2003年9月ハンギョレ21 477号

[舞踊] チェ・スンヒの芸術魂, 伝説から現実に
[ 文化 ] 2003年09月25日 第477号

[舞踊] チェ・スンヒの芸術魂, 伝説から現実に
創作ミュージカル<チェ・スンヒ> 公演を前にして ソン・ジンチェク・キム・ソンニョ夫婦が語る‘チェ・スンヒとアン・マク’


劇団ミチュを率いる私たちの時代の演劇人 キム・ソンニョ(53), ソン・ジンチェク(56)氏は、27年の夫婦生活の間、その共存の方法を提示してきた.
ステージを輝かせる俳優として, また、俳優が光るステージを指揮してきた演出者として、彼らは家族であることに先立って同志であった.
強風が厳寒の慶尚道の8人家族の家に吹き込んできて、涙と鼻水で悩む妻をいたわりながら、 夫は‘暖かいお母さん’‘善良な息子の嫁’よりは、‘良い俳優’であることをまず願った.
妻もやはり夫が演出者としての自尊心を持ち続けられるように、家計の責任を負おうと、テレビ連続ドラマ, ラジオ声優, レコード作業など、大して重要ではないことでも厭わなかった.
彼らは、新作<チェ・スンヒ>(9月26日〜10月2日 ソウル 芸術の殿堂 土月劇場)で踊りに生き、 踊りに死んだ舞踊家 チェ・スンヒの生を解きほぐしてみて、演劇という一つの目標のために走ってきた夫婦の哀歓を味わった.


‘チェ・スンヒ’役を担ったキム・ソンニョ氏と ミュージカル‘チェ・スンヒ’を作りだしたソン・ジンチェク氏.

夜12時を越え、リハーサル室の灯が煌々と輝いている京畿道 楊州郡 ミチュ山房で<チェ・スンヒ>を整えている彼らに会った.

写真/演劇人 ソン・ジンチェク ・ キム・ソンニョ氏夫婦から、アン・マク ・ チェ・スンヒの‘関係’をかすかに覗くことができる.(キム・ジンス記者)

劇団ミチュに10年目の身を置いているジョン・ホボン(彼は劇中で‘理想的コミュニスト’であるキム・ユン役を担った)氏は、自身が入団したばかりの時にも劇団事務室にチェ・スンヒのポスターが貼ってあったと記憶している.
10余年間、数多くの作品を作りながらもソン・ジンチェク代表の胸中には、常時チェ・スンヒがちらついていた.
彼は何故、このようにチェ・スンヒを忘れられなかったのだろうか?

“日本はもちろん、米国とヨーロッパ, 南米ですら大賛辞を受けたチェ・スンヒは、我が国で最も早く世界化した先駆的な女性でした. しかし、植民地と分断, 戦争という状況の中で、彼女の半生はあまりにも悲惨でしたよ. 貶下も美化もせずに、チェ・スンヒの人生それ自体を描いてみてみたかったのです.”


世界をステージとした先駆的舞踊家

チェ・スンヒ(1911〜69)は、スンミョン女子高等普通学校 卒業過程にあった14歳時、日本の舞踊家 石井漠の作品に感銘を受けて、‘世界で一番の舞踊家’になると、玄海灘を渡る.
石井の下で3年間修行したチェ・スンヒは、洋舞専攻者として朝鮮の踊りをやってみたいという熱望にかられて、キーセン踊りから草笠童まで、朝鮮伝統の踊りをひとつずつ学んでいく.
踊りに対する熱情に付け加えて、水気を含んだ柳の枝のようにしなやかな体つき, 豪華な外貌で、日本と朝鮮でスターになったチェ・スンヒは、終生の後援者 アン・マクを夫として出会いながら世界へ飛翔を始める.

“当代の‘天才’と呼ばれたアン・マクは、早稲田大学でロシア文学を専攻して、作家を夢見た文学青年でした. しかし、‘チェ・スンヒのような舞踊家が出てくるのは難しいが、作家はいくらでもいるので、チェ・スンヒのために最善を尽くしなさい’という石井漠先生の忠告を受け入れて、チェ・スンヒのために企画者, 演出者, 興行士になることに決めました. そして、チェ・スンヒに舞踊の道を開いてくれた石井先生を慕って、自身の名前も ‘マク’(註:日本語で「漠」)に変えたのです.”

