[ 文化 ] 2000年11月01日 第332号
終生貧困と戦わなければならなかった‘誇り高い’
画家 イ・ジュンソプ… 
妻とやり取りした、切々とした愛情の手紙
“画工 大郷(註:イ・ジュンソプの画号)は、実に可愛いナムドクを、どんな方法で愛すればいいのか、ナムドクの美しい心に大郷の愛情がぎっしりと満ちあふれるだろうか、よく考えていてくれ.
私の懐に抱かれる、可愛いただひとりの私の妻よ,
安心して私を信じて待っていてほしい.”
“貴方の力強い愛情を全身に感じて,
ナムドクはひたすらうれしくて、胸がいっぱいでした.
このようにまで愛を受ける私は、全世界の誰よりも幸福です.
これだけあれば、なにも恐ろしいことはありません. 充分です….
もう手紙を出します. 一日も早く来られるように急いでください.
夜は、貴方の写真を抱いて寝ます.”
玄海灘を越えた愛
(写真/イ・ジュンソプが
夫人に 送った 手紙.
色鉛筆で気持ちを込めた絵を描き、想いを表現している)
大郷(デヒャン) イ・ジュンソプ(1916〜56).
最も韓国的な絵を残し、それで、韓国人が最も愛する画家.
だが、生前はぼろきれのように貧しく、亡くなった後に画壇の神話になった画家だ.
彼は、3つのことで有名だ.
なによりも、画家として、韓国美術史で初めて絵の値段が号(ハガキ一枚の大きさ)あたり1億ウォンを超えた.
同時に、彼は詩人 グ・サンとの友情で有名だ.
あたかも、詩人 イ・サンと画家
ク・ボンヨンの篤実な友情のように、彼らふたりの友情も、やはり多くの逸話で伝えられる程、広く知られた.
そして、最後の一つ,
彼についてのもうひとつの話は、まさに日本人の夫人
イ・ナムドク(山本 まさ子)との、美しくて悲しい愛だ.
日本 文化学院
美術課に留学していた時期に出会った二人は、それ以来恋に陥る.
しかし、植民地時代に、支配国の男と被支配国の女の愛,
そして、将来が不確実な‘芸術家’と、三井グループ系列社の社長の娘の結婚は、始めから容易ではない道だった.
大韓海峡を渡ってきた夫人と、45年に家庭を設けた大郷は、二人の息子を授かったが、朝鮮戦争と貧困が彼らを連れ去った.
岳父が世を去り、夫人イ・ナムドク氏が遺産問題を整理しなければならないうえに、戦争中に栄養失調にかかった二人の息子の健康のために、妻と息子が1953年、日本へ出発したのである.
その後、夫人
イ・ナムドク氏は、日本で生きていくために生計をたてて頑張り,
夫は韓国に残って、一人で生計をたてながら絵を描く.
お金がすこし貯まったら、すぐに会うことを約束して、そんな4年を送らなければならなかった.
彼ら夫婦が大韓海峡を間に置いて、切ない愛を伝えた手紙が、最近一冊の本に綴られて出刊された.
1953年から55年まで、大郷が日本の婦人とやりとりした手紙を集めた、<イ・ジュンソプ,
あなたへの道>(ダヴィンチ発行, 9千ウォン)だ. 画家
イ・ジュンソプに関する本はいくつかあったが,
画家である以前の人間
イ・ジュンソプの容貌を見せてくれる本は、実はこれまでほとんどなかった.
そのような点で、この本は、彼が直接書いた手紙を通じて、家族に対する切々とした愛と、芸術に対する限りない渇望,
そして、人間的挫折と苦悩をありのままに見せる.
本のはじめから終わりまで、大郷はひたすら婦人と息子に対する愛と想いを詠じる.
夫人の足を大変愛し、夫人を‘足指君’と呼んで,
“二人の息子にチューをしてくれ”と、何度も反復する彼の姿は、笑いを醸し出す.
その反面、“うどんと醤油で、一日に一食食べる日と、運よく2度の食事を食べる日を送る”とか、“火の気のない冷たい部屋で犬の毛の外套を着たまま毎夜背を丸くして寝る”という一節は、彼がどれくらい貧困に押さえつけられたか,
それで、より一層家族に対する想いを増すしかなかったことを推察させる.
