2002年9月ハンギョレ21 426号

やさしいタックルに親切な抗議… 地球上で最も異彩を放った南北統一サッカー大会 観戦記
[ 特別寄稿 ] 2002年09月11日 第426号

惜しい, 奇想天外ゴールセレモニー…
やさしいタックルに親切な抗議… 地球上で最も異彩を放った南北統一サッカー大会 観戦記

写真/ ジョン・ユンス 文化評論家.(ハンギョレ カン・チャングァン記者)

世の中で最も異彩を放ったサッカー大会が開かれた.
勝者も敗者もない, しかし、勝敗の地平を超えては, それでも勝負が決まらないため、やはりサッカーとは‘賭け’の冷酷な面が喪失しては困るという点をあまねく立証した, 名付けて‘南北統一親善サッカー大会’.


不快な常識外‘前官礼遇’

まず、電光版の文字が異彩を放つ.
大韓民国 対 朝鮮人民民主主義共和国でもなく、韓国 対 北朝鮮でもなく、‘南側 対 北側’.
現代史の悲劇がその表現中に濃縮されていることもあって、なんともぎこちない.
国際社会に公認された‘両側’の公式表現を避けなければならず, 韓国と北朝鮮という常識的表現も敬遠しなければならなかった主催側の行き過ぎた苦悩が産んだ表現だ.
もちろん観点を別にするなら、単に上村と下の村が競ったことであるので、むしろより‘同質的’でもある.

写真/ 南北統一親善サッカー大会は淡泊ながらも複合的で, 非政治的ながらも政治的なサッカーの場であったという点で、非常に興味深い試合であった.(キム・ジョンス記者)

南側ベンチの一番右側の席, その神聖な玉座の主人が 少しの間ではあるが正体不明の人であったという点も、異彩を放った風景だ.
元来、その場の堂々とした位相を確保するべきパク・ハンソ監督が脇の席に退き、ヒディンクが代わりに前半戦を守った.
ヒディンクとパク・ハンソは互いに最上の礼を尽くしたが、この‘絶妙の企画’をした人はいったい誰なのか.
この常識外の‘前官礼遇’は、監督の尊厳, グラウンドの神聖さ, 人間的礼儀を喪失した, サッカー100年の歴史で監督が自分の席に座っていない‘異彩を放つ’記録になってしまった.

親善競技ではないかって? しかし、町内サッカーでも‘守ることは守る’.
韓国-北朝鮮和合の場ではないかって? それなら、ヒディンクは何者か.
彼は大統領選挙街道を走るチョン・ムンジュンのエージェントとしてそこに 座ったということなのだろうか.

到底納得出来ない場面を演出したサッカー協会の‘異彩’は、飲酒運転を彷彿とさせる程、正常でない方向に疾走している韓国サッカーの断面がそのまま濃縮になった一場面なので不快だ.
選手たちも‘異彩を放つように’走った.
審判のホイッスル後、両選手たちはまさにグラウンドが命令する冷静な勝負の世界に没入したが、開幕前/開幕後の親善の雰囲気が選手たちの無意識を支配した.
やさしいタックル, 親切な抗議, 激励の握手と満足げな微笑で激戦のグラウンドは色とりどりな‘運動会’風景を醸し出した.
北朝鮮のミッドフィルダー ハン・ソンチョル(機関車体育団)は、後半37分頃 チェ・テウクに荒いタックルをして、チェ・テウクが倒れるといちはやく駆け寄った.
まもなく続く謝罪のジェスチャー.
それでも不足だというのか、ハン・ソンチョルは審判にも頭を下げ、クォン・ジョンチョル主審がイエローカードを取り出した後にも、続けざまに頭を下げて謝罪した.
観衆の拍手につながったが, すこし行き過ぎた.
ゲームそれ自体を吟味しようという‘一部サッカーファン’の立場では惜しみが残るゲームだったが、しかし、この地球上で唯一無二な異彩を放つ, その淡泊ながらも複合的で非政治的ながらも政治的なサッカーの場であったから、この点は興味深い要素だった.


