2000年11月ハンギョレ21 333号

[文化] 50代の音楽? NO!

[ 文化 ] 2000年11月08日 第333号

70年代大衆音楽の代名詞 キム・チュジャ, シン・ジュンヒョンと手を結んでまた帰ってくる

hangyore00333_1.jpg (14730 バイト)‘タバコはチョンジャ, 歌はチュジャ’. 70年代序盤、こういう流行語があった.
当時のテレビ ショー プログラムごとに“不世出のダンシングスター”, “韓国最高の律動歌手”と先を争って紹介していたのは、歌手 キム・チュジャ氏の人気を端的にあらわす言葉だった. 当時、小学校にもまだ入っていないような幼女までがお尻を揺らしながら、口を揃えてキム氏の<嘘が(コジンマリヤ)>を一生懸命に口ずさんだ.
あらゆる歌手たちが愛国歌を歌うかのように、謹厳な姿勢で歌っていた時期, 波のように激烈にからだを揺さぶってさわやかに歌うキム・チュジャの登場は、90年代のソ・テジの出現に匹敵する程衝撃的な事件だった.

80年、結婚と同時に舞台からおりて行った後にも、彼女の歌と踊りに熱狂した人々は、一度もキム・チュジャを忘れたことがない. いまだに多くの父母たちは, キム・チュジャ時代の自分のような娘が‘ピンクル’とパク・ジユンに歓呼すると、“それでもキム・チュジャに比較すれば見劣りする”という言葉で一喝する.
しかし、キム・チュジャ氏は、この20年間‘髪の毛一本も見せずに’ 家の中に頑なに隠れていた. もう、彼女の年齢は49歳. 往年の人気歌手たちはナツメロ番組で顔を出すようなこともあったが、彼女はただの一度も現れなかった.


シン・ジュンヒョン リハーサル室のドアをたたいた新入生


そうだった彼女が、今は徐々に体を動かし始めている. 来年1月を目標に、新しいレコードとカムバック舞台を準備しているのだ.

“新しいことや見せることもないのに、時々放送に出ても、何か話す言葉があるでしょうか. ‘あの時が良かった’という風に追憶だけを反芻させるような歌手として残りたくはなかったんですよ. これまで、主婦として, 母親として、本当に大変でした. 朝5時半に起きて、子供のお弁当を作って、家の中を整理して、時には法事や祭事の準備をしたりという風に20年が過ぎていきました. 歌ですか? 歌いたくなかったと言えば、嘘になるでしょう。 ところが、ふたつのことを一度にするような性格になることができなくて、家事にばかり没頭して過ごしました.”

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あなたは遠くへ♪

無人島♪

花びら♪


時々、幼い娘は、活動当時のレコードジャケットなどを見ながら, ズボンや靴下を洗濯機から出す彼女に向かい、“ママは本当に歌手だったの?”と信じられないという表情で質問をしたりした.
今は、時々カラオケで“ママよりもっと上手く歌える”と、<無人島>を格好良く歌う高3の娘 ヘウォンにも、“ママはしたいことをしなさい”とそそのかされて, 教授の夫も“君の才能が惜しい”と奨めて、昨夏、それまでの姿勢を改めることにした. おりしも、先輩歌手だった企画者 イ・サンヨル氏が新しいレコード作業をしてみないかと提案してきた.

“若い時にしていた仕事をまたするということは、なんと気持ちの良いことでしょうか. ところが、活動再開を知るようになった周囲の方達が大きな期待感を表わし始めた時から心の重さが過度になってきたのも事実なんです.”

作曲家 ハ・グァンフン, キム・ミョンゴン, キム・フェガプ, イ・ホジュン氏などが、彼女に曲を与えることを即座に約束した. 写真作家 キム・ジュンマン氏とデザイナー ハ・ヨンス氏等、キム・チュジャ氏の熱血ファンであることを自認する人々も、彼女のカムバックアルバムに大小の助けを与えるために集まった. 70年代以後、なかなか人には曲を書いてくれなかった シン・ジュンヒョン氏も、快く彼女のアルバムに合流することにした.
私たちの大衆音楽史上最高の作曲家と歌手のカップルとして選ばれる シン・ジュンヒョンとキム・チュジャが、また手を結ぶということは注目するに値することは間違いない. 1969年春、まだ若い大学の新人だったキム氏がシン氏を訪ねた時、彼女は自分の未来をが予想できなかった.