そのような難しい状況の中でも、彼は家族に対する思いを刺激にして、芸術魂に火をつけて絵の精進をする.
“芸術は、無限な愛情の表現です….
ただし、より一層深くて、厚くて、熱烈に,
無限に、大切なナムドクだけを愛して, 愛して、また愛して,
ふたりの澄んだ心に照らした、人生の全てのものを真に新しく製作・表現すればいいことです”という独白は、彼の絵に含まれた力と
価値がどこから出てきているかをよく見せる.
縁故のない死骸として消える
(写真/夫人
イ・ナムドク氏との結婚式(1945年) 写真(上).
(下.K詩人の家族) 家族と離れていた イ・ジュンソプ画伯が、55年、友人のグ・サン
詩人の家に留まりながら描いた作品.
大郷自身が右側に一人低く座って、詩人の家族の仲むつまじい姿をうらやましく眺めていて、当時の彼の孤独な心情を読みとることができる)
本の序盤部,
家族に対する想いが充満した手紙の内容は、後半へ行くほど難しくて辛い生の苦痛が明らかに表れる.
また、窮乏すると、挫折感に順次精神分裂症の気が激しくなることもうっすらと感じられ、大郷の気力が衰えていく様子も感じられる.
大郷は55年にソウルで展示会を開いて好評を受けたが、経済的事情は決してよくならなかったし,
それどころか、売った 絵の代金までが貸し倒れになってしまう.
当然、夫人の手紙はより一層唯一の希望であり,
大郷はひたすら手紙だけを待って、夫人に返事をもと頻繁に送ってくれと、不平を言うように哀願する.
手紙では明らかにしなかったけれど、56年秋、栄養不足で入院まですることになる.
そして、退院した後、大郷は“貴方と子供たちに絵を描いて送るつもりです.
期待して待っていてくださいね….
では、健康な知らせを待ってて”という手紙を最後に送った後、がらんとした病室で侘びしく世を去る.
彼の年齢は丁度四十歳だっ た.
三日後、友人たちが病室を訪れた時、遺体は無縁故者として放置されていて,
シーツには滞っていた入院費計算書が付けられていた.
少しの間生計を立て直そうと離れた夫婦は、そのようにして永遠に離別してしまう.
事実、人々は芸術家の作品だけを見るだけだ.
絵の感じと魅力には容易に惹きつけられたが,
その中に含まれた切々とした理由と、そのような苦痛がどのように画に昇華されたのかは、なかなかわからない.
大郷の絵を眺める人々の視線も、大部分はそうだ.
彼が格別、幼い子供たちと家族の姿をたくさん描いたのは、まさに生き別れた家族に対する切ない想いのためだった.
この本は、絵では予め聞かせることのできない、そのような裏話を伝えてくれて、大郷の芸術世界をより一層正確に深く
理解するようにしてくれる.
しかし、なによりも、この本は、今は感覚的で軽快だけど、その代わりにまた容易に揮発してしまう最近の愛の言語の代わりに、今はもう忘れ去られてしまった、真摯で率直な以前の世代の愛の言語を伝えてくれるという点で、むしろ新しく迫る.
あたかも、白黒映画の台詞のように、現在ではぎこちなくて面はゆく見えるけれど、半世紀前、彼ら夫婦の愛は最近の軽薄な傾向の中で、より一層新鮮でより一層切ない.
元来、この本は、さる80年代序盤にパク・ジェサム
詩人が日本語でやりとりした手紙を翻訳して1千部程が出版されたものだった.
しかし、非常に少なかったために、市中にはほとんど流通出来なかった.
そうこうしながら、ほとんど20年が流れた最近になって、また出刊された.
そして、当時にはなかった豊かな図録が付け加えられ、彼が手紙に書いた想いが絵の中にどのように昇華されたかを見ることができるようになった.
今年初めに出された、美術評論家 オ・グァンス氏の<イ・ジュンソプ>(シゴン社
発行, 1万2千ウォン)が、画家としてのイ・ジュンソプを教えてくれる本ならば,
この本は自然人としてのイ・ジュンソプを、イ・ジュンソプ本人が肉声でフィルターなしに、そのまま見せるという点で、イ・ジュンソプ神話から識別されている彼の容貌を伝える.
ク・ボンジュン記者bonbon@hani.co.kr
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