全く色あせていないキム・スニョン・ジョ・ミンソン・ジョン・ソンスク,
長い間の空白を踏み越えてオリンピックの舞台に挑戦

(写真/ジョン・ソンスクの復活. 沈滞していた女子柔道界では'日照りに雨'のようなことだ)
アーチェリーのキム・スニョン(29・イェチョン郡庁),
女子柔道のジョ・ミンソン(28・全羅北道体育会)と
ジョン・ソンスク(28・仁川体育会).
スポーツに少しでも関心がある人ならば、名前を必ず知っている大型スターたちだ.
彼女たちに共通点があるとすれば、80年代と90年代中盤まで絶頂の技量を誇示している途中で現役を引退した選手だという点だ.
もう一つ共通点を探すならば、引退を翻意してファンの元にまた帰ってきて、シドニーオリンピックに向けて猛進しているという事実だ.
‘半信半疑’から‘驚異’の注目へ
キム・スニョン, ジョ・ミンソン,
ジョン・ソンスクは、現在、シドニーオリンピック派遣国家代表最終選抜戦を目前に控えている.
現役から引退した後、短くはない空白があったが、皆、全盛期時に劣らない怖い底力を発揮し、もう一度、太極マークをつけてオリンピック舞台に立つ可能性が高い.
昨年11月、1次選抜戦から始めたキム・スニョンは、6年間の空白にもかかわらず、5回の選抜戦をよく通過し,
これから2度の選抜戦を目前に控えている.
シドニーオリンピックに出場できる韓国女子アーチェリー選手は3人.
オリンピック本戦よりもむずかしい関門だ. 5次選抜戦を1位で通過し、最高の成績で6次戦に進出したキム・スニョンの代表選抜可能性は、現在残った8名の候補中の誰よりも高いというのが、アーチェリー人の一致した意見だ.
1次選抜戦にたった女子選手たちが70余名で選抜戦を闘う過程で、96アトランタオリンピック団体戦金メダルリストであり、98バンコクアジア競技大会個人戦金メダルリストのキム・ジョスン(洪城郡庁)と、99世界選手権大会個人戦金メダルリストであり、国際アーチェリー連盟世界ランキング
1位 イ・ウンギョン(韓国土地公社)
等、名うてのスターたちが脱落する異変の中で、キム・スニョンの常勝長駆は恐ろしいほどだ.
(写真/離婚の痛みを踏み越えて、執念でまた立ち上がった、ジョ・ミンソン.
国内では相手がない程の実力を見せてくれる) 
女子柔道70s級のジョ・ミンソンと63s級のジョン・ソンスクは、昨年9月、1次代表選抜戦と今年4月の2次選抜戦で各々優勝を占めて、国内には敵が無いことを立証した.
6月に開かれる最終選抜戦を経て彼女たちのオリンピック本戦進出が確定されるが、既に1,
2次戦優勝で高い勝点を確保したジョ・ミンソンとジョン・ソンスクが代表から脱落する可能性はほとんどないというのが一般的観測だ.
彼女たちが初めて復帰を宣言した時、半信半疑だった同僚や先後輩,
そして、ファンたちは、いまや驚異的な眼差しで彼女たちを眺めている.
復帰自体でもニュースの種を提供した
彼女たちは、それから言論の焦点があてられている.
華麗な現役生活, 惜しい引退,
そして復帰に続き、オリンピック代表選抜という過程自体が飾らないドラマであるためだ.
特に、キム・スニョンの復帰は、はじめから‘びっくりショー’とも言える一つの衝撃だった.
清州女子高2学年時の88年、ソウルオリンピックで団体戦と個人戦の二部門を席捲して名声を轟かせたのに続き、92年、バルセロナオリンピックで金メダル(団体戦)を追加したキム・スニョンが、現役から退いたのは93年春.
高麗大4年在学時、23歳の若い年齢で“これ以上成し遂げる必要がない”という言葉を残して引退した.
そのようなキム・スニョンが、6年ぶりにまた戻ってくると宣言したのである.
ファンたちは、彼女の復帰をなかなか真剣に受け入れられなかった.
なによりも、6年以上の空白を踏み越えて成功することは、決してやさしいとは見えなかった.
“金儲けするつもりなのか.”
“平凡な主婦生活に飽きたのだろう”という皮肉があった程だった.
しかし、キム・スニョンの復帰は、99年8月から大韓アーチェリー協会のシドニーオリンピックに向けた、野心に充ちたプロジェクトとして組まれた.
