2003年4月ハンギョレ21 457号

アンチミスコリア ベク・ジヨン!
[ 人と社会 ] 2003年04月30日 第457号

アンチミスコリア ベク・ジヨン!
痛みを踏み越えて、また立ち上がった彼女, 女性商品化反対集会で平和メッセンジャーとしてステージに立つ


‘牡羊座の女性. スカーレット・オハラ(註:「風と共に去りぬ」のヒロイン)がその典型だ.
熱情的で, 愚かな程に衝動的で、慢心が強い. こういう女性には、勝利自体が最も重要だ.’
最近発刊された<女性のための心理占星学: セックスサイン>という本に書かれた‘占卦’を言うと, ベク・ジヨンさんは即座に緊張から脱した.
“この本は書店で買えますが、以前読んだ時にに予言があまり的中して恐ろしいくらいでしたよ.” そして、“<デ・ラ・グアーダ>の力強い公演を見ましたか”,“そこに出てくる女優たちの威厳があるふくらはぎが、どうしてあんなに格好良く見えるのかわからない”と、おしゃべりが絶えない.


女性団体に関する先入観を破る

写真/自身に対する愛と共に、人のための戦い 準備するベク・ジヨンさん. 4月の陽差しを含んだ彼女の微笑が爽やかだ. (スカイライフ ジョン・ヨンイル)

初めてベク・ジヨンさんを見た時、緊張して空虚な姿に、多少うろたえた.
すぐに活気をとりもどした彼女を見りと、2年前、記者会見場での姿が思い出された.
思いもしなかったビデオ波紋.
‘涙の記者会見’という言葉は、商業主義言論の‘創作’だった.
まさに彼女は、記者会見の終始驚くほど堂々としていたのだ. 涙を流したのは、ほんの刹那に過ぎなかった.
自分に向けて突き刺さる視線を受けとめながら、彼女は自分がしたい話を忘れなかった.
企画社と合意した‘台本’にはなかった話だ.
“ステージを愛して, 何より、自分自分を愛しています.”
内々のビデオを悪意的に公開した共犯中の捕まった一名は‘懲役2年’の実刑宣告を受けた.
そして、2年が流れたが, 世の中は今まで被害者であるベクさんを‘赦免’しないままだ.
“私は愛しただけ”と抗弁したが、誰も信じなかった. 全国ツアーコンサートや新しいアルバム発売など、再起の努力を傾けても、“もっと自粛しなさい”という冷たい反応は相変らずだった.

蟄居して暮らしてきた彼女が、最近、勇気を出した.
来る5月10日, フェミニストジャーナル<イプ>で主催する<アンチミスコリアフェスティバル>に参加することにしたのである.
美人大会と女性の商品化に反対するこの行事の今年の主題は、‘オー・ピース・コリア’(Oh! Peace Korea)だ.
ベクさんは、この日、女性に対するあらゆる暴力に反対する平和のメッセンジャーとしてステージに立つ.
公演ギャランティーは、全額をイラク女性助け合いに出す考えだ.

“今、最も不幸な人々は、まさにイラクの女性たちでしょう. 家族を失って、生命の脅威を受ける、大変な思いの人々を助けたいのですよ. そこに私が出かけることにはなりませんが, 人を助けることは、いつでもOKです。”

ビデオ波紋を体験しながら、彼女は“ああ, これでは私は死ぬかもしれない”と、絶望した.
その時期にも、唯一肩入れをしてくれたのは、女性団体だけだった.
言論の暴力を告発して出てきた女性たちは、必らず自分の事のように忙しく動いた.
その時でも、ベクさんは‘女性運動家は過激だ’という先入観があった.
そんなある日, ある女性団体を訪問してハッと悟った.
ある臨月の幹事を見た瞬間、彼女は‘ああ, 私も彼女たちと全く同じ女性だ’と、思ったのだ.

