2000年3月ハンギョレ21 298号

パク・ヨンヒョン記者の人物探険 “民衆の希望をパンソリで”
判・検事への期待を受けていた法科学生が、運命のように陥った国楽の世界


hangyore00298_2.jpg (10273 バイト)(写真/国立唱劇団員 ハン・スンソクさん)

80年代末にソウル大に通っていた人たちは、かすかにでも彼を記憶しているかもしれない. 白い農民服を着てケンガリ(註:鉦.小さな銅鑼)を下げた彼の姿は、春・秋に開かれる大同祭で, 図書館前広場の大規模集会で, 機動隊と対立した校門前で、いつも見ることができた. プク(註:太鼓)・チャング(註:長鼓)の音の後ろにこっそりと隠れていて、鼓膜を破る勢いでどっと登場し、数多くの‘若い 血’を騒がせる、ケンガリの音の魔法性.


キム・ドクス サムルノリに‘天地がひっくり返った’


しかし、それは、民主と正義に飢えていた時代に、純粋な血をもった若者達が出会った現場だったので、可能だったのだろうか. 2学年の時からずっと農楽担当を引き受けてきたハン・スンソク(32)さんは、技巧だけを前面に押し出すブルジョア芸術だと、振り向くこともしなかったキム・ドクス サムルノリの公演を、まさに‘偶然に’見たことで一瞬にして“天地がひっくり返った”. ‘私がしてきたことは、子供がするような水準だったのだ’と、恥ずかしく自分に評価を下した. 彼はケンガリの音に、どんな精神を込めようが、 音そのものの水準を高めるべきだという思いに、軍隊から除隊しても復学を先送りしたまま、キム・ドクス サムルノリに見習生として入っていった.


人間ひとりの行く道を決定づけるのに、偶然と意志は、各々どんな役割を持って介入するのだろうか?. ハンさんが法科に入学したのは、意志の所産というべきだ. 全南・珍島から光州に留学して、勉強だけができる高等学生だった彼は、記者になってみたかった. 法を専攻するのも、言論人になることができる道だという先生の言葉に、新聞放送学科の代わりに法科を選択した. ところが、法科生が法典の代わりに、ケンガリを聞くようになったのは、純然として孤独のためだった. “いとこがそこにいるんだけど、おもしろいんだ”という、同窓先輩の話を聞いて、なにをする所なのかもしらずに、伝統舞踊サークル ‘ハンサウィ’を訪ねた.

当然の通過儀礼として、楽器に触りながら、彼はケンガリに狂い始めた. 幼いときの記憶の中から威勢の良い音調がよみがえった. 彼の故郷では、名節(註:韓国固有の盆・正月)になれば、近所のおとなたちがチャングを叩いて遊んだ. 彼の家にもチャングが関わっていて、父と共にチャングのばちを削ったこともあった. プンムル(註:風物.農楽に用いる楽器の総称)チームを率いて校庭をまわると、故郷にきたような幻想に捕われることもあった.

彼がパンソリに陥ったのも、縁だった. サムルノリを学ぶうちに、名唱イム・バンウルのパンソリ一題目を録音テ―プで聞くことになった. もう一度天地がひっくり返った. 大学の時にはたくさん聞いていたが、聞いたことのなかった声だった. パンソリは、興奮させる代わりに恨(ハン)を表現することのできないサムルノリの限界を破っていた. 聴衆を笑わせ、泣かせ、また、歓喜の大団円でがんじがらめになった糸を解いてしまうかのようにするパンソリは、余韻が長い芸術だった. テープを聞いて、一人でまねをしてみ始めた.


hangyore00298_22.jpg (21037 バイト)そして、95年1月、公演を終えて帰るバスのなかで、アン・スクソン名唱と初めて縁を結んだ. 名唱の前で普段練習していたパンソリを一度やってみろという、意地悪な同僚たちの拍手にひきずられて立ち上がった. 彼の声を聞いたアン名唱は、一度訪ねてこいと言った. 初めのうちは、サムルノリ団員たちと一緒に一週間に一度ずつ訪ねてパンソリを学んだ. それほどパンソリに魅了されなかった団員たちが、彼の学習意欲についていけないと, その年の5月、ケンガリを置いて行ってしまった.

