2002年1月ハンギョレ21 391号

韓国漫画, 喪失感を語る
国産アニメーション<マリ物語>が奏でる、現実とファンタジーの変奏曲
[ 文化 ] 2002年01月02日 第391号


韓国漫画, 喪失感を語る
国産アニメーション<マリ物語>が奏でる、現実とファンタジーの変奏曲


アニメーション<マリ物語>(1月11日 封切り)が、3年間の作業の末に完成された.
これまで、<マリ物語>は手に余るほど多くの期待を受けてきた. さる99年、<薮の中のジェ>という作品で、国内では初めてアンシ国際アニメーションフェスティバル競争部門に進出したという経歴が付け加わったが, その注目の相当部分はイ・ソンガン監督に注がれた. 彼の完壁主義的指向に、虚勢ではない作家意識は、<マリ物語>が沈滞を越えて暗雲立ち込めているかに見える国内の創作アニメーションに、どんな打開策をもたらしたか、という期待感を呼び起こした.
3Dの3次元イメージを2Dに再変換し、会話的感じを上乗せするコンピュータ作業方式や, 閑静な漁村を背景に、海辺の少年ナムウと神秘の少女マリの出逢いを描くファンタジーラブストーリーという内容も話題になった.


友情で治癒されていく少年の傷

完壁な充足が可能な種類の期待感があるか, という疑問を念頭に置くならば、<マリ物語>は、国内アニメーションの新しい座標になるのに充分ふさわしい. なにより, 軽薄で騒々しくない、このような‘漫画映画’が以前にあっただろうか.
技術と誠実さが共になった奥深い絵体は、ある瞬間、ものすごく写実主義に固執する. 明るく晴れた空であったり、暴風雨が打ちつける闇であったり、漁村風景はドキュメンタリーカメラと競争するかのように実感溢れる雰囲気を演出する. 何より、モダニズム映画を見るような、日常に対する物静かな描写や、実際の俳優に演技をさせたような写実的な人物たちが、以前の‘漫画映画’にはなかった.
もちろん、忘れずにファンタジーが割り込む. 少年ナムウが、家で, 燈台で, 庭で、夢見るように陥る奇妙なファンタジーの場面では, 製作陣の言葉を借りるならば,“水中のファンタスティックな美しさと宇宙空間の神秘”が広まっている.

ラブストーリー云々というのは、違う. いっそ、成長映画といってこそ正しい.
雪が降る都市で、おとなのナムウが深い想念に浸る. 彼の喪失感と憂鬱、それで、ファンタジーに出会った自身の過去を回想する.
少年ナムウは、海が連れ去った父に対する記憶から、まもなく都市に転学するが、友人のジュンホのために胸が空虚だ. みずぼらしい刺身屋を営むお母さんとおばあさんさえがそれと無く触れようとしなくなったナムウのもうひとりの親友は家のない猫だ. ナムウは、その猫と一緒に神秘な少女マリに出会い, マリとの‘友情’は、ナムウの友人がつけた傷を癒してくれる.

ところで、随時交錯する事実感とファンタジーは、どちらか一つだけを選択した時の物足りなさを埋めるというよりは、亀裂を起こすものだ. 感動の連鎖反応にとって障害物になる亀裂. これは, 巨大でふわふわしている犬と空を飛ぶ魚が登場するファンタジー場面で、宮崎駿の<となりのトトロ>が度々思い起こされることと関連あるだろう. 精巧な事実感が、どこか貧弱なファンタジーの弱点を度々つつき出すのだ.

‘決定打’への物足りなさにもかかわらず、‘韓国漫画映画’が喪失感と傷に関する記憶を探し出したことはなかった. その上、成就することができずに度々押出されて、疎外される愛に対する追憶も. 現実があたえるはるかに遠い感じとファンタジーの美しさを同時に捉えようとする<マリ物語>は、ディズニーとジャパニメーションを安易に真似しない国産アニメーションに間違いない.

ギタリスト イ・ビョンウ氏が担当する音楽と、歌手 ソン・シギョン・ユ・フィトル氏の歌が美しく流れ, イ・ビョンホン、アン・ソンギ、ペ・ジョンオク、ジャン・ハンソン、ナ・ムンヒ氏が声の演技にたった.


イ・ソンウク記者 lewook@hani.co.kr