2003年7月ハンギョレ21 469号

人生はブラジャーの上を流れる
[ ファッション ] 2003年07月23日 第469号

人生はブラジャーの上を流れる
[キム・ギョンのスタイル アンド ザ シティ]

露出の季節に考える下着ファッション… 男性の視線から自由で堂々としている表現
以前、マレーシア出張に行った時に、濃厚なピンクのブラジャーを買った.
特に肩ひもが気に入った. そのストラップは、下着というよりはビキニ水着のそれのように、可愛くてなめらかに処理されていた.
普通人々が‘ナシ’と呼ぶタンクトップとマッチさせれば、とても似合うようだった.
最近、大胆な女子たちはトップのストラップとブラストラップを並べて露出させて着るためだ.
ところが、その夜、マレーシア観光庁で主催する‘フルーツ祝祭’に行く時、私はそのブラジャーを真っ白いTシャツの中に収めなければならなかった.
もちろん、そのTシャツは当然夏用だから、誰が見ても‘ピンクのブラジャー’をしているとわかる程に薄かった.
ガイドがイスラム国家の公式的な行事に参加する時は半ズボンやスリップはもちろん、袖のない服も絶対に着てはならないと言うきまりを聞いていたが、私は自らその‘スキ間市場’を攻略したのだ.
その夜、私は祝祭で数多くの回教徒男子たちの視線を受けて、内心鼻唄を歌った.
‘オブラディ, オブラダ, 人生は、ブラジャーの上を流れる’(Obladi, Oblada, Life goes on, blah!).

我が国の高尚な人様たちは、不分別な女が国に恥をかかせると舌を打っただろうが, どちらにせよ、行事に動員された全世界のメディアは、サバ州 王とマレーシア文化部長官が行事場に入場する瞬間、両側に並んで拍手するしかなかった.
だから、私がした‘こと’は、マレーシアの官僚主義に対する‘復讐’だったのだ.
その上、誰も不幸にならない復讐であるから, それがどれくらい愉快なことか?

露出のための夏用‘ストラップ’と関連した話なら、以前、それこそ大騷ぎになった‘ハ・ジウォン(註:写真)のパンティストラップ’のことを欠かせないようだ.
ハ・ジウォン側は問題が大きくなると、それが実はパンティストラップではなく、骨盤を補正するベルトだったと釈明したが、私としては、それがパンティストラップであろがなかろうが、どうでもいいではないかと思った.
率直に言えば、最近、子供達がインターネットを通して見る、想像するのもぞっとする画面に比較すれば、それは、ショービジネス界が投げ掛ける健康な見所に過ぎないようなものだった.
もしかすると、大人たちは目をつぶって何も考えずにあまりに小さな事にばかり憤慨しているのかもしれない.
また、マドンナがやれば性革命でも、ハ・ジウォンがやれば浅はかな商売根性として考える二重的定規も感服できない.
ところが、インタビューのために会ったハ・ジウォンは、“率直に非難されるのはそれほど恐ろしくない”と話した. より怖いのは、“まあそういうものだ”という反応だという.
マリリン・モンローが不幸だったのは、セックスシンボルではなく、芸術家になりたかったかったためだ.
だが、自身の性生活まで売ったマドンナは決して不幸ではない.
そのような点で、ハ・ジウォンの話は私を安堵させた.

時々、女たちはわざわざ服を浅はかに見られるように着る. もちろん、少なくとも、自分の目で良く見えたら、そのように着る.
ところが、ある女たちは、その低俗な姿の中に風刺を隠しておく.
反面、新沙洞の‘街の’アガシたちは清潭洞のしとやかな淑女のように着る.
何故か? 男子が好むのは、自分の女ではなく他人の女の露出だということを誰が知らないだろうか? 何年も前から、服の中に着るランジェリーではなく、服としてのランジェリーが流行していること, 女子がブラジャーストラップを果敢に露出させることができるのは、逆説的でも、男子の視線からますます自由になっているということを意味するのはでないだろうか?

キム・ギョン | ファッション誌〈バザー〉エディター