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[ シン・ヒョンジュンの楽士列伝 ] 2004年1月 第492号
[チェ・イチョルと彼の同僚たち(2)] より多くの‘愛と平和’のために

殺伐な環境で、唯一志操を守った最強のロックグループ, いまはちりじりも散在しながら種をばら撒く
マリファナ波紋後、‘グループサウンド’の姿はそんなに見栄えがよくなかった.
他でもない、‘ポンチャック’を歌ったためだ.
今考えるならば、殺伐とした劣悪な環境のなかで、生存のために苦闘したことであるので、寛大に評価することができるだろうが,
当時の若い音楽ファンたちは‘容認出来ない’ ことだと考えたのが事実だ.
このように‘韓国ロックの第1世代’たちが活動を停止されたり、‘食べて生きるために’歌謡界に適応した時点で、唯一‘志操’を守った存在が'愛と平和'だった.
チェ・イチョルをはじめとする‘愛と平和’のメンバーは、1970年代末のディスコ熱風の中でもロックの自尊心を守った.
ナイトクラブで‘最高位’
何回かのメンバー交替があったが、‘ソウルナグネ’から‘愛と平和’につながるラインアップ, チェ・イチョル(ギター),
キム・ミョンゴン(キーボード、サキソホン), イ・ナミ(ベース), イ・チョルホ(パーカッション),
キム・テフン(ドラム)のラインアップは、歴代最強だと言っても遜色がなかった.
当時、‘ジャズロック’と呼ばれた,
今の‘ファンキー’(funky)や‘フュージョン’(fusion)の直系の先祖だと言える音楽は、ディスコ旋風に耐える程に強靭だった.
ディスコテークが登場し、バンドがライブで演奏する空間が萎縮する状況でも、愛と平和の音楽はこれを克服した.
最近のチェ・イチョル氏.
愛と平和のラインアップで目につくのは,‘働くために’イタリアから来たサルボ(Sarvo)がベースを担当したという点だ.
羅美(註:ナミ)の<永遠の友人>を作曲したフランコ・ロマノのグループメンバーだったサルバは、スラップ(別名‘チョッパー’)というベースの先進奏法を上手に駆使しながら、愛と平和の音楽に大きな刺激を与えた.
結局、愛と平和はナイトクラブで最高のギャラを受けとる存在になった.
1977〜78年頃、彼らが演奏したパシフィックホテル(退渓路)のナイトクラブステージに行ってみた人は、‘半分くらいの人がフロアで踊って,
余り半分はステージの下で集中しながら演奏をみつめている’光景を記憶しているはずだ.
すなわち, その場は、踊りに来たが、音楽を鑑賞して行くところであった.
愛と平和は‘ナイトステージの高手’として留まっただけではなく、‘歌謡界’でも落ち着いた.
イ・ジャンヒが作曲した<バラ>をファンキーなスタイルで編曲した音楽で、サヌリム, ファルチュロ,
ブラックテトラなど‘アマチュアグループ’の全盛期に‘職業的グループ’としてはほとんど唯一大衆的人気と若年層の支持をどちらも獲得した.
また、ヒット曲はイ・ジャンヒの作品だったが、チェ・イチョルとキム・ミョンゴンの自作曲何曲かがレコードに収録されて、1980年代以後の状況を予告した.
また、<運命> <女王蜂の行進> <エリーゼのために> <アヴェマリア>などのクラシックを編曲したのと、<祝祭> <ソルパラム>
<セキレイ>などの創作演奏曲は、今聞いても驚くべき音楽的センスで一杯だ.
2集からイ・ナミの代わりにベースを弾くソン・ホンソブのも見逃せない大きな存在だ.
愛と平和
<3集:泣きたいよ/母さんの子守歌>(地球レコード.JLS1202154.1988), 愛と平和
<4集:風が吹いて/シャンプーの女帝>(オアシス,OL2974.1989), 愛と平和
<5集:できなくてもいい/幻想>(ニューソウルレコード,NSRS-DF01.1992), 愛と平和 <7集:The Endless
Legend>(ドレミ,DRMCD-1904.2003), ユーラシアの朝 <ユーラシアの朝)(ユーラシアの朝,CEA0261.2002)
それから試練が差し迫った.
1980年8月、‘第2次マリファナ波紋’で活動停止を余儀なくされた後、メンバーはちりじりに散在したのだ.
イ・ナミが“離れてみればわかるだろう”と叫んだ<泣きたいよ>を作曲したのがこの頃だった.
弱り目にたたり目で、音楽人の間で最高のドラマーとして選ばれたキム・テフンは、1984年に交通事故でこの世を去った.
その後、愛と平和は‘チェ・イチョルが仕事のために集めるが散在するグループ’になった.
