2003年12月ハンギョレ21 490号

[チェ・イチョルと彼の同僚たち(1)] ギター演奏者としてスターの隊列に…
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[ シン・ヒョンジュンの楽士列伝 ] 2003年12月25日 第490号

[チェ・イチョルと彼の同僚たち(1)] ギター演奏者としてスターの隊列に…
高校卒業時に演奏レコードを出したギター神童… キム・ミョンゴン  イ・ジャンヒとの運命的 出逢いで、大衆の傍らに

韓国人の中で‘不世出の歌手’という表現になじむだけの人物は? 年齢を重ねた人ならばペホを, それより若い人ならばチョー・ヨンピルを選ぶようだ.
それなら、‘不世出のギタリスト’は? 誰かが私にこのような質問を投げたら、私は断固として‘チェ・イチョル’と答えるはずだ.


写真/ギター神童 チェ・イチョルが ‘アイドル’(Idol)というグループでレコードを出した時期の姿.

中学生の時にデビュー… 米8軍ショー名前を飛ばして

右の写真(上から)
アイドル(Idol)<アイドルと共にダンスを/踊ろう>(ソンウム,DG KA-30. 1971).
ソウル旅人 <ゴーゴー生音楽1集:陽が昇る日/私の心は風船>(オアシス, OL 1785, 1975).
キム・ジュン/ソウル旅人 <口笛ハイキング/考えます>(オアシス, OL 1867, 1976).
愛と平和 <1集>(ソラボル, SRB-0009, 1978).
愛と平和 <2集:話すことができません/薔薇>(ソラボル, SRB-0023, 1979)

チェ・イチョルの名前を知らなくても ‘愛と平和(註:サラングァピョンファ)’というグループは誰でも知っているはずだ.
1999年以後、チェ・イチョルは愛と平和を離れた状態だが、20年以上チェ・イチョルという名前と愛と平和という名前は同義語であった.
敢えて言うと、愛と平和は韓国最長寿ロックバンドだ.
イ・ジャンヒが作曲した<薔薇>を通してチェ・イチョルと愛と平和が一般人に知られたのは1978〜79年のことだ.
しかし、職業的音楽人としての彼の経歴は、1960年代中・後半に遡る.
1952年生まれであるから、まだ中学生であった時だ.
言わば、彼はギターのために勉強を途中でやめた人物だ.
ここには、彼の家系に流れる‘血’が大きく作用したことだろう.
特に、彼の叔父であるチェ・サンリョンは、当代を牛耳ったジャズトランペット演奏者で, 米8軍ステージ‘サマータイムショー’で楽団場を預かった人物だ.
‘チェ・フィジュン(註:ジャズシンガー)が歌を歌った所’と言えば、どんな所なのかわかるはずだ.


時が時であるから、チェ・イチョルが流れていった所も、米8軍ステージにショー団を供給するファヤン演芸株式会社であり, 彼は米8軍ショーの‘パク・ファランショー’と‘デニスショー’でギターを演奏した.
パク・ファランといえば、ユン・ボッキと同時に‘歌う天才少女’のような存在だった.
このように米8軍ショーで‘ギター神童’という評判を聞いたチェ・イチョルは、以後、高等学校を卒業する年齢でレコードを発表する.
‘グループサウンド’界内部では実力を認められても、レコードを録音すること, それも特集を発表することには意欲を出されなかった当時としては異例なことだった.
このレコードの主人公は、ハングルでは‘アイドル’, 英語では‘Idol’として記されているが、その音楽は‘アイドル(子供たち)’とも‘アイドル(偶像)’とも違う.
160cmをすこし超えて、まだひげも生えない十代の東洋人がジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix Experience)の‘サイケデリック’とエドウィン・コリンズ(Edwin Collins)の‘ソル’を演奏することが驚くべきなだけだ.
もちろん、レコードには当代のヒットポップソングとともに<麦畑>のような歌曲も入っている.
あれこれ片っ端から演奏しなければならなかった韓国演奏人の肖像を見る気分だ(本人はこのレコードを聞いて、“恥ずかしい”と、再発売を“しないでくれ”と話したが再発売を推進中だ).


