世代(註:韓国の労働者の3分の1は契約社員で、20代の契約社員の平均月収が88万ウォン-日本円で約10万円.本のタイトルから)’として暮らすことを強要されている.


正祖, ノ・ムヒョンが見る夢?

△正祖は肖像画を三度描いたが残っていないので、今伝わっているのは水原出身 イ・ギルボム画伯が描いた想像画だ.

正祖とその父 思悼世子に関していろいろな文章を残した歴史学者 イ・ドクイルは“正祖を見る人々の視線にも、彼と類似の惜しみがある”と話した.
“正祖は悲運の王だ. 人々の心理中に正祖が10年だけでももっと生きたのなら、私達の歴史が変わっていないだろうかという悔恨がある.”
正祖がもう少し王位にとどまっていたとすれば、彼が育てた 丁若, 李家煥 等の斬新な思考を持った者たちが政丞(註:大臣)や判書(註:長官)の席に上がることができ, 彼らが正祖の改革を 終わりまで押し進めることができただろうという話だ.

歴史に対する行き過ぎた単純化であっても,‘高句麗が三国を統一したとするなら’よりはもう少し皮膚感のある話だ.

ところで、ノ・ムヒョン大統領の支持者は、ノ・ムヒョンの改革を正祖の改革と関連付けたり, 正祖に行き過ぎた感情移入をすることもある.
<漢城別曲-正>で正祖を演技したタレント アン・ネサン氏は、“<漢城別曲>でノ・ムヒョン大統領をすごく好きになったし, わたしの演技を通して人々がその痛みの部分を理解すればよいのではないかと思った”と話した.

それなら、正祖が夢見たのは、どんな世の中であったのだろうか.
芙蓉亭に向けて足取りを移し始めよう.
蓮池とその周辺には正祖が胸深く埋めておいた統治哲学が含まれている.
正祖は1776年3月10日、慶喜宮にて即位した.
即位して3ケ月後に正祖が下した命令は“昌徳宮後苑に奎章閣と附属建物を建てなさい”ということだった. 王位に上がって3ケ月後に下した命令だけに、世孫の時期から準備して苦心してきたことであるのは間違いない.

芙蓉亭は台石上に四角を組み合わせた形に造成, 内部は丸い島として作った.
‘空は丸くて土地は四角い’という伝統的な宇宙観を表現したのである.
芙蓉亭をまわって宙合楼に上がる階段を遮る門の名前は‘魚水門’だ. ここでは、水は王, 魚は臣下を意味する.
魚が水の外では生きられないように, 臣下は王の意のなかで生きるという正祖の哲学が含まれている.
彼は王が中心になって為民政治を繰り広げる朝鮮の啓蒙君主になろうとした.
魚水門から眺めた宙合楼は王の権威を象徴するかのように高い.
臣下たちは王が通る魚水門を使用することができず、その脇にある側門を通って腰をかがめて出入りしなければならなかった.

正祖のイサンは当時の世界を支配していた老論(註:儒学を基本とする政治派閥のひとつ)の世界と両立出来なかった.
正祖の治世は暗殺の企みで始まる.
王位に上がって1年をすこし過ぎた1777年7月28日, 正祖は普段のように寝所が作られた慶喜宮ジョンヒョン閣で本を読んでいたが、護衛軍士を点検しようと出てみたら誰もいなかった.
宮殿に刺客が侵入したのだ.

<正祖実録>は当時の急迫した状況を“突然聞こえた足音が宝章門東北側から回廊に沿って響きわたり, 御座の近くまで来て瓦の破片を投げたり石を投げて騒ぐ声をどのようにも形容出来なかった”と書いた.
彼を暗殺しようとした人々は思悼世子を死に至らせた洪氏の者たちだった.
刺客たちが正祖を襲撃した慶喜宮ジョンヒョン閣は、既に取り壊されて痕跡さえ見つけることができない. 建物の前には正祖がめでたいと称賛したナツメひと株が立っていた.


過度に独善的ではなかったか


△書店街を飾ったのは新しい文化アイコンとして浮び上がった正祖だ.
正祖の名を連ねた様々な本がベストセラー目録に上った.

後苑側にすこし前に出る.
芙蓉亭を過ぎて5分ほど歩くと、韓半島を逆さに模ったようなバンド停が姿をあらわす.
バンド停の一番北の端には‘尊徳停’と名づけられたあずまやがある.
その中に自らを‘萬川名月主人翁’と呼んだ正祖の文が残っている.
萬川名月主人翁とは、‘数多くの川を照らす月のような王’という意味だ.
無数の小川が月の光を受けて光っているが、月はひとつで, その月はまさに正祖自身であり、臣下と国民は小川にすぎないということだ.
見る視角によって違うだろうが, 正祖の態度は当時の基準でも過度に独善的ではなかったかという気がする.
世の中を支配していた老論の目にそのような正祖の姿が負担として感じられていた.


歴史は反復するのだろうか.

<朝鮮日報>記者イ・ハンウは2007年10月に出した<正祖, 朝鮮の魂が散る>で、“正祖は主体のヴィジョンと強力な意志を早くから持っていたが、準備が緻密でなく, 自身を後押しする現実勢力もまた強力ではなかった”と書いた.
イ・ハンウの正祖批判はそのまま<朝鮮日報>のノ・ムヒョン大統領批判のパロディのように感じる.
ハン・ギホ韓国出版マーケティング研究所長は18世紀に注目する.
正祖の18世紀は、朝鮮だけでなく全世界史的に激動期であった.
正祖が即位した年の1776年、米国が英国から独立し, 英国ではアダム・スミスが<国富論>を書いた.
その頃、朝鮮を覆っていた‘朱子学’という唯一の信仰体系に亀裂が生まれ始めた.
当代エリートである南人と北学派は清から入ってくる新しい文物に魅了されて, その新しい思想の力を借りて世の中を改造しようとしたのだ.
正祖の臣下たちは聡明で当代最高の知識人たちだった.
ハン所長は、“一時代が過ぎて違う世代に進入する18世紀の文化激動期と今の姿が大いに似ている”と話した.

正祖の改革はどのようになったのか.
彼の死後に彼が繰り広げた改革措置は祖母のジョンスン皇后により徹底的に無力化された.
奎章閣は名前だけが残り, 天主教と西学に対する途方もない逼迫が一度に押し寄せた.
小説家キム・フンは<自転車旅行>二巻目で“(残った人々は)異端と代役が治める現状に押さえ込まれて欝死したり、刀で斬り殺されたりして, その死体は道に捨てられた”と書いた.
丁若繧フような一部の臣下たちは生き残って遠くへ流配され多くの著述を残した.

正祖が生まれた所は昌慶宮の景春殿, 亡くなった所は昌慶宮の迎春軒だ.
二楼閣どちらも燃えて、いまは本来の姿ではない.再建された姿で残っている.
正祖が死んだ日は陽光が暗くなり、三角山が鳴り、楊州などの良産地でよく育っていた稲が白く枯れてしまったという.

正祖が毒殺されたのかどうかは明らかでない.
彼がもう10年生きたなら、我が国の姿がどのように変わっていたかわからない.