2002年1月ハンギョレ21 392号

一度に花咲いた男性的ファンタジー
[ 文化 ] 2002年01月09日 第392号


一度に花咲いた男性的ファンタジー
偽悪的な男と踏みにじられた女の愛を見せてくれる、
キム・ギトク監督の<悪い男>



写真/ '自分の恋人を売春婦にする方法'がサブタイトルである<悪い男>は、加虐と被虐の世界で、貴方はどんな態度をとるかを調べるかのように追い込む.


キム・ギトク監督は、順次国内よりも海外でより大きい知名度を得ている.
<島> <受取人不明>がベニス映画祭本戦に招請を受けたのに続き、7番目の作品 <悪い男>(1月11日 封切り)が、2月に開かれるベルリン映画祭競争部門に呼び出された.

<悪い男>の主人公は、愛を得ようと、‘彼女’を売春婦にして、自分の手中に収め, 愛を得た後には生計手段として‘彼女’のからだを売る.
その話が、あたかも加虐と被虐の間で貴方がどんな態度をとるかを調べているようだ.
私娼街のチンピラの親分のハンギ(ジョ・ジェヒョン)は、通りで偶然出会った女子大生 ソンファ(ソ・ウォン)に魅惑されるが、彼の恋人と群衆から激しい侮辱を受ける.
復讐心と所有欲に捕われたハンギは、彼が生きてきた方式通りに事を企んで, その計略に陥ったソンファは私娼街から一歩も抜け出すことができない身になってしまう.
ハンギは売春部屋の鏡と連結した密室のガラス窓を通じて、墜落するソンファの身悶えを見守る. そして、ソンファはハンギに同化していく.


男らしい男? 素晴しい男?

バカでもないのに、どうしたら大学生から即座に売春婦に転落できるのかと、荒唐無稽でもある. 無慈悲な暴力の前に無防備状態で, それも一人きりで露出させられた経験を持った人なら、道理なしに無気力になる境遇というものが、想像だけで可能なことではないということを理解する.
だが、自分を徹底的に破壊した対象を、運命のように愛するようになるということは、人間の保護本能あるいは利己心を考えれば、容易に納得するのは難しい.
“あたかも伏兵のように現れた他人によって全く考えなかった生に会うことになって、避けようもなくそのような生にされてしまう運命”を描いてみたかったという‘演出の弁’が、偽装のように感じられるのはこのためだ.
映画の視線を考えると、より一層そうだ.
偽悪的な人間たちの凄絶な本能がどのように他人をまた踏み潰しているかを、起きうることのように見せたことは初めてではないが, 今回は明確に監督の, 男性の、ファンタジーが介入していく.
ハンギの表面は、悪にみえるが、内心は全くの悪ではなく、むしろ、不憫な挫折と自己犠牲的な義理心でかたまっている. 映画の視線でみれば, ハンギは悪い男ではなく、素晴しい男だ.
そのような彼が自分のやり方で愛を占め, そして、‘彼女’もここに同意したから, 彼らが自ら選択した陋醜な生に愛情深い祝福が必要とされたのではないかと‘主張’する. キム・ギトク映画で、‘彼女’は、そのいつの時よりも他者化されて対象化になり、ファンタジーの充足手段になってしまった.
冷酷に見えるけれど、愛情が隠されている包主(註:売春宿主人)ウネのキャラクターや, 真昼の道端でおしゃべりをする売春婦たちの間にソンファが情感をもって割り込む姿を通じて、こういう世界にも主体の人間味があると話すことも、彼らに対する的確な抱擁として迫るよりも、このようなファンタジーが低級なのではないという修飾語として見られる. 売春婦をなぜ軽蔑の対象とみるのかという監督の視線通りならば, ソンファの顔から、ある瞬間の陰をつかみ出す方がつじつまが合うのではないだろうか.


“憤怒を表すのはおもしろくないが・・・”

キム・ギトク監督の映画には力がある.
誰が何と言っても自分のファンタジーを荒々しく押し通す力と、これを形状化する恐ろしく繊細な想像力! 話はどこまでも話であるだけだから、ここにどんな憤怒を表してもおもしろくないという監督の利口さまで.
その上、話の外側に行けば, <悪い男>は<島>で見せてくれた端正な画面と速度感を超える演出の手腕を感じさせる. どこにはじかれるかわからなかった刃が、鋭くなった想像力と大きな呼吸の下で、自由自在に調律されているようだ.


イ・ソンウク記者 lewook@hani.co.kr