その渦中に、キム・グァンミン, ジョン・ウォニョン, ユ・ヒョンサン, パク・ソンシク, ジャン・ギホ などの人物がグループを通り過ぎた.
チェ・イチョルは、チョー・ヨンピルの日本公演に同行したり、
ソン・チャンシクの<煙草屋のアガシ>のレコーディングに参加し、名演奏を聞かせてくれたりもしたが、グループの黄金期は永遠に帰ってこないようだった.
2004, チェ・イチョルの最後の勝負
しかし、愛と平和は‘しばらく静かにしているが、現れる’存在になった.
1988年に帰ってきたイ・ナミの歌<泣きたいよ>が予想外のヒットを記録,
そして、1989年ジャン・ギホの歌<シャンプーの女帝>がファン・インリュイが演出した文化放送のドラマに挿入されて人気を博したことなどがつながった. ヒットを記録した主役がグループを脱退することも続いた.
その後、1990年代初めにイ・チョルホが帰ってきて、イ・ビョンイル(ドラム), アン・ジョンヒョン(キーボード),
イ・スンス(ベース)等、‘若い血’が輸血され、愛と平和は1999年まで安定的に活動しながら7枚の正規レコードを残した.
そうしながら愛と平和は、自然に‘最長寿ロックグループ’という呼称を聞くようになり,
生きているということだけでも大切な存在になった. 今でもイ・チョルホは最長寿ロックグループを率いて、特有の情熱を辞さない.
ところが、チェ・イチョルはなにか気に入らなかったようだ.
韓国を代表して‘環太平洋ロック大阪音楽祭’に出場し, ‘慶州エキスポ’の特別ステージにも参加したが、“1990年代に私はスランプに陥った”と話した.
恐らく、彼はこのような活動よりはジャズクラブ"ヤヌス"のような所で演奏する方をより好んだようだ.
韓国ロックの後輩格であるキム・ジョンソとドゥルグックァの公演でセッションマンとして演奏を引き受けたことも見栄えがよい絵ではなかった.
結局、チェ・イチョルは、1999年、愛と平和を忽然と脱退した.
一方、キム・ミョンゴンはうんざりするほど楽譜を描いて、スタジオで声を振り絞る等、からだを酷使したが、2001年9月に死去した.
チェ・イチョルが新しい試みをし始めたのは、過去の同僚を集めて‘ユーラシアの朝’というプロジェクトを結成しながらからだ. このプロジェクトは、自身が今まで追求してきた音楽に‘東洋音楽’をフュージョンするものだ.
すなわち, 今まで西洋音楽のトレンドを追いかけてきたこととは異なる方向に進んだのだ.
2002年にテスト版を発表して、来年春に発売されるアルバムは、彼の音楽人生最後の勝負になると見られる.
韓国の大衆音楽人にとって‘宿題’のような、‘私達のものとの接続’はどんな結果を持ってくるのかが気になる.
一方、イ・ナミは <泣きたいよ>を通して、1980年代末‘人気人’になったが、放送界の気紛れらと自己管理失敗の間でさまよった後、春川に蟄居した.
その後、小説家 イ・ウィス等、その地に居住する文化人たちと会いながら新しい刺激を受けた彼は、何年か前から自身の娘 イ・ダンピを含む地域の
音楽人と一緒に‘チョルガバンプロジェクト’というグループを作って活動している.
本人の弁は、“今まで尖端的音楽だけを追求したのだが、今は‘野暮ったい’音楽で新しい可能性をさがしたい”というであろう.
ソン・ホンソブの‘呪われた傑作’よ
最後に、愛と平和の末っ子格であるソン・ホンソブは、キム・ミョンゴンの後に続いて、編曲者として名前を轟かした後、ソングスタジオ(プロダクション)を整えて、ハン・ヨンエ,
シン・ユンチョル, ユーエンミーブルー, ピピバンド, ピピロングストッキングなどを発掘した.
これらのレコードは、大部分が‘呪われた傑作’と呼ばれているので、商業的成果を尋ねることは失礼だろう.
それでも彼は、今年の夏、Phoenixというライブクラブを開いて、疲れを知らない不死鳥の姿を見せている.
‘ヒッピー風’な名前である愛と平和.
絶頂期に集まった人物は、今はちりじりに散在したが、彼ら各自がどこかでばら撒いている種がより多くの愛と平和を産むことを希望するだけだ.
誰でも一度くらいは見たヒッピー反文化の夢が‘アメリカンドリームの一つの変種’とは違い,
韓国の文化系にも愛と平和をもたらす夢として、嵐をもう一度期待してみる.
シン・ヒョンジュン | 大衆音楽評論家
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