ソウル 新林洞の部屋で、妹に‘居候していた’時期だった. 明け方、冠岳山に登り、喉の目をさまさせて帰ってきて、昼食を食べて、アン名唱の家へ行った. 一人、太鼓などを担いで、師匠が帰ってくるまで、空の部屋を音で満たしていた. 深夜12時近くになって帰ってくることもある師匠から、10分でも1時間でも教えを受ければ、一日の日課が終わった. 授業料を他の人々の半分しか出すことができなかった時、叱られて自激之心に涙を飲んだ.

10年. 彼がパンソリにかけた時間だ. <ジョクビョク歌>を1年かけて習い、<スグン歌>は10月間習った. <ジョクビョク歌>は、授業を録音したテープが90分のものが64本だったが、<スグン歌>では21本に減った. ソン・ウヒャン名唱から、1年間<春香歌>を学んだ時は14本であった. 歌って窓の外を見れば花が咲き、歌って窓の外を見れば雨が降り、歌って窓の外を見れば落葉が舞う、と言われた師匠を見習って10回の星霜を送れば、パンソリを続けるだけのことはあるのかどうかの見分けがつくはずだ.

アン名唱は、彼に“遅く始めたから、1年に一曲ずつする覚悟で学びなさい”と言った. 一曲習う時間を、平均より3分の1に短縮しろという指示であった. 今は4番目の<フンボ歌>の半分を身につけた. 他の人々より速く学ぶのは頭が良いからだと考えるのは誤りだ. 遅く始めただけに、幼い時に始めた者より学習力では落ちるけれど、明確な目的意識があるので、受け入れる速度が速いのだ.

もう一つのことを言うと, 彼は自分だけの独特な記譜法を創案し遂げたという点だ. 口から口へと伝授されるパンソリに完壁な楽譜はありえず, それで、楽譜なしで学ぶ人もあるが, 彼は、最大限正確で、感じまで生かすことができる楽譜を体系化する考えだ. 今年進学した大学院で彼が研究する主題もこれだ.

持って生まれた才知はどうなのか. 才知がちょっと足りない人には難しい部分があると前に進めない. 壁を越えるために練習を繰り返せば、悲しい感情がいつのまにか入り込んで、声に生気がみなぎる. 才能があろうがなかろうが、100回練習した人よりも、101回練習した人のほうが良いというのが、彼の‘天才論’だ.


父の懐かしさに4年がかかる


彼を‘変わった存在’と見る視線を感じるときは, 名門大出身という看板を掲げることを、それだけパンソリに徹底できないためだと自身をせき立てる. その看板というのも、またどれくらい重い荷物を背負ったことになるのか. 父は、判・検事になる道を捨ててパンソリに狂った息子に“近所の人々に恥ずかしくて外を出歩けない”と、反感を露わにした. テレビに国楽の演奏場面でも出てくれば、見もしないでチャンネルを変えた. 父に会う時、懐かしさをそのままあらわすようになるまで4年がかかった. 今では、国楽番組を見て“おまえは何故、出ていないんだ?”と尋ねる程に変わった. 名節の時に帰郷する意欲も出なかった彼が、さる正月には、故郷 珍島で近所の人々を呼び集めて‘茶の間公演’を開いた.

パンソリ5曲に到達した後、“あの子はもう何でもできる”という言葉を聞ける時、彼は若い時期に粗雑な技巧に込めた精神を新しい境地で広げてみたいという夢がある. 5・18 光州抗争, ファン・ソクヨンの小説<ジャンギルサン>, 子供だけの家の話等、民衆の苦難と力と希望を精練された辞説で整えて、それをパンソリ音調に移すことだ. そこに、サムルノリも結合する考えだ.

運命のように陥った国楽の世界で、闘争と修練, 四物(註:サムル.打楽器4種)とパンソリ, 精神と技巧の弁証法をたどり、彼が取り組み行きついたパンソリは、どのようなものになるだろうか.

文 パク・ヨンヒョン記者
piao@hani.co.kr

写真 イ・ヨンホ記者
yhlee@hani.co.kr


ハンギョレ21 2000年 03月 09日 第298号 .

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