たまたまその直前に開かれた99年の世界選手権大会(フランス
リヨン)で、韓国アーチェリーが金メダル2ケを取ったことはあったが、世界舞台でも無敵だった女子チームが団体戦で予選脱落する等、多少不安な姿を見せると、アーチェリー協会の会長団が直接
き始めた.
キム・スニョンの選手時に格別の関心を見せたジョン・ムング
アーチェリー協会名誉会長の指示で、ユ・フンジョン会長等の会長団が直接キム・スニョンを説得に出て、たまたま選手生活に未練を見せたキム・スニョンが快く受け入れて、現役復帰がなされた.
“米国の女優ジーナ・デーヴィスのような人も、42歳の年齢で米国代表選抜戦に出て良い成績を出したという話に勇気を得た”というのが、キム・スニョンの言葉だった.
息子を離した‘毒蛇’の執念
(写真/キム・スニョンは、最高の成績で6次代表選抜戦に進出して、復帰に対する世間の疑惑を払拭させた)
キム・スニョンの復帰が決定されると、協会は水原にある慶畿体育高に練習場所を用意してやって、毎週
ジャン・ヨンスル国家代表コーチ(常務監督)を送り、技術指導をした.
その日その日の訓練成果は、きちんと会長団に報告された.
難しさがあったとすれば、キム・スニョンが二児のママだという点だった.
特に、当時生まれて9か月になった乳飲み子(イ・ジョンフン)を離して、訓練にたつことは、生易しい事ではなかった.
しかし、キム・スニョンは、果敢にも幼い息子を清州の実家に任せる決断を下した.
目標を立てて走り込んだ以上、過去の‘毒蛇’という仇名が色を褪せていないように、必ずオリンピック代表になるという執念の前ではどんな問題も障害物にはならなかった.
96アトランタオリンピック 金メダルリスト ジョ・ミンソンと94広島アジア競技大会及び95世界選手権優勝者
ジョン・ソンスクも、大韓柔道会の招請を受けた.
柔道強国だった韓国は、98年バンコクアジア競技大会以後断行した世代交代が失敗しながら、戦力が急激に弱化し、あげくの果てに、99世界選手権大会でノーゴールドに留まる衝撃を受けた.
柔道界では、成功的な世代交代のためにも、彼女女たちを切実に必要とした時期であった.
97年末、結婚と共に選手生活を締めくくったジョ・ミンソンは、性格の違いで夫と離婚した痛みと精神的な彷徨をマットにぶつけるという覚悟で、協会の招きを受け入れた.
98年12月、バンコクアジア競技大会を終わりにマットを離れたジョン・ソンスクは、日本
住友保険会社で選手兼研究委員として活躍中だったが、祖国の招請を快く受け入れた.
昔も今も、彼女たちの実力は変わることがなかった.
キム・スニョンは、6年間の長い空白にもかかわらず、2ケ月ほどの練習期間中に、世界新記録に該当する高い点数を射つなど、‘神弓’という名声にふさわしい、驚くべき実力を見せた.
しかも、年齢にともなう安定感まで増していた.
ジョ・ミンソンとジョン・ソンスクも、国内では当分相手がなくて、外国の相手をどのように破るかというのが、メダルの色を左右するといっても良い程で、現役の時期より色あせていない戦力そのままを見せた.
さる2月に開かれた、パリオープン大会で、ジョ・ミンソンが準優勝をとげ,
いまだにパワーと技術が残っていることを証明してみせた.
また金メダルに向けて…
‘帰ってきた神弓’という、新しい仇名がつくことになったキム・スニョンは、6次選抜戦及び代表選抜戦を経て、8年ぶりにテリョン選手村に入る資格を与えられて荷物を包んだ.
92年、バルセロナオリンピックを最後に引退したキム・スニョンが、8年ぶりにテリョン選手村にまた入村するという事実だけでも、大きなニュースの種であった.
キム・スニョンとジョ・ミンソン,
ジョン・ソンスクは、現在の実力だけでもオリンピックに出て十分に金メダルを競う程だという意見に、スポーツ専門家たちは同意している.
長くて12年前, 短くて4年前、オリンピック舞台を牛耳った往年のスターたちが引退と空白を踏み越えて華麗な復活を再現するのか期待されることだ.
しかも、女子選手たちが早老する私たちのスポーツ界風土で、このアジュマ隊の挑戦には、より大きな意味がある.
さあ, これから残っているのは、最後の関門だけだ.
忘れられた名前、キム・スニョン,
そしてジョ・ミンソンとジョン・ソンスクが引退後の復帰という、難しい決定を下したかいがあったのか、注目される.
その結果は、来る2000年シドニーオリンピックで、最終的に確認されるはずだ.
キム・ギョンホ/ スポーツトゥデイ 体育部 記者
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