“幼い時から応援団長を引きうけるほど、人々の前にたつことが好きでしたが、春川の田舎娘になにがわかるでしょう? 大学の新入生の時に喉自慢で一等になって、無条件に歌手になるという決心をしましたよ.”

彼女が作曲家 シン・ジュンヒョン氏を訪ねたのは、純然に “揺さぶるのが”好きだからだった. シン氏の周辺の人からは、“会うのは難しい”という冷笑的な反応を聞いたが、無知による勇敢さでリハーサル室を訪ねて、オーディション要請をした.
シン氏の不機嫌な表情は、彼女の歌一曲を聞いてすこし変わったが、彼の言葉は、“今後はリハーサル室にきて一生懸命練習してみなさい”だった.
しかし、オーディションを見て1ケ月にもならないうちに、シン氏は彼女に<遅くなる前に>と <ベトナムから帰ってきたキム少佐>の楽譜を渡した. その年の秋、デビューアルバムを発表するやいなや沸き上がり始めたキム氏の人気は、翌年連続ドラマ主題曲の<あなたは遠くに>で、爆発した.

“準備し始めた時は‘70年代のキム・チュジャ’のイメージから脱皮するために、シン・ジュンヒョン氏との作業を意識的に念頭に置きませんでした. けれども、あの方ぐらい私をよく知っていて、やりやすい曲をいただいていたというのではなく, 難しい先生の曲をあれだけ作曲者の意図通りに読んだ歌手もまれなのではないかという気がしました. これまで頻繁に安否をお尋ねすることもできなかったのに、即座に引きうけていただけて、有難いばかりですよ.”

今回出されるレコードは、往年の人気曲<乾いた葉>のリメイクをはじめとし、3-4曲程度をシン・ジュンヒョン氏の作品で満たす予定だ.


10回歌ったら 10回違う歌を


キム氏は、最近、毎日3-4時間ずつ猛練習中だ. 一週間に二日はソウルジャズアカデミーをリハーサル室として練習をして、あとの四日は二時間ずつミュージカル俳優たちとジャズバレーを学んでいる. カムバック舞台で素敵なダンスを見せるためだ. 練習が終われば、若い友人たちも疲れてぐったりする程だが、彼女はまたヘルスクラブに行って、一時間以上ランニングをする.

hangyore00333_3.jpg (13346 バイト)“私が五十歳だからと、五十代のための歌を歌うつもりはありません. また、最近、人々にアピールしているする特別な音楽をしたいわけでもありません. 20代にしろ、50代にしろ、ラジオから流れるわたしの歌を聞きながら、心の深い所で響きを感じることができる音楽を披露するつもりです.”

彼女は、最近の若者達の音楽をどのように思うかという質問に、“コンピュータで歌を作る時代に音楽が変わるのは当然なこと”と答えながらも、ぜんまい人形のように踊って口だけぱくぱくさせる歌手たちに対する嘆きも多いようだ.

“わたしは、10回歌ったら、10回すべてが違う歌にならなければならないと思います. その時その時、少しずつ異なる微細な感情の変化によって、声も, 動きも, 目の動きも変わります. そのような時、歌と踊りも自然にひとつになるんです. 私が歌う時、‘力を込めて’体をゆり動かすのを見ても、人々が醜いと思わないのも、そのような自然さのためではないでしょうか?”

キム・チュジャ氏は、音楽の話になると、粗野な処女の時のように目を輝かせて声を高めるが、娘の話になると“勉強がとてもよくできる”, “英語の発音が良い”と、微笑ましい感情を隠すことができず、娘の自慢をするのに忙しい, 平凡な私たちの周辺のママだった. ‘国内最初の女性ロッカー’,‘ダンス歌手の元祖’等、華麗なうたい文句でも足りない彼女の若い日が、20年間という歳月の貯蔵庫のなかで、どんな化学反応を起こして、新しい光を放つようになるのか、すでに気になる.


キム・ウンヒョン記者dmsgud@hani.co.kr

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