“人はどんな戦いで激烈になるのか, 自分の権益のために戦う時ではなく、他の人々のために戦う時なのかもしれないと考えました. 私は熱くなりました.”


強固な支え, 父

写真/スカイライフ ジョン・ヨンイル

友人たちとの酒の席でも、“君は男だから”と話すことが頻繁になった.
いまは、自分によって‘性暴行’, ‘サイバーテロ’など、女性問題に社会的関心が降り注がれたことに意味があると考える.
‘あの事件' があって、社会に対する関心がずっと大きくなった.
ベクさんは、すでに1年以上、東ティモールとアフリカなど、紛争地域の子供たちの支援活動をしてきている. ‘あの事件’直後から、大韓社会福祉会 ソウル嬰児臨時保護所で、捨てられた赤ん坊を世話することもした.

“奉仕精神というより、私が好きでしている事なんです. とても子供たちが好きなんですよ.
捨てられていた赤ちゃんを世話しようとしたら、私の家の前に嬰児保護所があったのです. 単純に始めたことですよ.”

実は、こういう話さえ用心深くする.
再起のための広報戦略として奉仕活動をしているのではないかという誤解を買うのが常だ.
それで、彼女は“こういう話をあまりたくさん書かないで”と要請した.
だが、彼女は幼い時から、子供や子犬のように弱くて幼いものに目がいった.
周囲からは“執着が強い”と話される程だ.

“幼い時から、誰かを世話することに中毒になりました. 思春期の時期に、おじいさんが病気で長く苦しんでいました. 母・父が皆職場に行っていたのですよ. 10代の時は、とにかく不満で一杯でしょう?. それで苦労しました.”

当時も今も、‘家のなかの事’はいつも長女の仕事だ.
生来の生気溌剌さをたたんで死との激闘を繰り広げるおじいさんの傍らで何年かの暗い時間を送ったが,‘誰かがしなければならない事’に対する責任感が育まれた.

今、その時の事をわびる父は、誰よりも強固な支えになった.
人々が記憶している‘堂々としたベク・ジヨン’の態度は、まさに父から学んだのである.
2000年12月31日、事件直後の‘告別コンサート’でも、父は娘が最もよく見える所に座って、終始見守った.
父の他に援軍を探すのなら, 自分のカムバックを願うファンたちだ.
去る4月12日、SBS<それが知りたい>の‘サイバーテロ篇’は、放映された後、無言で自分を支持していた人々が声をあげたことも“本当に, とても大きな助け”になった.

来る6月にはホームページを作って、‘ベク・ジヨンの相談コーナー’も運営する考えだ.
自分を信じて電子メールで相談してくる女性と青少年の悩みを聞くためだ.
しかし、今、何よりも重要なことは、4集アルバムを作ることだ.
以前よりも音楽的な欲が大きくなり、今回のアルバム作業時には作詞まで直接するようになった.

“悲しいけれど、希望的なユ・ジェハさんの歌が好きです. <選んで行く道> 考えなさい 裡里へ行くか, ジョリへ行くか, 遥かなところ一ケ所だけ…. 単純でしょう?. でも、そういう歌詞が本物ですよ. 自然に人々を動かせるでしょう. <デ・ラ・グアーダ>公演のように、柔軟で, 強烈でありながら、力があって、熱情的なステージも作ってみてみたくて….”
 
自分が夢見るステージを説明しながら、眼の色が強烈になった.
そのような彼女に, ステージとは、どんな意味なのかと聞いた.

“私はステージを愛して歌う歌手ではありません. ステージに立たないと生きていけない人なんです. 死ぬ瞬間まで筆を置かなかった老画家の心情が理解できます.”

自分の欲望を正確に知って実践する人.
世の中が自分を捨てても、自分が世の中を愛するだけで生きていくことができる人.
そのような人が、まさに‘女性’であり、‘歌手’であるベク・ジヨンさんだ.


イ・キム・ユジン記者/〈ハンギョレ〉スカイライフ部 frog@hani.co.kr