2001年11月ハンギョレ21 385号

ジャパニーズの絶叫 "自分は自分だ"
[ 動く世界 ] 2001年11月21日 第385号


ジャパニーズの絶叫 "自分は自分だ"
日本で最近封切された第3世在日同胞映画の細片が見せる、正体と実体性の混乱と傷

写真/ 映画 <青 chong> の パンフレット.

鉄路に降り立った少年は、地下鉄がほとんどプラットホームに到着すると, 地下鉄を後にして, 次の駅に向けて走り始める. 走る場面は停止画面に分割され, 解けない、自身の正体と実体性が狂ったように疾走する場面に重なる.
最近、日本で封切された映画<GO>の初めの場面は、このように荒くて重苦しい. だが、ザイニチ(在日同胞)の正体と実体性という重い主題は、愛, 暴力, メローという青春映画文法に忠実なエンターテイメントで包装される.


朝鮮学校の象徴は暴力

原作は芥川賞と共に日本最高の文学賞と呼ばれる第123回 直木賞を受賞したコリアンジャパニーズ(彼は自身がこのように呼ばれることを願う) 金城一紀の小説. 原作小説だけでも15万部以上が売れたベストセラーだ.
主人公 杉原は、中学校の時まで朝鮮学校に通ったが, より広い世の中を経験するために日本人高校に進学する. 初めて接することになる差別に、彼が対抗することができる唯一の対案は拳. バスケットボール場での集団いじめに対抗する主人公の演技は逸品だ.
以後、学校での拳ファイトの立て続く挑戦に対抗した彼の戦績は、24勝無敗. その挑戦者の中のひとりが、彼を非常に大事にしてくれる. その友人の誕生日のダンスパーティで、少女 桜井に会い、お互い恋に陥るが、在日韓国人という事実が彼らの愛を妨害する.
朝鮮学校の飛び抜けた秀才の友人 正日の突然の死, 北へ行った叔父の死, マルクス主義者だったボクサー出身の父との葛藤もやはり彼を悩ませる. だが、痛みは彼を成熟させ, 無数の逆境を通じて、彼はより一層成長する. 一種の在日同胞少年の成長映画というわけだ.

在日同胞 アイデンティティを扱った別の最近の映画では、リ・サンギル監督の<青-chong>と、やはり在日同胞3世の松江哲明が監督した映画 <あんにょんキムチ>がある.
若い新人監督の登竜門として最も権威がある第22回ぴあフィルムフェスティバルで、グランプリ等4部門を席巻したリ・サンギル監督の映画<青>は, 映画<GO>と同じで、朝鮮学校時のラブストーリーを媒介に、一在日同胞3世の正体と実体性を問うのがその主なテーマだ.
しかし、<あんにょんキムチ>は、これとはすこし異なる角度で、自身のアイデンティティを探していく.
韓国に対してそれほどよくないイメージを持っていた主人公が、おじいさんの死を媒介として, 自身の根を探しておじいさんの故郷の忠清南道を訪ね, そこで創氏改名と帰化という問題と遭遇することになる. 山形国際ドキュメンタリー映画祭で、アジア千波万波特別賞と最優秀アジア映画特別賞などを受賞した.

朝鮮学校学生の最も著しい特徴は、やはり‘暴力’だ.
<GO>で、ボクサー出身の在日同胞2世の主人公の父は、息子が幼い時, 君が拳を握って振り回してできた空間だけが、自分自身を守ることができる空間で, 自分という人間の大きさだと教える. 日本人高校に行っても、暴力だけが自分の存在を認識させてくれる唯一の窓口の役割をする. 一種の自己確認方式というわけだ.
<青>でも、朝鮮学校高等部3学年達と、やはり拳とナイフで威嚇する街のチンピラをとても簡単に殴り倒してくる. 教室で先生にぶたれて帰ってきた息子を見て、彼の父はすぐ“日本の奴らに殴られて帰ってきたのか”と尋ねる. 先生に殴られることはあっても, 日本の子供に殴られてはならない、ということが在日同胞2世の一般的な教育方針ということがわかる.


“俺はエイリアンでも、ザイニチでもない”

このような暴力と性格は違うが, 厳格に存在する別の暴力をこれらの作品は見逃さないのだが, それはまさしく朝鮮学校内部の暴力, 自尊心を守るための規律としての暴力だ.
‘朝鮮語を100%使用する運動’を繰り広げている朝鮮学校で、日本語を書いたという理由で、主人公 杉原はキム先生から‘民族反逆者’という言葉と共に無差別的な暴力を受ける. 真っ赤なスカーフを結んだまま列を組んで行進していた<GO>の杉原は、列とは正反対の方向に歩いていき, その道の末には血が飛び散る現在の暴力現場が置かれている.
これらの映画で、朝鮮学校がそれほど肯定的な姿で反映されていないのがわかる.

朝鮮学校はひねって描写され, たびたびギャグ化になるほどだ.
たとえば、<GO>で、杉原が戦いを繰り広げる時、どんなに殴られても倒れなかったのだが, それは<現代朝鮮革命力四-中級3>という本を腹に当てておいたためだったし, <青>で、教科書に載っていた金主席の写真を覆っていた紙で汗を拭く場面などがそれだ.
朝鮮学校に対する、迂迴的だが強烈な抵抗意識をのぞくのは、それほど難しくはない.