チェ・スンヒを通して、朝鮮民族文化の自負心を持って朝鮮舞踊を再生させるために、 アン・マクはマネジャーとしてチェ・スンヒを徹底して鍛練させる.
当時、アン・マクがチェ・スンヒをせめたてる姿を見たある人は、“あたかも、漁師が鵜を訓練して、魚を捕ろうとしているようだった”と話す程だった.
だが、鵜と漁師のどちらも、魚を捕るという目標が明確だ.
より一層重要なことは、‘鵜が魚を捕ることを楽しむ’という事実だった.

チェ・スンヒは、冷静な姿勢を保ち続けるアン・マクに不満を持たず、猛練習に専念する.
以後、チェ・スンヒとアン・マクは、1937年から40年までの3年をかけて米国とヨーロッパ・南米を廻って、世界的舞踊家としての位置を固めるようになる.
これらの全ては、アン・マクがついていなかったら不可能なことだった.

チェ・スンヒ-アン・マクの関係に関連して、キム・ソンニョ氏とソン・ジンチェク氏は、“私たち夫婦は互いが互いに‘アン・マク’のような存在”と話す.
妻は夫の知的な刺激に助けられて大学院まで勉強を終えて, 夫は妻が舞台に上がってお金を稼いだために、‘好きなだけ’演劇をしてくることができた.
だが、同じ目標を見つめて数十年を生きるということは、それほど二人のどちらにもプロの熾烈さがなくては不可能だった.
アン・マクがチェ・スンヒを責めたてたように, 今でもこの夫婦は、互いの演劇で意味が合わない時には我慢できない.
今回の<チェ・スンヒ>を作る時も、ソン・ジンチェク氏がチェ・スンヒの有名な‘菩薩踊り’を他の俳優にさせるというと、キム・ソンニョ氏が劇の流れに合わないと、強く反発した.

“何年もかけて準備してきたのに、敢えて他の人にさせる理由があるわけがないですよ. 30分以上言い争いを繰り広げて、結局私が踊ることになりました.”

この 光景を見守っていたドイツ出身の美術担当スタッフは ‘ロング タイム アングリー シーン’とコメントを飛ばして、凍りついたリハーサル室の雰囲気を溶かしたという.

写真/ 1935年 石井漠 舞踊研究所時期のアン・マク - チェ・スンヒ夫婦と娘 スンジャ.

チェ・スンヒとアン・マクの人生は、解放後に越北をしてからドラマチックに展開する.
植民地末期、軍の慰問公演に立ったチェ・スンヒの履歴が、韓国で親日行為として批判を受けると、家族は小さな丸木船にからだを載せて北に行った.
若い時期に社会主義者だったアン・マクが、解放直前に中国イェンアンを中心にした朝鮮独立同盟に加担して独立運動をしたため、北の幹部たちとコネがあったためだ.
しかし、朝鮮戦争後、次官などの要職に上がったアン・マクは、政争の犠牲になり、‘米国のスパイ’だと追い込まれて58年に失脚する.
自然に、チェ・スンヒの生も平坦ではなかった.
金日成は“われわれ人民の民族的情緒に合わせてわれわれのやり方で作らずに、洋式舞踊劇をそのまま真似して作った”と、公開的に批判して、‘思想点検’の旋風中の67年、‘反党分派分子’として粛清され、2年後に死亡する.

母親の才能を譲り受けて‘人民俳優’称号を受けて、舞踊家の技量を繰り広げていた娘 アン・ソンヒも、この時共に粛清されたという.
<チェ・スンヒ>の台本を書いた作家 ペ・サムシク氏は、“一説によれば、アン・ソンヒは、その後、田舎の農場で脱穀機に巻き込まれて片腕が切断される事故に遭った”と、チェ・スンヒ一家の悲劇を伝えた.


北で悲劇的最後… 胸に彼らを秘めて

“演劇でチェ・スンヒは、夢のように送った人生を思い起こして、夫にこのように話します.
私は‘踊りと私だけを愛して生きてきた’と.
チェ・スンヒの生を眺めれば、芸術家のナルシズムが現実にぶつかって、どんな紋様を作りだしたのかが分かります.” ソン・ジンチェク-キム・ソンニョ夫婦の胸中には‘チェ・スンヒ’と‘アン・マク’は、共に存在したかの様に見えた.


ヤンジュ=イ・ジュヒョン記者 edigna@hani.co.kr