グループサウンド離合集散

‘アイドル’を組織して後援してくれた人物は、他でもないキム・デファンだった.
最近、‘Love 米’という公益広告で‘打楽の名人’として紹介された人で, ‘楽士列伝’の第2回に紹介したことがある.
‘アイドル’は短命だったが、チェ・イチョルはキム・デファンに抜擢されて、チョー・ヨンピルと共に‘キムトリオ’を結成する.
キム・デファンの調練を受けて、チェ・イチョルとチョー・ヨンピルはギターとベースを裏表に結び付けてギターとベースをかわるがわる演奏したという伝説的な話が伝えられている.
その時の事に関して尋ねると, チェ・イチョルとチョー・ヨンピルのどちらも“ものすごく重かった”と証言する.
より一層驚くべきことは、チョー・ヨンピルが“ツーギターシステムで共にギターを弾いてかわるがわる歌を歌うチェ・イチョルに比べて、私は常に実力が落ちると考えて、チェ・イチョルも私のように考えていて、互いに負けまいと非常に努力した”と語った事だ.
チョー・ヨンピルのように自尊心が強い人としては、容易にはできない話だ.
しかし、チェ・イチョルはいろいろな事情でキムトリオを辞めた.
韓国のロックグループは‘退廃風潮取り締まり’で萎縮し、離合集散が多かった時期だった.
チェ・イチョルは‘ヤングエース’(Young Ace) ‘北極星’ ‘ホットロック’(Hot Rock) ‘ソウル旅人’などの 名前でゴーゴークラブと米8軍ステージを行き来して活動した.
この時期にチェ・イチョルのサイドマンを自認した人物があったのだが, 後に愛と平和に合流することになる イ・ナミ(ベース)とイ・チョルホ(ボーカル・パーカッション)が彼らだった.
もちろん、その間にもメンバーは何回も出たり入ったりした.
1972年頃、チェ・イチョルがキムトリオを脱退した後、イ・ナミがその後を埋めたこともあって, 1973年頃には シン・ジュンヒョン イ・ナミ チェ・イチョル キム・ギピョ ムン・ヨンベで構成された‘オールスターチーム’が存在したこともある.
イ・ナミは ‘シン・ジュンヒョンとヨプジョンドゥル’に合流し、1974年から1975年まで大衆音楽界を活動し、維新政権の撤退を見た.

写真/最近のチェ・イチョル.

チェ・イチョルには、二度の運命的出逢いがあった.
ひとつは、1973年頃、大邱のナイトクラブであるイブ(Eve)に演奏しようと行ったところ、‘隣室に下宿していた’キム・ミョンゴンに会って意気投合したのである.
今は故人になったキム・ミョンゴンは、1980年代以後 <ビングルビングル>(羅美), <パランナラ>(ヘ・ウニ), <歓喜>(ジョン・スラ), <ジーンズのアガシ>(パク・サンミン)などのヒット曲を作曲し、上の歌手を含む、ク・チャンモ ソン・テグァン イ・ムンセ・シン・ヒョンウォン シン・スンフン 等、多種多様な歌手のレコードに‘キム・ミョンゴン編曲’という語句を残した人物だ.
恐らく、1980〜90年代にヒットした‘流行歌’中で‘聞くだけのことはある’と考えられる曲なら、編曲者がキム・ミョンゴンである確率が40%は超えるだろう.
‘5千曲を編曲した’という, キネスブックに載る価値のある記録を残したキム・ミョンゴンに関しては、本当に‘トリビュートアルバム’でも一枚作るのが後輩たちの道理だろう.


“イチョルがスターになるのを見たい”

もう一つの運命的出逢いは、イ・ジャンヒとの出逢いだ.
ロイヤルホテルのナイトクラブで演奏していた頃、チェ・イチョルのグループが演奏するのを見ようと来たイ・ジャンヒがある日、“イチョルさん, 君がスターになるのを見たい”と話したのである.
当時、イ・ジャンヒは東亜放送で<0時のダイヤル>の人気DJとして活躍中であったし, <それは君> <一杯の追憶>を通して歌手としての声価を上げている頃だった.
チェ・イチョルのグループは東亜放送スタジオを練習室のように使用しながらドラマ音楽を作って、時折りライブ演奏も聞かせた.
当時、東亜放送ラジオを熱心に聞いた人なら、チェ・イチョルのバンドがブラッドロック(Bloodrock)の<セイブル アンド パール>(Sable and Pearl)を演奏するのを聞いたことだろう.
そうこうしながらある日、イ・ジャンヒが放送の途中に黒いジープに乗せられていく、慌しい体験もした.
このように、大麻草波紋の寒波が過ぎて、活動規制に縛られたイ・ジャンヒがレコード製作者に変身しながら、チェ・イチョルのグループ 愛と平和は、はじめて‘大ヒット’を記録することになる.
愛と平和に関する話は新年に続けてすることにしよう.
‘愛と平和が満杯な年末年始’を送った後に….

シン・ヒョンジュン | 大衆音楽評論家