Jesus loves North Korea…

威風堂々な演説で国際社会に明確な印象を残した北朝鮮のリ・グァングン団長のピリッとするような言葉も特異であったし、国際サッカー連盟(FIFA)の持続的な勧告, ゲーム直前のセレモニーをできるだけ短く終わらせるべきだという不文律を軽く無視しながら、国楽合奏団と合唱団の助けの下、<アリラン>の絶唱を見せた歌い手 ジャン・サイクの順序も興味深かった.
特に、当然の手順として両選手たちがユニホームを交換した後、大型の朝鮮半島の旗を持ってグラウンドを一周したゲーム直後のセレモニーもまた韓半島でだけ可能な‘悲劇のセレモニー’に違いない.
国内外のメディアがこの点に注目して、‘韓国-北朝鮮の和合の場’として表現したことも、やはり十分に予想された手順だったが、さてその場面が広まると、少しの間息を止めざるをえない,胸の片隅を重く揺さぶる場面になってしまった.
惜しいのは、韓国選手たちが準備した‘異彩を放つ’ゴールセレモニーを見ることができなかった点だ.
ゴールを入れてこそ繰り広げることができるセレモニーだったので、新世代期待の主たちが準備した奇想天外な興奮を見ることができなかった.
だから、少しの間想像だけしてみよう.

まず、先制ゴールを入れた場合.
ゴールを入れた韓国選手は、コーナーラインに走って行き、コーナーフラッグを抜いてグラウンドに投げる.
残りの選手たちは歓呼の声を挙げて、その旗を飛び越えていく.
その間、チェ・テウクは膝を屈して切実な祈りを捧げる.
選手たちはその旗を分断の象徴, まさしく休戦ラインとして跳び越えるようにしたのだ.
特に篤い信者であるチェ・テウクが分断の休戦線を跳び越える選手たちの傍らで切実な祈りを捧げる姿は, それが実際に演出された場合, そんなに笑ってばかりはいられない、興味深いながらも切実な場面になったことだろう.
追加ゴールがさく烈する場合も準備していたという.
三名の選手がユニホームを脱いで、下着に書かれたメッセージを世界に知らせるということだ. イ・ドングの‘南北統一’, イ・チョンスの‘われらはひとつ’, イ・ヨンピョの‘Jesus loves North Korea’がそれだ.
ところが、仮に追加ゴールまでさく烈して、このセレモニーを繰り広げたとしたら、まちがいなくイ・ヨンピョ選手のメッセージは論議沸騰するだろう.
特定宗教のメッセージが明確なだけでなく、なぜか‘北側’の事情を過度に勘案したような表現だ. その代わり、イ・ヨンピョは‘両側’すべてが最も華麗なプレーを披露することによってゲームの密度を高めたということに満足だった.

写真/ '統〜一祖国'より'大〜韓民国’がずっと大きく鳴り響いたのは、'南側'社会の平均的情緒をそのまま見せたことだった.(キム・ジョンス記者)

興味深く、異彩を放った大会だったが, 実は誰も否定できない重い空気が競技場を押さえていた.
北側の保安情報省と南側の国家情報院が水面下を管理し、数多くの安全要員が陣をはったという点は軽い論外の対象だ.
むしろ重要なことは、統一連帯側から持続的に繰広げられたキャンペーンにもかかわらず、まさに競技場内外では‘統〜一祖国’の叫び声がなかなか聞こえなかった点だ.
去るワールドカップ時のように‘大〜韓民国’はより頻繁により大きく鳴り響いたという点で、私はその風景が統一に対する‘南側’社会の平均的情緒をそのまま見せたと考える.
心に決めさせるならば、事前に充分な告知と合意と約束を周到綿密にして、ひたすら朝鮮半島の旗だけをはためいて‘統〜一祖国’だけがあふれ出るようにすることができたことだろう.


統〜一祖国, なぜかぎこちない…

しかし、それは不必要な誇張.
むしろ、頭ではそのように叫んでみたかったが、なかなか胸中からは沸き出ない, なぜかぎこちない, それでからだの内から溢れでる叫び声が‘統〜一祖国’とは違ったという点は、反省の課題ではなく省察の契機として貴重なものだ.
わたしたちはまだその段階にとどまっているのだ.
金剛山でも板門店でも、まだもう少したくさん会うべきだという点を, それがサッカーが、バスケットボールが、今後よりたくさん競わなければならないという点を, 頭の中の統一を胸中の統一として全化させるためには弁証法の第1原則, まさしく‘良質全化の法則’, であるので、今後もっと頻繁に会って競って握手しなければならないという点を明らかに確認させてくれた大会であった.
だから、‘北側’の大規模選手団が休戦線を越えて‘南側’に来る釜山アジア競技大会にかける期待がより一層重要になるのだ.