以前の関連記事 [新しい流れ] テクノバーで オホアッサ'ポンチャック
メドレー' (NEWS PEOPLE誌2000年6月422号)
何故 ティーンエージャーは 'イ・バクサ'に歓呼するのか,
アドリブがすごくて?
(写真/7月21日
胛鴎亭洞 クラブ シャドウで開かれた イ・バクサ公演. 黄色い頭,
赤い頭 20台の若者達が'ポンチャックメドレー'に熱狂した)
さる7月21日夕方, ソウル 江南区 胛鴎亭洞のあるクラブ.
髪を横に流した70年代式長髪に真っ赤なTシャツと半ズボンを着けた歌手がタンバリンを持って舞台に登場した.
“文化芸術を愛する学生及び紳士淑女の皆様,
イ・バクサのステージにお越し頂き、どうもありがとうございます.”
簡単なあいさつを終えた歌手は歌を始めた.
‘シンゴ山がウルルル〜’で始まり, <ハイスクール
ロックンロール>, <ヤングマン>(ヴィレッジ ピープルの ‘YMCA’開始曲),
<モンキーマジック>, <新タリョン> 等、8曲程度が休みなしに出てきながら、その間には‘ウリリリッヒ’,
‘オルシグー’, ‘チョアチョア’, ‘ミチョミチョ’,
‘オーヤッ’, ‘イッヒ’,
‘アッサ’等、合いの手が絶えなかった. 20台序盤に見える若い観客は、頭とからだを揺さぶって熱狂した.
最後に、代表曲の<私は宇宙のファンタジー>を叫ぶと、観客は走りまわって金切り声で叫んで歓呼した.
公演が終わると、ファンたちは室内のむっとする熱気も気にせずに、サインをもらうために長く列を作った.
新パラム(註:パラムは風のこと) イ・バクサ(本名 イ・ヨンソク・46).
160cm. 45kgの小さな体躯,
マイクを握れば、一時間や二時間は‘ポンチャックメドレー’をぞろぞろ並べる、この歌手が、最近ソウルの話題だ.
弘大前のクラブ街で人気を集めているだけでなく、各種インターネットサイトでは、ファンクラブとファンたちが作った非公式ホームページが10を超えた.
はやくから、カードライブ
ミュージック界を平定する
(写真/国内初発売するイ・バクサは、テクノバンドと呼吸を合わせた)
イ・バクサがこの土地の若者達に知られ始めたのは今春.
96年から98年まで、日本で活動したイ・バクサが、現地で出したレコードをファンたちがインターネットにMP3で上げながら、通信を通じて早くファンを確保していった.
この人気を感知した韓国ソニー社は、一早くイ氏と専属契約をして,
日本で出したレコード中からヒット曲を集めて、7月末、国内初ライセンスレコード
<李博士-Space Fantasy>を出す.
しかし、思えば、このレコードがイ・バクサの国内デビューアルバムではない.
イ・バクサは、日本で発表した6枚のアルバムを除いても、89年にだけでも19ものいわゆる‘観光バス
ポンチャック ディスコメドレー’カセットテープを発表し、100万枚以上の販売高を記録しながら、はやくからカードライブ
ミュージック界を平定した中堅歌手だ.
“国楽をしていた父が、還暦の時に私が生まれました.
母も歌では劣らない才能を持っていて、それを受け継いで生まれたのでしょう.
私がまだ生れて間もない時、父が客死したことによって、家がとことん貧しかったですよ.
それで、中学校を満足に終えることもできなくて、勉強はしませんでした.
その時から、アイスケーキから料亭のボーイ, 洋服店手伝い,
チャジャンミョン(註:ジャージャー麺)配達, 喫茶店厨房手伝い,
靴磨き, したことがないことがない程ですよ.”
10年間に14の職業を転々としながら、失敗に失敗を繰り返し、洋服店にそろそろ落ち着こうかという時に、彼の眠っていた「気」が発動し始めた.
“洋服店もどうにかこうにかなり始めると、もう面白くなくなったのです.
その時、たまたま誰かが、観光バス案内員をすれば、歌も思い切り歌って、お金もよく儲けることができるというではないですか.
78年秋から観光バスに乗り始めたところ. 人気爆発でした.
ところが、毎日明け方5時から11時までバスに乗ることにこの弱骨が耐えるのが辛く、それで、もう辞めようと決心しても、お客さんたちが‘今秋にまた会おうね’と、予約をして行くので、心がまた揺れて、それとともに11年をバスで送りましたよ.”
運命を変えた、日本ソニー社のピックアップ
(写真/公演が終わった後、ファンたちに
サインをしている イ・バクサ)
リクエスト曲をただの一曲ものがさないで、ぞろぞろ続ける彼に、乗客たちは‘イ・バクサ’という仇名をつけてくれた.