だが、このような問題意識は徹底的にラブストーリーで包装される.
<GO>で、少しでも深刻な場面があるならば、たいてい“これは私の恋愛話”というコメントで観客を安心させる. 実際に荒くて重いテーマは、甘いラブストーリーにつりあうように溶け込んでいる.

だが、惑って悩んだ末に、杉原が自身が‘ザイニチ’という事実を告白した時, 恋人 桜井が見せた態度は、この映画で恋愛話が決して包装ではないということ, ザイニチという問題がどれくらい日常の奥深い所で問題視されているかを力説してくれる.
桜井は“怖い”と言いながら、彼の手を避ける. “韓国人や中国人とは付き合うなとパパが言った”と言いながら.
懐かしさの日々が過ぎて、クリスマスイブ, 桜井の連絡を受けて行った杉原が絶叫するように吐き出す台詞, “俺はエイリアンでもなく, ザイニチでもない.” “俺は俺だ.”たてがみ頭を翻す窪塚洋介のタフで強烈な演技力が付け加った長い絶叫は、多分にスクリーンを圧倒する.

‘国籍’に関する在日同胞の悩みを描いた大きな課題も注目するに値する.
<GO>で、在日同胞2世の父スギルがハワイに行ってみたいからと, 在日朝鮮人から在日韓国人に国籍を変える. 総連活動を熱心にし, 弟はいわゆる‘帰国運動’で北帰還船で北方に戻ったが, 息子の将来を考えて国籍を変えたのである.
だが、息子には選択を強要しない.
ある日、海辺に息子を連れて行って、海を共に眺める. “遠くの海を自分の目で見て、考えて、判断しなさい”と.


国籍は生活の問題

写真/ バスケットボール部で集団いじめを受けると、皆を相手に戦いを繰り広げた後捕まえられた<GO>の杉原(最頂上). <GO>の直木賞を受賞した原作小説(左側下). 映画<あんにょんキムチ>の映画パンフレット(右側下).

<あんにょんキムチ>は、在日同胞から日本に国籍を変えた場合だ.
だが、映画はこのような問題を深刻なトーンで処理しない.
主人公の母親は家の奥深い所に置かれていた父親の帰化申請理由書を取り出して読んでくれる. そこにはこまごまとした生活上の理由と家族に関する話が記されている. 息子をみつめて,“お前はこういう気持ちを理解できるのか?”と尋ねる.
帰化問題は、大層な理念の問題ではなく、単に生活の一部分に過ぎないというように. 主人公の妹も、“おじいさんが日本に渡ってきて結婚して, 父さんは日本で母さんに会って, それで私達が生まれることができたのではないの”と言いながら軽く笑う.
自分は“日本がずっと楽だ”と言いながら、彼だけごろんと横になる. 深刻に考える必要がないわけではないだろうというしぐさだ.
<あんにょんキムチ>の最後の場面. 家族の皆は各自、自分が好きな国旗を選ぶ. おばあさんは韓国旗, 母親・父親は韓国旗 日本旗, 米国人と結婚した叔母は米国旗, 妹は日本旗を選択する. 国家と国旗がもった巨大談論が、とても軽く反転してしまう. あたかも、嗜好食品のように.

だが、‘名前’問題に至ると, 彼らの悩みもそんなに簡単ではない.
もう少し徹底した日本人になるために、自身の墓碑銘さえ日本式の名前を使った<あんにょんキムチ>のおじいさん. しかし、彼も世を去り、火葬される瞬間には、過去の韓国名を使うしかなかった. 戸籍に日本名がなかったためだ.


名前は、世の中で最も短い呪い


“世の中で最も短い呪い”が正に名前(最近、日本の人気漫画 <陰陽師>の話のように)という言葉もあるが, 最後の瞬間まで在日同胞は名前から決して自由ではありえない.
<あんにょんキムチ>の主人公は、色々あった後、祖父の故郷 忠清道で自身の姓である‘松江’が、創氏改名当時に本来の韓国姓と本籍の江陵を日本式に結合した名前だという事実を発見する. 何らの連係さえないと思っていた自身の名前が持っている、そのような歴史性を彼はとても大切に考える.

<GO>でも、杉原の名前は、自身が在日同胞だという事実を桜井に告白する時、はじめて明るみになる. “名前とは何だろうか? バラと呼ばれる花を別の名前で呼んでも、その香りはそのまま….”<GO>の原作小説の最初のページに引用されている<ロミオ>の一節のように, 名前は在日同胞の宿命かもしれない.

だが、彼らの切迫した悩みを、韓国の人々はどれくらい理解しているか.
<あんにょんキムチ>で、主人公は韓国の遠くの親戚を訪ね, 自分が韓国人でありながら、日本人になれないだろうかと聞く. しかし、そのような問いは、あまりにも断固とした拒絶にあう. 帰ってきたのは‘半チョッパリ(註:"チョッパリ"とは日本人の蔑称)’という指差しだけ.

在日同胞3世の彼らは、自らを韓国人でも, 日本人でもないと答える. <青>でも, <GO>でも、彼らは一様に“自分は自分”と主張する. 在日同胞を民族主義イデオロギーという観点からではなく, まさに、彼ら自身の立場でまた考えさせてくれる、良い映画だ.


東京=シン・ミョンジク通信員 mjshin59@hotmail.com