自由自在にアドリブを駆使して、ありったけの合いの手を入れる彼の歌のスタイルも、この時の‘ファンサービス’次元で開発したこと.
そのようなある日、ある友人がテープを一本持ってきて、電子鍵盤ひとつ置いて二時間ほど録音したのが、<新パラム
イ・バクサ>. このデビューアルバムが100万枚以上売れ、引続いた後続が、彼をカードライブミュージック界の皇帝に押し上げた.
“お金を稼いだかって? いやあ,
そちらがわの業界にいいようにされましたよ.
どれくらい売れているか、よくしらずに、私も印税が何かとか、こういうことをよく知らなかった時だから,
一度録音する時に100万ウォン受けとって, また500万ウォン受けとって、それで終わり.”
25本のテープを出して、約9割代の打率を誇りながらも、彼は相変らず生活に悩まされて、還暦祭りやキャバレーの夜舞台を転々として、96年までは大変疲れていた無名の時期を送った.
96年、日本レコード業界最高の席にあるソニー社のピックアップは、彼の運命を変えた.
単純でこっけいでコミカルな彼の歌に、テクノ的な可能性を発見したソニー側の計算は噛み合った.
“私はテクノがなにかも知らないのに.
ところが、若いお姉さんたちと学生たちが大受けで大騒ぎでした.
韓国では、ポンチャックといえば、低質音楽だと無視するでしょう.
ところが、学識高い大学生たちが受けてくれるのですから、気分最高でした.”
96年3月、国内民謡とディスコ音楽を合わせて、韓国語で録音した<イ・バクサのポンチャック
ディスコ パート 1&2>と、4月に発表した<イ・バクサのポンチャック大百科>が、若者達に人気を集め始めた.
韓国の世宗文化会館に該当する武道館で、公演をして、1万余の観客から韓国語で“愛てします,
イ・バクサ”という歓呼を聞いたりもして,
日本で高い視聴率を誇るフジテレビの音楽プログラム <ヘイ,
ヘイ, ヘイ, ミュージックキャンプ>に何年か前に出演したダイアナ・ロス以後、外国人では2度目の出演をし、ライブをした.
電気グルーヴ等、人気グループと共にレコード作業もした. “3年間、本当に暇なく活動しました.
テレビとか雑誌にもたくさん出ました. そして、98年に韓国に帰ってからは、また孝行祭り,
還暦祭りに通い始めました.
また、近所の歌手になったのが寂しくはなかったかって?
いや、お客さんたちが楽しければいいのですよ,
私が還暦祭りに行けば、みんなにどれくらい人気があることか.”
彼は、自身が韓国の若者達の間で人気を集めているという事実も、さる5月に知っていたという.
“さる5月10日, 友人から電話がありました.
スポーツ新聞に私が出ていたと,
その時、新聞を見て、ファンクラブがあるという事実も知ったのですよ.”
荒唐無稽でコミカルな歌詞
彼に対する音楽人の関心はもう少しは高くなった.
今年のはじめ開封された映画 <嘘>で、テクノサウンドと共に反復された男の声‘私は肉体のファンタジー’は、アンダーグラウンド
ポンチャック 歌手 ボルバルガンが、イ・バクサの<私は宇宙のファンタジー>をパロディした歌<私は
肉体のファンタジー>をテクノDJ風にサンプリングしたものだ.
ポンチャックといえば、観光バスや遊園地で酒に酔ってからだを揺さぶるアジュマ,
おじさんの領域だと考えていたティーンエージャーが何故イ・バクサに歓呼するのか?
“興味深くて、おもしろくて、良いって. アドリブが面白くて,
そして‘キッチュ’というか, 何故か野暮ったいのが良いのだとか,
私がきらりと光る靴を履いていって,
タンバリンを打って‘ウリリリッヒ’と叫べば、それが受けるのです.”
‘花束を懐にして、天の川と月と星を愛す惑星(チョア, ホッ!)/
宇宙の果てまで逃げても、妻はずっと私を追ってくる(オルシグッ)’(<私は宇宙のファンタジー>中)等、イ・バクサが直接書いた荒唐無稽でコミカルな歌詞もやはりこっけいさを好む若者達を魅了させる理由の中のひとつだ.
“特別に最高であるとか、一等になりたい欲のようなものはないですよ.
そのまま平凡な人々に好まれて歌う時、拍手をたくさん受ければ、それが最高だと考えています.”
インタビューを終えた後、イ・バクサは、‘名前’はよく知らないという弘大
前のあるクラブに向けて雨道を歩きだした.
からだより大きいかばんには、5年間、分身のように持って通いながら、あちこちを針金で修繕したタンバリンが入っていた.
キム・ウンヒョン記者dmsgud@hani.co.kr
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